2.サメ・トウキョウ・パニック

「すいませんお客さん、今日の群玉県境方面の列車はすでに運行停止が決まってるんです」

 国鉄職員は事務的にそう言って、天井付近に掲げられた運行表示盤を指で示した。群馬を中心として埼玉北部から新潟にかけての一帯に張り巡らされた路線図のうち、高崎新池袋駅から南へ向かう路線上にはすべて赤いランプが点灯している。その下には、[只今、鮫台風3号の接近により計画運休・疎開輸送を実施中]と書かれたサボが掲げられている。反転フラップ式案内表示機には[臨時]の種別表示と[軽井沢経由長野][新潟][宇都宮]などの行き先、発車時刻が並び、ホームからは列車を牽引するEF81電気機関車やEF58スーパー改電気機関車が発車の際に発する電気警笛の音が数分おきに響いていた。

「どうしてもというのであればタクシーを使ってください。タクシー乗り場は改札を出てまっすぐ、駅前広場に出れば看板があります」

 そう言って駅員に送り出されると、薄月は素直に駅前広場へと向かう。日本交通の黒いトヨタ・クラウンコンフォートタクシーをつかまえると運転手に住所を告げる。群馬県南部、行政によって避難対象区域に指定されている地区だ。当然、運転手は渋い顔をしたが、それを断る理由はない。サメ・タイフーン迎撃のための立ち入り制限が発効するまではまだ時間があった。

「お客さん、こんな時期にあの辺りへ行こうなんてどうしたんです? 鮫台風が来るんですよ? しかも今度はそうとう強烈でいよいよ高崎新東京も終わりだって噂なのに」

「実家があるんです。私が帰るまでは両親もそこで待ってるんです。何しろ、久しぶりの帰国だから今度のサメにやられる前に少しでも見ておきなさいって」

 そういって薄月は照れくさそうな笑みを浮かべる。むろん、全くの嘘だった。薄月の両親は群馬県にはいない。もう十年以上、本物の東京都のどこかに骸を晒したままである。

「なるほど。ご両親もずいぶん頑張ってるだけだ。ところで、帰国ということは留学されてるんですか?」

「ええ、音楽関係で」

 そう言うと、薄月はバイオリンケースを軽く持ち上げてみせる。「手荷物とかは先に宅配便で送ってしまったんですが、これだけは手元から離せなくて」

「それが正解だと思いますよ。宅配便もこの様子じゃ大混乱でしょうし。バイオリンですか?」

「いえ、ヴィオラですね。バイオリンより少し大きいんです」

「なるほどねぇ。ところで、ご家族と一緒に避難されるんでしたら迎車で待機しておきましょうか?」

「いえ、実家の車で一緒に避難します」

「じゃあ気をつけてくださいね。あ、背もたれにチラシがあるからもっていってください。どうせこの渋滞では、それほど遠くまで行ってないはずですから、電話してもらえればすぐ迎えに行きます」

 そう言って運転手は視線で反対側の車線を示す。反対側の車線はサメ・タイフーンを逃れ、北へと向かう車列でびっしりと埋まっていた。しばらくすると会話の種もなくなり車内に沈黙が降り、それを埋めるようにカーステレオが存在を主張し始める。

『……アライサム財団は先日15日、軌道往還機X-30試作機の試験が終了し、量産機の製造を開始したと発表しました。この機体は補助ブースターなしで衛星軌道上への物資輸送が可能で、同財団が主導しNASAアメリカ航空宇宙局やJAXAと共同で進めているヤコブのはしご軌道エレベーター建設計画のため使用されることが発表されています。また、将来的には民間航空宇宙事業にも転用されることが検討されており――』

カーステレオのラジオニュースを聞いているうちに、クラウンコンフォートは快調に国道を南下し、マンションが立ち並んでいた沿道はいつの間にか人家もまばらになっていた。

「このあたりもすっかり荒廃してしまったんですよねぇ。昔はこの先に埼玉県があって南の方はかなり繁栄してたんですが、もうすっかりサメにやられちゃって」

 その景色を眺めながら運転手がそうぼやく。北へ向かう車線にもほとんど車がなくなり、代わって自衛隊のオリーブドラブに塗られた車両が目立つようになっていた。「昔は新なんてつかない東京が首都だったんですが、お嬢さんくらいだともう覚えてないのかな?」運転手の問いに、薄月は曖昧な表情で首を振った。運転手はそうだよなぁ、とため息をついてから車を止める。

「お客さん、ここでいいんですか? お金がないなら、ここでメーター止めて家まで送りますよ?」

「いえ、大丈夫です。せっかくなので、昔みたいに歩いて家に帰りたいんです」

 薄月はそう答えると、トレーに代金を置いた。運転手は金額を数え、お釣りを出しかけて手を止める。バックミラーから吊り下げていたお守りから一つ選び、紐を解いてお釣りとともにトレーに載せる。

「サメ避けのお守りです。もっていきなさい。口の紐を引けば、鮫避けの音楽が鳴る。気休めくらいにはなるはずですよ」

 一瞬逡巡したあと、薄月はお釣りとともにお守りを握る。車を降りると、運転席に向けて深々と頭を下げた。

「ありがとうございます」

「くれぐれも気をつけて。車が使えなかったら電話してください。すぐに引き返しますから」

 そう言うと運転手はタクシーを発車させ、Uターンして北へと向かい始めた。それを見送るともなしに眺める薄月の口元が音もなく動く。

「サメは殺す、一匹残さず」


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