海岸
――僕は一度車を停めて、夜の海を睨んだ。小雨だというのに、やけに波が高かった。
たしかにこの浜には彼女とよく遊びに来た。出会いもここだった。大学の友達グループから強引に誘われて仕方なく来たはいいものの、強い日差しに当てられて体調が悪くなり、すぐにパラソルの下に逃げた僕を看病してくれた。あの時は名前すらも覚えられなかったけれど、こんなに優しい人がいるなんて夢でも見ているとしか思えなかった。間が持たなくなって、綺麗なグロスだね、と意味不明なことを呟き、彼女が笑ったのを覚えている。
あれから僕たちはグループに付き合って長期休暇のたびに出掛けたけど、いつも日陰でお留守番をする係だった。僕は彼女と一緒にいるほうが疲れないし楽しかったけれど、本当に彼女は遊びに出掛けなくていいのだろうかと不安になるくらいだった。勇気を出してそれとなく聞いてみると、「じゃあ、二人だけで遊びに行っちゃおうか?」とからかわれた。冗談じゃなかったことは、次の休みになってようやくわかった。
僕たちのデートのレパートリーは少なかった。映画館だの美術館だの、一日使ってもあまり疲れないところばかりだった。授業で知った付け焼刃の知識で蘊蓄を語っても、彼女はしっかりと聞いてくれたし、僕の趣味について僕よりも詳しくなった。彼女の誕生日に海沿いのカフェでささやかなプレゼントを贈り合い、誰もいない浜辺に出た。僕は今夜死んでも構わないと腹を決め、彼女にキスを迫った。彼女は驚いたが、拒みはしなかった。
――進入禁止の看板を無視し、防波堤の先でエンジンを切った。誰も見ていないとはいえ、怒られたら嫌だなと思い、身を低くしていた。同時に、人差し指でハンドルを叩いてリズムを取っていた。彼女の好きな曲だった。歌詞を思い出しながら、小さく口ずさんだ。次第に気持ちは落ち着いていった。
僕は進学し、彼女は就職した。数か月もしないうちに、彼女が僕の数倍ほど忙しくなった。まるで僕の人生の何割かを貸しているみたいだった。むしろ僕は論文のためにバイトを辞め、掃除や炊事を頼まれている彼女の部屋で寝泊まりしながら、浮かばないアイデアを先送りにして、成功していく友人たちのSNSを眺めていた。
元からそれなりに呑むほうだったとはいえ、彼女は次第にアルコールの力で出社するようになった。三時間くらいしか眠らず、僕の作った飯も食べず、化粧だけはしっかりとこなして僕が起きる前に出て行った。果たしてこの家が誰のものなのか、わからなくなってきたあたりで、彼女は僕を見下すようになった。
――僕は鏡を見つめる。今日も誰とも会わなかった。彼女が山のように薦めてくれた化粧品はほとんど試さなかったし、西洋絵画についての研究も僕たちの生活を救ってはくれなかった。僕はトランクを開けて、女の細腕では重すぎる毛布をどうにか抱え上げ、最初で最後の恋人を海に投げ棄てた。
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