カフェ『mille nuits』幾千夜

上原美樹

1話完結


彼は人が苦手だ。

けれど街の人混みは好きだ。特にこの街の人混みは、彼を気にしない。彼に違和感を覚える人もいなければ目を止める人もない。だから、この街の人混みにいると、寄る辺ないけれど、一人ぼっちではない気がする。人の中にいて、誰にも気にかけられることなく、人を見ているのは好きだった。関わるのはとにかく苦手だった。うまく言えないけれど、面倒だったのだ。

なるべく人とかかわらなくて良い仕事にいつも就いた。しかももしも仮に誰かが自分に興味を持ち始めたとしたら、簡単に辞めることができる仕事にいつも就いていた。

最近始めた夜間の清掃作業は、黙々と床を洗ったり、モップの機械をかけたりしていれば、話さなくても不自然ではない感じが、彼にとって都合が良かった。

誰かと繋がっている感覚が、ひどく苦手だったので、当然のように携帯電話もパソコンももたなかった。持っていないからといって、生活していく上で、別段不自由はなかった。

しかしながら、派遣会社から連絡がつかないからといわれ、携帯電話を契約しに行き、店員がすすめるままに契約をした。

契約してすぐ、使い方になれようと、不定期にしか連絡を取らない家族に、久しぶりに連絡を入れた。連絡を入れない理由は、特に用がなかったから。しかも、必要な時には、手紙か、かなり数は、減ったが公衆電話でも十分間に合っていた。

母親は久しぶりに聞く息子の声に落ち着き払った声で、

「これでこちらが必要な時に、連絡がとりやすくなったわね。」

と言った。

すると、彼は突然、窮屈で見えない何かにぎゅうっと縛られていくような気持ちになった。彼が黙っていると、察したのか、母親が受話器の向こうから小さな声で、ばかね、わかっているでしょう?今まで通りよ、そんなに連絡したりしないわ、とささやいた。

彼は少し複雑な気持ちになる。家族とつながっていたい気持ちもあるし、今までのように自分が必要な時にだけ連絡できれば良いとも思う。

だんだんに、携帯電話を携帯することで監視されているような気になってしまい、携帯することが少なくなった。

いつでも不携帯な上に、未だに通話以外の使い方がわからない。というよりは、通話以外に使う予定も、興味もなく、結局は、部屋においたままだった。いつしか彼の携帯電話は、家の持ち運び可能な固定電話であり、目覚まし時計となっていた。


彼は、誰も目覚めていない早朝や、誰もが寝静まった真夜中を、空想しながら歩くのが好きだった。

日中は人の群れや切れ間ないクルマの喧騒で目眩がする街も、ひとたび夜になると、鏡の中に迷い込んだ別世界、深い海の底のような気がした。ここではないどこか、別世界に迷い込むような感覚が好きだった。

一日の仕事が終わり、作業着を脱ぎ、私服に着替える。そのまま通りに出て、ほっとため息をつくと、彼のため息がまるで深海魚の吐息のように、まあるい形の泡になり、暗い通りを漂っていく。彼は、海底をゆっくりと散歩する魔術師で、物思いにふけりながら歩いていくのだ。そうして、進む先で出会う、道端で眠っている家を持たない人たち、それから野良猫までもが、実はどこかの国の貴族で、おしのびに来ているところに、偶然、出くわしたような気持ちになったりした。

人のいない道を歩く時、人の息でごった返した日中とは違い、空を飛ぶ鳥のような自由、広い海をどこまでも泳いでいく魚のような自由をあじわった。

オレンジのナトリウム灯をまねたLEDライトが照らし出す街路樹の並み木も、昼に見るのとちがい、不意に現れた彼に魔法がかけられて立ち止まっているだけで、彼さえ消えたら、すぐに踊りだしそうに見えさえもした。

彼はビルの清掃をしながらいつも、様々なことを想像している。今夜は、誰もいない通りを行く『静けさ』と『風』について考えている。

誰もいない通りを行くのは、『静けさ』と『風』だけで、彼らは指を絡めて歩いている、と彼は思う。

『静けさ』と『風』は、傍目にもドキドキするくらい愛し合っている。指を絡め腕を組み、腰を抱き合い、歩いて行く。歩き疲れると、ほのかな明かりの灯る24時間営業のカフェを見つけ、お互いの顔を見つめながら中にはいる。

カフェの名前は『mille nuits』。

幾千夜、という名前のカフェ。ねむたげな給仕の運んできたエスプレッソをすすり、唇からカップを離す。お互いに見つめ合いながら、テーブルの上で手持ちぶさたな指を絡め、テーブルの下では、足を絡めている。彼らは、時折、エスプレッソの香りのするキスをする。オレンジ色の照明がぼんやりと灯る、実際には、入ったことがないカフェ『mille nuits』で流れる音楽を、彼は手垢で汚れたガラス窓を磨きながら考える。

 子どもの頃に、映画館で聞いた古い音楽が流れていると、彼はタイルの隙間にこびりついた汚れを取りながら考える。様々なモップの機械をかけてタイルをきれいに磨きながら想像する。部屋を、廊下を、ロビーを磨き上げながら知っている限りの音楽を頭の中で流している。作業と平行して、彼の意識は常に空想の世界を歩いている。祖父が連れて行ってくれた映画館の名前は、オリオン座。10月の終わりの朝の5時頃、海の方角に横たわる星座と同じ名前の小さな映画館だ。

