人魚

「人魚だ」「人魚ですか」


 先輩がどうしても見せたいものがあるというから、仕方なく彼の世界一汚い宮殿に足を運んだわけだが、彼の言う人魚などよりも饐えた匂いのする布団やカビの生えた壁が気になり、五分もしないうちに退散したくなってきた。


「全然驚かないな、お前人魚見たことあるのかよ。突然変異だぞ? たぶん」


「そりゃあ、まあ、昔の映画とかで」


「最後の一匹だったんだぞ? 家賃で数えたら半年分だ。まあ、払ってないけど」


 このボロアパートの家賃なんて六をかけたところでたかが知れているだろう。一応表札には社員寮と書かれていたが、これならバラックのほうがまだ安心して暮らせそうだ。親切心で「ホウ酸団子でも置きましょうか」と聞いたら「お前ってそういうところあるよな」と返されてしまった。おかしい。いつだって勝手に人の気持ちを推し量ってやりたい放題するのは先輩のほうなのに。


「人魚って何喰うのかな」「先輩こそ、普段何食べてるんですか」「そんなこと今はどうでもいいだろ」「今だけじゃなくて、ずっと重要ですよ」


 だんだん息をするのもつらくなってきて、私は人魚を跨いで窓を開け放った。足許から「うっ」という声が聴こえたので、踏んづけてしまったかもしれない。まあ、いい。それより窓だ。勢いよく開け放ったが、私は愕然とした。眼前に廃墟じみた墓地が広がっており、閉めていたときより息の詰まる感じがした。私より先に、背後で先輩が溜息を吐いた。


「あのさあ、お前って何したら喜んでくれるわけ?」


「清潔なお部屋に招かれれば、とりあえずは誰だって安心すると思います」


「悪かったな、こんなごみ溜めでさ」


「こんなに汚したら、敷金とか返ってこないんじゃないですか?」


 私のジョークは、前の住民に言ってやれよ、と笑い返された。


 先輩にとって人魚なんてマクガフィン――つまり、中身や経緯などどうでもいい財宝や仕掛けの類に過ぎないのだ。私の気を引くためなら、きっと世界の栓だって引っこ抜くし、パンドラの箱だって蹴り開けるだろう。いや、それだけではない。核ミサイルの発射スイッチを押し、ゾンビウィルスを撒き散らし、人を食う三本足の植物を栽培し、人類を絶滅させるAIだって開発するだろう。


 そのどれを行っても、彼は私の気を引けなかった。


「……わかった、降参するって。何から始めたらいいかな」


「ふふん、そうです、その意気です。じゃあ、まずは生ゴミを出しましょう」


 人魚が喚き、何を勘違いしたのか必死に這って外に飛び出していった。野盗かミュータントにでも襲われないといいのだが。

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