阿呆の血は騒ぐ

 あの事件から一週間が経った。桜は儚げに散って花筏を水面に浮かべ残香を今に伝えている。あの日から変わったこともあれば、変わらないこともたくさんあった。日常とはそういうものなんだと思いながら、日当たりのよい窓際で暖かいお茶をすする日曜の午後だ。

 「お前さん風邪をひいたからってそんなに悠々としていて大丈夫か。明日面接あるんじゃないのか。」

「わかってるよ今日中に履歴書書けばいいんでしょ。」

「わかってるならいいのさ、ごゆっくり。」

 式鬼が来てからというもの、口うるさいおばさんが家にいるようでどうも落ち着かない。周りにそういう人が少なかったのもあるだろうが、少々どう接していいのか困る。そう考えているとふと実家が恋しくなった。寡黙で実直で僕の意思を尊重してくれる優しい両親がいる実家が。携帯を開いて近々電話で話したい旨をメールの文面に打ち込み送信する。今日の冷え込みは一段と厳しいのに不思議と胸のあたりが温かい。


 夕方、冷蔵庫に何もないことに気が付いたので近くのスーパーへ足を運ぶ。しばらく売り場を見て回ると、商品がかごにいっぱいに入っているので心配してか式鬼が声をかける。「なあ金は足りるのか?」

余計なお世話だ。この前盗られたからと言って生活していけないほどのお金しか持ち合わせていないということはない。帰りに偶然大家さんに出会って明日京都御所に行かないかと誘われた。なんでも世にも珍しい緑色の御衣黄という桜があるんだそうだ。しかし面接があるのでと断って帰宅したのだった。

 日が沈んだころ、誰かが戸を叩いている音がした。怪訝に思って覗き窓から外を見ると、整った顔立ちの大学生くらいの男性がそこにいて一泊させてくださいとぺこぺこ頭を下げていた。寒い中家に入れてあげないというのもあまりにも酷なことなので、話だけ聞くということで家にいれると彼は何かいませんかと言った。どうやら式鬼の存在に気付いているようだ。

「突然来て上がらしてもらってえらいすんません。この近くの大学の3回生の早見です。」

「これはどうも。」

「昨日馬鹿騒ぎしたという身に覚えのない理由で寮を追い出されて帰る家がないんです。」

彼は深刻そうな顔をしてそう言ったが、もっとも自業自得ではないかと思った。酒に酔って我を忘れて騒ぐなんてよくある話だ。だが彼は話を続ける。「実は昨日酒も飲んでないし、風邪ひいてたんで早く寝たんです。」

全くおかしな話だ。「物の怪でもいるんじゃないのかそれ」

式鬼がそう言う。彼にも式鬼の声は聞こえているようで、やっぱり俺悪くないですよねと声を励ました。

「どうだ、頼まれてくれないか。お前がいないと儂は動けんのだ。」

「だから明日面接あって、しかも僕が朝弱いの知ってるでしょうが。」

「責任は儂が持つ、お願いだ。」

「嫌って言ったら怒るんですよね」

「ああ。」

「わかりました、やりますよ。でも手短にお願いしますね。」

僕に選択の余地は無かった。彼に案内されて寮の金網が破れたところから中へ忍び込む。通報されったって文句は言えまい。中へ入り寮の彼の部屋の鍵を開けると、背筋がぞっと寒くなった。やはり何かいる。

 だが、目を凝らして見てみても僕に見えるものは何一つない。ただ隙間から冷たい風が吹いてくるのみだ。

「早見さん、こんなこと聞いて申し訳ないいんですけど、お酒飲んだこと自体忘れてるってことはありません?」

「いや、それはないですね。何ならその日夕方に友人が来ていたので聞いてみますか。」

これ以上問い詰めるのはやめておこう。顔を見ても嘘はついていなさそうだ。

もう一度部屋を見回してみる。やはり何も見えない。けれど何かがそこにいると本能が語り掛けていた。これを証明する何かさえあれば彼は寮にも戻れるのに。もどかしく思っていると式鬼が携帯で写真を撮るよう促す。指示通り写真を撮ってみると、何か白い霧状のものが映り込んでいるようにも見える。彼はそのまま僕の携帯を持って走り去った。

「まずいんじゃないのか。」

式鬼がそう言う。僕もそれに同意だ。急いで部屋から立ち去り金網の隙間から外へ逃げ出す。携帯なんて今はかまっている時間はない。逃げ込んだ寮近くの公園で待っているとものすごい怒号が聞こえてきた。すっかり冷え込んで夜露に濡れた公園の椅子に座っていると身体が冷えて応える。十分ほど経っただろうか、彼を次に見た時にはひどくやつれていて手には何も持っていない。

「すまない、証拠品として君の携帯が取り上げられてしまった。俺の学籍はもうないだろうな。」

哀愁を漂わせた彼は言う。「そんなこと全然大丈夫ですよ。それより身体冷えてるでしょう銭湯に行きませんか。」

「いいんですか。」

彼のことを案じるあまり思ってもないことを言ってしまった。だが、彼は真に受けているらしい。こちらにとっては好都合だ。家へ帰って銭湯の回数券を持ってくるとすぐ銭湯へと向かう。相変わらず狭隘な裏通りからは湯気と石鹸のほのかな香りが漂ってきていた。中へ入り番頭のおばさんに二人分の入湯券を渡すと、遅い時間に来るのが物珍しいのかそんな顔でこっちを見ていた。昔ながらの銭湯というのはたいていそうなのだが、見事なタイルのモザイク画が温泉に入る人を魅了する。この銭湯は赤富士が描かれていて、いつ来てもその眺めは圧巻だ。彼のことを忘れるくらいには。

いつもは風呂上がりに牛乳を買って飲むのが一番の楽しみなのだが、今日は彼が早く帰りたそうにしているので我慢した。


 家に帰って、仕方なく彼の分の布団も用意した。男しかいない部屋というのは暑苦しいものではあるが、悪くはないとまんざらではない気持ちで床に就いた。


 

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京のあやかし小帖 ことねくたー @ktnk

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