彼は祖父と毎日のようにこの映画館に出かけて行った。

任侠映画に行くと、暗闇からすすり泣く男達の声が聞こえた。同じ映画でも日が違い観客が違えば、出ている俳優の名前を呼ぶ声が聞こえ映画館全体が妙な一体感に包まれることもあった。

また別の日には、モノクロームの映画の中で、逃げ出した王女が新聞記者と過ごした一日の物語が封切られ観客も任侠映画とはまた違う人々が集まった。

祖父は子どもを遊ばせることが苦手な人で、小さな彼を預かるたびに映画館へ連れて行き、そこで幼い彼に理解できる映画からさっぱりわからない映画まで実にいろんな映画を見せた。祖父だって、日本語の映画については、どこまで内容がわかっていたのかかなり怪しい。映画館での祖父は、いつでも眠っていたからだ。たまに起きているときに流れていたのは、モノクロの外国映画で、まだ幼い彼にはよくわからなかった。映画の最中や合間にかかる音楽は、いつも物憂げなジャズ、美しいメロディでほんの少しふるめかしい音楽だった。

掃除をする彼の口をついて出てくる鼻歌は、あの頃に聴いた音楽だった。その音楽は彼を満たすだけでなく彼が考えている『静けさ』たちが、エスプレッソをすするカフェ『mille nuits』にも満ちていく。しかしそれは、彼の頭の中だけのことであり、彼にだけみえている世界の話だった。

黄昏時に彼は、アパートを出て、皆が出勤に急ぐ時間に帰宅する。

西に傾く太陽の美しさなんてどうでもいいような喧騒。帰宅を急ぐ人たちの間を泳ぐようにすりぬけ、すりかわしながら、彼は仕事場に向かう。

時々、彼は立ち止まり太陽が地上を立ち去る瞬間の空で、繰り広げられる様々な色の駆け引きにどうしょうもなく惹かれて足が動かなくなる。ビルのあいだに沈んでいく夕陽は、家族と住んでいた街で見た夕陽とは色も大きさも違っていた。

オレンジと赤の間を行ったり来たりしながら太陽は、燃え尽きたように西に沈んでいく。

その情景は、彼をぎゅっとわしづかみにしてその場に立ち止まらせる。

人にぶつかられて我に返り、ぶつかってきた相手の顔も見ずにスミマセンといい、空を見たまま歩きだす。目を離せないまま歩き、時々耳に届いてしまう言葉に振り返る。

「おかしな外人にぶつかっちまった。」

「気をつけなきゃダメよ。ああいう人は怖いよ。」

おかしいかもしれないけれど、外人じゃない。怖くもないし、と彼は心の中でつぶやきながら少しだけ傷つく。

いつものことなのに、この言葉に慣れられず、傷ついてばかりで長いこと過ごしている。彼は、小さい時から人に見つめられた。祖父のイギリスの血が濃く遺伝している髪の色や瞳の色、肌の色が周りの子どもたちと違ったからだろうか。その髪の色や、少し茶色い瞳が彼と周りの子どもたちとの間に見えない溝を作り上げた。

正確に言うとその溝も、じつは周りの子どもたちが作り上げたというよりも、彼自身が彼の中で作り上げてしまったものでもあった。もともとおとなしい性格で、誰よりも目立ちたくない子どもにとって、他人に興味を惹かせてしまう容姿は、次第に少年を伏し目がちにした。年頃になると、背も高くなり、高くなった背のせいで、ますます他人から見られ、美しい顔立ちのまま小さい頃よりずっと人が苦手な青年に育った。

「身なりだけはいつもちゃんとしていて。他人は見た目で判断するから。家を出るときは、それなりの格好で出るのよ。」

国際結婚をした祖母から生まれた母も、同じように人の間から少し離れた場所で大きくなってきていた。特に美しい人と言う印象よりはおとなしいいつの間にか、自分で身につけた、魔法のような言葉を、今は息子に話していた。そのいいつけは、いつのまにか伝統のようにきちんと守られ受け継がれていた。鏡の前に立ち、アイロンのかかったシャツをとりあえず身につけながら、

「ちゃんとしなくては。」

とひとりごとをする。鏡を前にして、自分の顔を真正面にみつめることができないまま、髪を梳かす。特におしゃれしていなくても、伝統のようないいつけを守り、あまりだらしなくならないようにしていた。

学生の頃は、面倒くさくなると伊達メガネをかけて帽子を深くかぶり人目につかないように背中を丸めて、極力目立たないように過ごした。大学の授業を受ける傍ら、時間のあるときは映画館に足を運んだ。映画館は薄暗くて皆大きな画面に夢中だ。観客を気にする奴はいない。映画館でならどこでも、小さい時から通っているからか妙な安心感があった。卒業して大きな街に来てもう少し自由になった。

この街には、あらゆる人がたくさんいるおかげで、彼を気に止める人が少ない。視線から解放された彼は自由になって、昼間の買い物も前より苦にはならなくなった。

ただそれでも、昼間の仕事に就くのは、彼にはまだ難しかった。やりたいことがないわけではなかったけれど、やりたいことに手を伸ばす勇気がなかった。一つ一つやれるようになればいいと、自分に言い聞かせいていた。家族と暮らす歳でもなかったので、家をでた。とりあえずは、なにか長く続けられる昼間の仕事に就くことが彼のささやかな目標になっていた。

 それは、清掃の作業が終わり着替えているときだった。

「兄ちゃん、あんた、なんでこの仕事についたんだ?」

この言葉は、いつでも彼にとって『次の仕事へうつる潮時』の合図だった。

「兄ちゃんなら、他にも良い仕事在りそうだなって・・・。」

聞いてきたのは仲間を取りまとめる初老の男で、それまで挨拶程度で直接話しなどしたことのない男だった。男は毎日同じ服を着て来た。その服が何ヶ月も洗われていないということは誰が見てもわかった。けれど一緒に働く人たちは誰ひとりとしてそんなことに気にもとめないということも彼は知っていた。

彼は、かすかに微笑んでやり過ごそうとしたが男が畳み掛けるようにもう一度聞いてきた。悪い男ではないが、人と関わりたくない。彼はあきらめて口を開き、今日でこの仕事を辞めると告げた。男は、そんなつもりはなかったともごもご言った。

その日はちょうど一ヶ月分の給料が出る日だったので、キリもよかった。

「余計なことを聞いたかな?悪い悪い。もしかして気を悪くしたかい?」

男が言った、彼は丁寧に作業着をたたんだ。

「いや。別に。」

小さな声でつぶやいた。

それまでの給料を精算してもらい、誰にも止められることなく、彼はすんなりと仕事を辞める。

夜間作業のあとの朝日は、やたらと目に眩しかった。途中のコンビニでドーナツと牛乳を買い、うちに帰りつく頃には、近所の人たちが会社へ行く時間だった。隣の部屋から出てきた人と、目があった気がしたので軽く会釈をし、顔を上げると、それまで住んでいた男性ではなく女性だった。このワンルームアパートは人の入れ替わりがめまぐるしかった。

彼は、部屋に入りそのまま倒れるように眠った。その眠りはいつもと変わらず永遠に目覚めないのではないかと思うほど深いものだった。

夕方、いつものように仕事に行く時間にあわせて携帯電話の目覚ましが鳴り目を覚ました。

シャワーを浴びて、身支度を整える。シャツを着てジーンズを履く。

また少し、ジーンズがゆるくなったような気がする。ドーナツとコーヒーだけの生活じゃ痩せてしまうだろう。自分でも気づいてはいるが、食べることに頓着がなく、深く考えなかった。少し肌寒いように思え、カレンダーを見て、10月の終わりにいることを改めて知る。だから最近、空の色がやけにくっきりと美しかったのかと、妙に納得する。

あの空は、確かに10月の終わり。彼は、動物のように視覚や皮膚の感覚で季節を感じとった。

携帯電話の目覚まし機能が午後5時を繰り返していた。慌てて、アラームを止める。

本当なら仕事に出かける時間まであと30分という一番せわしない時間だ。

でも、今日から職なし。少しだけ不安。少しだけ自由。

ホーローのポットをガス台に載せ、お湯が沸くまでのあいだにコーヒー豆をガリガリと砕く。微粉を茶こしで取り除いてから濾紙フィルターに入れる。

お湯を中心から『の』の字の形で注ぐと、あたりにコーヒーの香りが漂う。

そんな時、彼はなぜかいつも祖父を思い出す。

祖父はコーヒーが好きだった。学生の頃に習った世界史で『ボストン・ティー・パーティー事件』以降イギリス人は紅茶が好きと聴いたけれど、イギリス人の自分の祖父が、コーヒーを好きだったので学校の授業もあてにならないと思った。祖父のティータイムは自分で豆を曳く分、コーヒーが出てくるまでに時間がかかった。

「仕事は、丁寧に。美味しいものはゆっくりと出てくる。」

祖父の言葉を自分に言い聞かせるようにつぶやく。心地良い香りが部屋を満たす。彼はこの時間がとても好きだった。コーヒーを飲みながら窓の外を眺めると、ちょうど夕暮れの、彼が一番好きな時間だった。開け放したままの窓から吹き込んでくる風は冷たくてよそよそしい感じの風で、もうすぐ冬に入れ替わることを告げていた。

ひとつくしゃみをして、慌てて窓を閉めた。

祖父は一度も帰国しなかった。少なくとも彼が知る限りは。

祖父は祖国に帰りたいと思ったことはなかったのだろうか。

彼は、行ったことがないイギリスという国に、行ってみたいと思うことはあっても、自分には手の届かない遠い場所だと思う。それに、イギリスに行っても祖父に会えるわけもない。

吐息が窓ガラスに触れると小さく曇った。温かい服が必要だと思う。

彼の持ち物は至極少なく、本当に必要なもの、それは長く使っているものが主で、季節ごとに必要になる衣料品のほとんどは、例えば、冬なら祖父の使っていたコートが1枚と、セーターが1枚とか、とにかく少なかった。

西の空は、今日も美しく様々な色を見せてくれている。暗くなり始めた街に、ポツポツと暖かな光の輪を落とすオレンジの明かりが灯り始める。カーテンをしめて、アパートのドアを開ける。今朝出かけていった隣の人がちょうど戻ってきたところだった。何をそんなにたくさん買ったのかと思うくらいの大荷物で、近所のスーパーの紙袋を二つ抱えてドアを開けるのに苦心していた。

みるにみかねて彼は、紙袋をとりあげながら、聞こえるか聞こえないかの声で言った。

「手伝うよ。さあ、鍵を。」

すこし驚き、戸惑い、鍵をカバンからとりだすのにてこずりながらも彼女は、鍵を開けた。彼から荷物を受け取ると、うれしそうにありがとうと言った。

「たすかりました。ありがとうございます。」

彼女の声は小さな白い花がゆれるようだと思った。

彼はものすごく良いことをしたような気になり、踊るように階段を下りていく。

階段を下りきってしまうと、何がそんなに嬉しかったんたと冷静に自分に問いかけてみる。

黄昏時の街はあたりがオレンジ色に満ちている。

行き交う人々はそれぞれの理由で急いでいるけれど、今日の彼には急ぐ理由がないのでうまく流れに乗れずに、人々の流れの中でたびたび溺れてしまいそうになった。人の流れからショーウィンドの前にようやく逃れてはみたものの、そこも待ち合わせの人たちでごったがえしていた。大きなため息をつきながら、ショーウィンドを見上げる。年末を前に、街は色とりどりのイルミネーションで華やぎ始めていた。

磨き上げられたショーウインドの中で、飾られているマネキンが着ている服は、どれも温かそうに見えた。彼は、その中の一枚のセーターに心をひかれた。乳白色のセーター。アラン模様でしっかり編まれている、見ているだけで暖かそうな、いや、見ているだけでもきっと高額に違いないと分かるセーター。もっとよく見たい。彼は、回転ドアをくぐって、外のマネキンが来ているセーターを探す。乳白色の他に、深い赤い色のセーターと、チャコールの3色があった。見事な手編みのセーターは、彼が想像していたよりも、もう少しだけ高額だった。

彼のポケットにはそれなりにお札があったけれど、見つけたそのセーターを買う事は、仕事を辞めたばかりの彼には贅沢に思えた。迷っていると、店員がやってきてあれこれセーターについて説明をし始めた。そそくさと帰ろうとしたが、差し出されたそのセーターに実際に触れてしまうと、昔一緒に暮らしていた猫に触れているようで手放せなくなった。

結局セーターを買い、にこやかな店員に見送られながら外に出た。

ポケットを探ると残ったのはわずかだった。

かすかな風が、昼間に感じた風よりも、もっと冷たかったので、セーターを買ったのは正解だったと小さい声で自分に言った。

冷たい風にのって焼きたてのパンの香りがしてくる。誘われるように、パン屋に入り、残りのお金で温かいクロワッサンをいくつか買った。パン屋のとなりの小さな果物屋が、店をしまう準備をしている。その店先のりんごの、赤い色に惹きつけられりんごをひとつ買った。これで、ポケットには小銭が数枚しか残っていない。

それから、2軒先の楽器店と併設されているCDショップに入り音楽を聞いた。今ではCDよりも音楽はデータで購入するのが主流になりつつあると言うのに、この店ときたら1階は楽器店とCDショップ、2階はレコード店となっている。

母国語の音楽は言葉がわかる分、耳につくので彼はうんざりする。だから普段聴く音楽も試聴するのも、よその国の音楽か、楽器だけの音楽だった。違う国の言葉の音楽や、楽器だけのメロディは、深く考えないで、聞き流すことができて心地よい。

気がつけばかなり長い時間、音楽を試聴して歩いていた。

彼のそばに店員がやってきて、少し意地悪に

「何かお探しですか?」

と聞いてきた。その声の主を見る。

目の周りは真っ黒に塗りこんだ上に、その服はどこに行ったら買えるのだと聴きたくなってしまうほど、鋲がいっぱいついた黒のライダースを着ている。あまりじろじろ見るのは失礼だと思っていたので目を伏せた。するとまた

「何か探しているの?」

とすこしだけ、たばこの香りがする声で聞いてきた。二回も聞かれて、さすがにいたたまれなくなったので、彼は店員の顔をじっとみつめて、絶対に売っていない古い楽曲のタイトルを言ってみた。

「すごく昔のアルバムを探しているんだ。戦争に行った兵士のために作成された、レコード、ジャズの名曲。キャットパーティある?」

「レコードなら、2階へ行ってみて。外の階段から行ける。」

顎をぐいとやって彼に指示をした。しかたなく彼は外へ出たが、2階には上がらずそのまま歩き出した。風が前より強くなっていた。シャツの首元を抑えてさっきより猫背で歩き出す。できることなら、あとすこしだけ、気だるげなアルトの声を持つ歌姫の声を聞いていたかったのにと思う。

帰宅ラッシュの少しあとの時間になっていても相変わらずの人の多さに、彼は少し気分が滅入る。お守りみたいにポケットを探るとサングラスに指が触れた。

人と目が合わないようにポケットから小さなサングラスをとりだし、慣れた手つきでかけると、彼は猫背で歩きはじめる。サングラスをかけていると、誰かと肩がぶつかっても軽く会釈しただけで、上手に逃げられると思っていた。

結局は、どんなことをしてもひと目についてしまい、猫背もサングラスも役には立たないということに、うすうす気づきだしてはいるものの、頼るものがほかになかった。むしろ完全な夜に近づきつつある時間のサングラスは、誰だって思わず見てしまうということを彼は忘れている。人の視線から逃げたい、彼にあるのはただそれだけだった。

いつでも、どこでもいろんな人に見られる彼は、誰かをジッと見つめることは不躾であると思っていた。彼は日々視線にさらされている分、視線は凶器だとよく知っていた。

「アナタノ瞳ッテ、不思議ナ色ヲシテイルノネ。」

耳の奥、心のずっと底の方でいつかきいた声が聞こえた気がした。だれだったろう。思い出せないけれど、胸の奥が少し、ちりりとした。

「ねえ。ちょっと。きみ!」

だれかが後ろから彼を呼んでいる。でも、この街でも知り合いはいなかったから、彼は振り向きもしなかった。すると、ちょっと腕を掴まれて、仕方なく彼は立ち止まった。腕を握るその男を確かめるように、少し粗野にサングラスの影からのぞく。

見たことのない男。見覚えのない男。彼には全くわからない男。

「あ!やっぱり!君だよ。僕のこと、覚えていない?もう3回も君に名刺を渡しているよね?いやあ。どうにも僕と君は縁があるな。ぼくが、惚れ込んでいるからかなあ。」

人懐こいのか馴れ馴れしいのか、その声の主いわく『今回が3回目の再会になる男』のようだった。そもそも名刺なんて興味がないものを彼が長く持っているはずはなかった。とはいえ、なんでも受け取ってしまうので、もらっている気もする。もらってすぐに捨てるのは申し訳ないので、まずもらわないようにこころがけてはいたが、けっきょくはいつも強引に渡されてしまう。もらってしまった時には、離れた場所でゴミ箱に捨てた。捨てる場所が見つからない時はうちに持ち帰り、その後おいた場所さえわからなくなりいつの間にか無くなっていた。

「三回も。君にあっているわけだ。運命だよ!」

と、その男は右手の指を、親指とお母さん指、それから中指の三本を器用に立てていった。男に運命を語られてもうれしくはないのが、真実だと思う。

「三回?」

「そう。三回。」

男から名刺をもらっていると言われ、彼は心の中で言葉を反芻しても思い出せず、目が宙を泳いでしまうほど動揺した。そもそも人に興味がない。全く印象にないその男をもう一度見つめた。面倒なことになりそうだとおもい、その場を離れようとしたが気がつくと腕を掴まれていて逃げられなかった。どうしても話を聞いて欲しいからと掴まれたまま、昨夜、空想していた名前のカフェ『mille nuits』に連れて行かれた。

初めて入るカフェ『mille nuits』は、彼の思っているような、照明の色をしていて、あたり一面に、コーヒーの香りが漂っている。夕刻をとおに過ぎていたので、煙草の匂いや、アルコールの匂いもしてくる。さざなみのようにささやきあう声の合間には、陶器の触れ合う音がどこそこで小さく響く。ただ、そこに流れている音楽は彼の思っていたジャズとは少し違う音楽だった。彼の辺り構わず店内を見回す様子は、周りの人から見たら挙動不審な若者に見えた。一緒にいる男は、左手で右肘を支えながら、右手を顎のあたりに添えて彼を少し面白そうに見ていた。

男は始終にこやかで、最後には次に会う場所や時間まで細かく書きこんだ名刺を握らせた。じっと彼を見つめていった。

「今度は、なくさないでよ。」

彼は、といえば、昨夜このカフェに入ってくつろぐ『静けさ』と『風』のことを思い出していて、実際には男の話などまともに聞いていなかった。

しかも男が熱心に話しているあいだ中、彼はカフェで流れる音楽に聞き入っていた。

彼が想像していた音楽とは違う、もっと街中でよく耳にする音楽だったけれど、つい先ほど、古いジャズ音楽をもっと聞いていたいと思ったまま楽器店を追い出されていたから、音楽に飢えていた。彼は男の話はもとより、出されたコーヒーにも目もくれず、流れている音楽をずっと聴いていた。手をつけないままのコーヒーが冷めて、彼の分までおかわりのコーヒーを男が注文した時も、彼は男の話ではなく、音楽を聴いていた。

「それで・・・。あれ、きいているよね?」

といわれるときだけ、男の話に耳を傾ける。

よくしゃべる男で、彼と差し向かってカフェにいるこの状況がどれくらい男にとってラッキーなことかを、ひたすらというか、延々としゃべっている。

途中、2杯目のコーヒーを運んできた女の子に男が何か言って、それに女の子がなにか答えながら、彼に話し掛けてきたが、うわのそらの返事で返すだけだった。

彼の耳に聞こえていたのはコーヒーの香りに乗ってふわふわとただよってくる音楽だけだった。

「必ず来てよ。待っているからね。あすはもっとちゃんと話を聞かせてくれよ。絶対、悪い話ではないから。」

言いたいことだけを一方的に話し続けた男が、席を立つ前のセリフが彼を現実に引き戻した。せわしなく男が去ったあと、彼の前にはサンドイッチと、新しく運ばれてきた湯気の立つコーヒーと道順やら場所やらが書き込まれた名刺が一緒においてあった。

「明日必ず来て。約束だよ。」

カフェで流れている音楽を聴きながらその声が、ジュリーロンドンに似ていると思っていたとき、彼の耳の奥で、男の言葉がこだました。我に返ると、まだ湯気が立ち上るコーヒーカップの脇に、日付と時間、それから場所が書かれた名刺が置いてあった。

テーブルに置かれた名刺を取り上げて裏に書かれた約束に目を通すと、あすもう一度男に会うと約束したことになっており、明日会う時間と場所が書かれていた。現実に引き戻される。

「え?これ。冗談だろ・・・」

サンドイッチにも入れたてのコーヒーにも目を止めず、出て行った男を追いかけようと席を立ち上がろうとしたとき、椅子ががたんと大きな音を立てて転がった。椅子をおこすこともせず名刺だけを握って、男を追いかけて店を出たが、すでに男の姿は見つからなかった。

「ねえ!ちょっと、お客さん!忘れ物。これ。」

声をかけられ振り向くと、さっきコーヒーを運んできた女の子だった。よく見ると、後ろで一つに束ねられた黒い髪と、下から見上げながら不機嫌そうな瞳と、きゅっと上がった唇の端がどことなくきつい性格を表しているように見える女の子だった。少し前に見た古い映画の女優にも似ている。

「なんなの、あなた。あなたさぁ、きいているの?聞いているのなら返事くらいするのが礼儀よ。さっきもそうだったけれど、一緒にいた人の話はもちろん、私の話だって聞いてなかったでしょ?言葉がわからなかったわけではないんでしょ?ちょっと、いい男だからってそういうの、すごくかんじわるいわ。」

そう言うと、クロワッサンとりんごの入った紙袋と、セーターの入った袋を彼の胸にものすごい力で押し付けてカフェに戻っていった。一瞬何が起きたのかわからなかった。胸に押し付けられた荷物の衝撃ではっとした。確かに彼女の言うとおりだと思った。それよりも、なによりも彼女の声は、ジュリー・ロンドンのようだった。彼は、押し付けられた彼の荷物を持ち直し、彼女を追いかけた。もしも彼女に追いつけて、もしも彼女が振り返ってくれたら、もしも、彼女が・・・。

カフェのドアが締まる直前、おいついた彼女の後ろ姿に向かって彼は早口に言った。

「ごめん。ごめんね。それから、これ、ありがとう。」

彼女に届いたかどうかわからないが、とにかく彼女は、振り向かずカフェに戻っていったことは事実だった。


彼がアパートに帰ると、ほぼ固定電話の携帯電話に着信を知らせるあかりが点っていた。確認すると、見覚えのない番号に加えて簡単なメッセージがあった。見覚えがないという時点で興味が持てなかったので、メッセージを聞く前に消去した。

今では冷え切ったクロワッサンをテーブルに置き、買って来たセーターに袖を通してみた。

セーターは確かに暖かだけれど、部屋はやはり寒いままだった。しかたなく彼はストーブに火を入れた。かすかに漂う灯油の匂いは暖かな予感を呼び起こした。セーターは暖かで、すっかり凍えていた彼は、少しずつ暖かくなっていく部屋で、カーペットに横になり名刺を持ったまま目を閉じた。それから少し移動して、街灯の明かりに向かい名刺を照らしてみたが、もう読めないほど部屋は暗かった。しかたなく部屋の明かりをつけ改めて名刺に目を通した。なにかの事務所の名前が印刷されていた。

のっていた電話番号に電話をしてみたが、すぐに留守電になったので切ってしまった。

この名刺は新しい仕事をくれる、彼にはそれがわかっていた。けれど気持ちがついていかない。かといって、辞めてしまったような夜の仕事だけでこの先食べていけるかといえばそうでもない、ということはわかる。そろそろ、昼間の仕事についてもいい頃というのも事実だった。

新しく夜の仕事をさがすか、明日この男にあってちゃんと話を聞くか。

どうしたらいい?彼は自分に問いかける。

この名刺の男は何かを熱心に話していた。

思い出せないけれど、彼自身に関わる何かを熱心に話していた。

「ちょっといい男だからって。」

唐突に、さっきのカフェの女の子の言葉が耳に蘇る。映画女優のような彼女の、リンゴのように赤く色づけられた唇をもい出す。

起き上がって、ユニットバスへ行き鏡を見る。いつもと同じ顔が鏡の向こうからこちらを見ているに違いない。

まともに自分の顔を見たことが数回しかない彼は目を閉じ、意を決して、自分の顔を真正面から見つめた。

昔と一緒の、淡い褐色の瞳、同じように柔らかな髪の色。色素の薄い肌のせいで血管まですけてしまいそうなほどともいえるし、単なる色白の顔にも見える。

繊細な頬の輪郭が彼を遠い昔に連れ去っていく。どこに行っても、彼は人から見つめられる。彼を悩ましてきたその顔は、すっと通った鼻筋をふくめなにもかもが祖父にそっくりだった。


「りんごを買ってくる。」

祖父はひと言だけいった。祖母はうれしそうに祖父の背中に言った。

「じゃあ、パイを焼くわ。いくつか買ってきてくださる?」

祖母は祖父の好きなアップルパイを焼こうと思っていた。祖父は振り向かなかった。だからその言葉に対しどんな表情をしていたのか分からない。

それから祖父はドアを開け、ドアを閉めた。いつもと一緒だった。

ただ違っていたのは、祖父はその日、帰ってこなかった。

十一月なのに九月の夏の終わりを思わせる陽気だった。

祖母はその年の冬に祖父に着せるためのセーターを編んでいた。

棒針をたくみにあやつりながら、祖母があんでいたのは祖父の故郷のアラン模様の生成りのセーターだった。

「おじいちゃんのセーターが編みあがったら、色違いでお揃いのセーターを編んであげる。」

彼は、祖母がそう言って、ほほえんだのを今でも鮮やかに思い起こせる。

そして、その日からしばらくの間、祖母が泣き続けていたことも思い出せる。

おもいだせないことは、祖父が着なかったセーターの行方と、編んでくれるといった約束の彼のセーターが出来上がったかどうかということだった。

「おじいちゃん。ぼくは・・・こんなにもおじいちゃんに、似ていたんだ。」

彼はつぶやいた。自分をいい男だなんて思ったことはなかった。瞳の色も、髪の色も、みんなと違う。ただそれだけ。でも、みんなも、みんなと違うじゃないか。僕だけが、違うわけじゃなかった。やっと伸びが止まったかと思えば、気がつけば周りとは頭一つ分違う身長といい、この容姿で良かったことなんて今までどのくらいあったか。

同性の友達を作るのも意味なく苦労した。異性は友達より、恋人になりたがった。

同性は、遠巻きに女の子に囲まれている彼を見ているだけだった。どうにかこうにか友達となった同性も、彼に興味を持つのではなく彼にまとわりついてきた女の子の話しかしなかった。しばらくすると異性は、思っていたよりつまらないと彼に向かって平気な顔で言い放ち去っていった。異性と同性が入れ代わり立ち代わりやってきて、同性は友達のふりを、異性は恋人のふりをしたがった。気がつけばどちらも信じられなくなっていた。

「・・・変な外人にぶつかった。」

「・・・いい男だと思って。」

耳の奥に残っているコトバと言ったら、いつも同じようなものばかりだった。

鏡の向こうの男は、自分なのか祖父なのか。彼とわずかに関わった人達が言い放った相手なのか。鏡は銀色の冷たい輝きを放ったままで、彼の問いに答えなかった。

成長が止まり大人になった鏡の中の彼は、昔、彼を映画館に連れてくれた祖父と同じ顔だった。

「こんな顔をしているから、おばあちゃんは、僕の顔を見なくなった。」

唐突に思い出す。祖母が時々、彼ひどく悲しげに彼を見つめていたことを思い出す。

祖母の瞳は、彼の周り集まったり離れていったりしただれかの瞳にも似ているような気がした。彼にしたら、集まってこようとも、離れていこうとも、気にもならなかった。どうせ、最後にはだれものこらない。誰もずっと友達で履いてくれなかった。

彼は握りこぶしで鏡を叩いた。鏡は大きな音を立てて砕け散った。いくつかが彼の頬をかすめ、頬を傷つけ血を流させた。そのうちのひとつのけが砕けた残りの鏡の破片の、一つ一つに彼が映りこんだ。


翌日彼は名刺の男のもとへ出かけていった。

男は彼が現れると思っていなかったので、彼が恥ずかしくなるくらい喜んだ。

けれど、彼が目深にかぶった帽子とマスクを外したとたん、声をなくして彼を見つめた。

「その顔・・・。」

男は、彼が何かを言う前に彼の腕を引っ張り、事務所の入っているビルを出た。

タクシーを捕まえて、彼と一緒に乗り込見ながら彼に言った。

「向日町の石端医院へいく。小さな病院だけど腕がいいから。」

タクシーで医者につくまで、男は彼に話し続けた。

「・・・ぼくは、ね。昨日、君には言わなかったけれど、君と初めてすれ違った時、ひと目で君に魅了された。こんなことは初めてだった。僕は君から目を離せなかった。だから、君に名刺を渡した。でも君は少し先のコンビニのゴミ箱に名刺を捨てた。名刺を見もしないで、そのへんで配られているティッシュみたいに、ポイッとね。いつもなら僕は、なんていうやつだとあたまにくるのに、君にはそう感じなかった。むしろ君に、より興味がわいた。君は誤解しているかもしれない。けれど、ぼくは君を、単に顔立ちの整った青年とは思わなかった。なぜだろう、君が何を考えているのか、もっと知りたいと思った。それで、実は、君に聞くまでもなく君を徹底して調べた。二回目に声をかけたときも、前回同様、君の視界にすら入らないぼくだったけれど、すでに君のことを熟知していた。本当のことを言えば、君が仕事を辞めたことも知っている。知っていたからこそ、これはチャンスだと思い君に声をかけた。だから、今回はかなり強引に声をかけた。僕は、ね。君は、君が思っているよりずっと、この仕事に向いていると確信している。もしも、ちゃんと話せたら、って。チャンスが来るのをずっと待っていた。

僕はかけていたんだ、今回は必ず君は来ると。僕はね、君の中に言葉では表せない魅力を感じた。それが何かわからない、わからないから分かりたい。

君に何度断られようと、必ずこの仕事につかせようと思っていた。君が何をしようとも僕は君を。」

男の声を聞きながら、彼は、なぜか中学生の頃のことをおもいだしていた。

運動場から聞こえてくる部活動のざわめきや、校舎から聞こえてくる吹奏楽の練習の音が聞こえてくる気がした。

机の中に教科書を忘れてきたことを思い出して部活を抜け出し教室へ行った。

3階の教室までの階段を駆け上りながら自分の息が上がるのを感じていた。教室に駆け込むと隣の席の女子が、教室の窓からひとり遠くを眺めていた。

窓を見ていた彼女が突然振り返って彼に言った。

「ねえ、もしも私が、本当は人間でなくて、海の神様の娘だって言ったら、信じてくれる?」

それまで、話したこともなかったのに、突然そんなことを聞かれて、どう答えたらいいのか分からず、戸惑っていると、気に止めることなく彼女は話をつづけた。

「わたし、鳥になりたい。今すぐこの窓から飛び出してどこかへ行きたい。夜はどこか小さな木の枝に止まって眠るの。それが無理なら海にかえろうかな。私の本当のお父さんがいる海に。」

「君の本当のお父さんって、海にいるの?」

やっと言えたのはこれだけだった。すると彼女は、彼に向かって一言言ったのだ。

「アナタノ瞳ッテ、不思議ナ色ヲシテイルノネ。」

そういうと、彼に近寄ってきて頬が触れそうなくらいの距離から、じっと彼の顔を覗き込んだ。

「何色・・・?分からないけれど、とてもきれい。」

賑やかでいつも友達に囲まれている印象しかない彼女の言葉を不思議な気持ちできいていた。気の利いた言葉が見つからなくて、彼女の後ろに広がる街を遠巻きに見ていた。夏になる少し前の、梅雨が終わりに近いことを告げる青い空が彼女の輪郭を彩っていた。つづけて彼女が何かを言った。

その何かが聞き取れず、もういちど聞き返すこともできず、答えないまま、だまって逃げるように教室を出た。

キラキラしていた海が遠くに広がる窓を背にして彼女は立っていた。

彼は教室を出て真っ直ぐに靴箱へ向かった。

スニーカーを履くのがもどかしくて、かかとを踏んだまま、校庭へでた。

先輩に遅いぞと言われバスケットボールを取りに行きながら三階の窓を見上げると、彼女は、まだそこにいて遠くを眺めていた。すぐ下の彼に気づくことなく、彼女は、ずっと遠いところを眺めたままでいた。

心がぎゅっとするような気持ちになって、視線を空に移すと、白い影を引いて飛行機が南西へ向かって飛んでいくのが見えた。飛行機が通ったあとにできる雲は、ひとつの道のようにも、細かく渦を巻きながら、空を割いていくようにも見えた。左右に切り開かれた空がたった一つの青い色からできているのではなくて、かなり薄い水色から濃い青色になり、またかなり薄い水色になっているのが見えた。

そのあとの数日間、彼女は学校を休み、突然に引っ越していった。

夏休みになって差出人の名前が無い彼あてのはがきがなぜか学校に届き、バスケットをやりに来ていた彼は呼び出され担任の先生からそのはがきを渡された。

そのはがきには下手くそなイラストと一緒に一言だけ書いてあった。

「鳥になりたかった」

彼にはその意味がわかった。

勇気を出せばよかったと初めて思った。ちょっと勇気を出して、聞けばよかった。

「いまなんていったの?」

と。学校中で『謎のはがきをもらった男』と彼は評判になった。差出人も内容も意味不明なはがきは、彼に渡すべきかどうか学校では問題になったが、いじめや脅迫ではなさそうな一言だったから、そのはがきは彼に渡った。

担任も、心配だったら警察へ届けようといったが、物騒な予告のはがきとは違うからと彼も、彼の家族も気にしなかった。

彼女がいなくなる数日前の、あの日。彼はしばらくの間、そこに立ち、彼女の見ている方角の空を、彼女と同じように見つめていたことを思い出した。

「大丈夫。大した傷でなくて良かった。」

医者の治療が終わって、ふと西の空を見上げると、青みがかった灰色の空を、旅客機が真っ赤な煙の尾をひいて山の向こうにきえていくのが見えた。白い旅客機の影が、まっすぐに、落下していくように感じた。

赤く輝く飛行機雲のしっぽの先端が山の向こうに完全に見えなくなったとほぼ同時に、くれないに染まった空が、にじんでみえはじめた。その上空にのぼった三日月が、子どもが描きなぐったようにいくつも重なったり、ずれたりして見えた。

何もかもが馬鹿げていると彼は思った。

(中学生の頃のまんまじゃないか。)

ばかげているのに、彼は、どれひとつとっても馬鹿げたことなどないと確信した。

あの旅客機だって落ちていくのではなく、落ちていくように感じただけで、落ちないのだ。ここではないどこかへ旅立っただけなのだ。遠く遠くへ飛んでいっているのだ。

それから、頬に当てられた小さな包帯の代わりのパッドに触れながら男の言う仕事についてみようと思い始めた。

涙がひとつぶ、彼の頬を落ちていった。

「いたむのか?」

男が彼に聞いてきた。けれどその時も彼は、男の話を耳にしていなかった。彼の耳には医者につく少し前に男が言った言葉があった。

「僕は君を、君が思っているよりもずっと、可能性に満ちていると知っている。」

男は治療が済んだ彼の顔を見ながら言った。

彼は、年はわからないけれど、実直で誠実そうな男の顔を初めて真っ直ぐに見た。顎に手を置いて男を見つめた。

「・・・さっきの話。僕を、ストーカーしていたみたいに聞こえた。」

「ストーカーだって?」

それからだんだん困り始めている男に向かって彼は付け足した。

「・・・冗談だよ。あなたはまじめなひとなんですね。・・・あなたの名前を教えてください。あなたは、僕の名前を知っているようだけど、ぼくはあなたをなんてよんだらいいのかわからないから。」

男は言い返した。

「君にあんなに何回も名刺を渡したのに、ぼくの名前を確認しようとはしなかったってことか。」


何ヶ月かが過ぎた。

たくさんの人の喧騒で溢れている街を、見下ろすいくつもの建物の屋上広告が近日中にオープンするカフェの広告写真へと一斉にはり替えられた。

外国から新たにやってきたカフェの広告に起用されたのは、鋭い眼差しとその眼差しには不似合いな淡い色の瞳と、かすかに残る頬の傷跡が印象的な全くの無名のモデルだった。顔に傷がある新人なんて使いものにならないと誰もが言った。そんな中、何回も足を運び、強引に1枚のプリントを作って持ち込んで企業を説き伏せた男がいた。

すべてが初めてのことだった。

コーヒーカップから立ち上る湯気とカップの向こう側から見るものを射すくめるように見つめる瞳と、はにかんだような笑顔が印象的な広告だった。

そのプリントについて問い合わせがあちこちから入り始めていた。

公開されてひと月と経たないうちに、事務所のホームページには問い合わせのメールでいっぱいになった。モデルとして第一歩は上出来なスタートとなったが、かれは

相変わらずあのアパートに住み、猫背で歩いている。




20151119







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カフェ『mille nuits』幾千夜 上原美樹 @ky1127

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