海獣(cetus) 16
聞き間違いかと思ったが、艦橋の窓からローンらしき姿が見えた。前部甲板にガスマスク姿の士官がカメラを掲げている。
「莫迦野郎が!」
儀堂は声を荒げると、艦内放送に繋いだ。
『そこの莫迦野郎、艦内に戻れ!』
怒鳴りつけられても、ローンはしばらくカメラを構えたままだった。それどころか、双眼鏡に持ち替えて周辺を探りはじめた。
『ローン、お前のことだ!』
業を煮やして儀堂が自らガスマスクを着けたところで、ローンは艦内に戻ってきた。すぐさま兵士に命じて、ローンを拘束させる。
ローンは抵抗することもなく、艦橋まで連行されてきた。思いきり殴りつけたい衝動を、儀堂はかろうじて押さえていた。
「司令、申し訳ありません」
ローンは、あからさまに畏まった態度で頭を下げた。この男なりに事の重大さは理解しているのだろう。
「俺は外に出るなと言ったはずだ。忘れたのか? 異議があるのなら聞くが」
内心の怒りを裏返したように、儀堂の声は冷たく響き渡った。
「いいえ、ありません」
「ならば、どういうつもりだ?」
ローンは身を硬くしたまま、口を開いた。
「どうしても記録に残しておきたかったのです。我々は竜の中にいる。こんなことは滅多にありえない」
儀堂は最後まで聞かず、襟首をひっつかんだ。
「そいつは
「もちろん理解しています。弁明はいたしません。フィルムもあなた方に差し上げます。ただし、現像まではさせてください。写真の出来映えを確かめたいので」
ふてぶてしい台詞と裏腹にローンの表情は強張ったままだった。よほどの覚悟だったらしく、後悔の念は読み取れない。数秒ほど儀堂は睨みつけていたが、不意に襟から手を離した。
「フィルムだけではなく、その高価なおもちゃも没収だ」
儀堂はローンの首からカメラを外すと、興津に渡した。
その顔から怒りが消えて、穏やかになっていた。不気味さすら覚えるほどの変化だった。ローンは事態を把握できず、ただただ困惑していた。
「ローン大尉、俺と一緒に来い。副長、すぐに戻る」
訳も告げずに、ローンを伴い儀堂は艦橋から出ていった。興津は何かを言いかけたが、すでに二人の姿はなかった。
「私を拘束しなくても?」
先を行く儀堂の背中に問いかける。揶揄ではなく、純粋な疑問だった。監視の兵すら儀堂はつけていなかった。もっとも<宵月>を脱出したところで逃げ場はないと、儀堂は思っているのかもしれない。何しろ今は竜の腹の中だ。
──しかし、それにしても不用心すぎる。
ローンには納得しがたかった。
──もし自分が変な気を起こしたら、どうするつもりだ。
もちろん、ローンにそんなつもりはなかった。今の儀堂に危害を加えたところで、メリットは全くない。
ローンの問いかけに、儀堂は沈黙で応じた。まともな答えは期待していなかったが、意図が読めないのは困る。せいぜい尋問程度だと思っていたが、
──いっそのこと……。
よからぬ考えがローンの脳裏を駆け巡る。仕掛けるべきなのかもしれない。もちろん殺しはしないが、ローンなりに儀堂を無力化できる。<宵月>の戦闘にも支障は来たさないだろう。何しろ儀堂本人を含め、誰もローンの凶行に気づくことはできないのだから。
自惚れを自覚し、ローンは小さく頭を振った。
──ローンよ、誰もというのは楽観的過ぎる。少なくともネシス嬢は私の正体に気づく。それから、もう一人……。
名前を思い浮かべようとしたとき、その「もう一人」が通路の前方からやってきた。
海軍式の敬礼で、彼女は儀堂を迎えた。
「ご苦労、御調少尉。さっそくだが、彼を預かってくれ」
儀堂は背後を指した。すごく嫌な予感をローンは覚えた。彼の記憶が正しければ、儀堂は御調と連絡を取っていなかったはずだ。ここまで迎えに来られるはずがなかった。
ならば、いったい誰が御調を寄こしたのだ?
「了解。後はお任せください」
怜悧な瞳がローンに向けれる。腰には軍刀をぶら下げていた。手こそかけていないが、剣呑極まる空気を全身から漂わせている。
御調少尉の戦闘能力について、ローンは情報部から聞かされている。シアトルではドイツの工作員を正面から撃退している。ローン相手ならば、難なく制圧できるだろう。
「大和撫子のエスコートとは光栄だね」
ローンの軽口に応えることなく、御調は背を向けた。
「こちらへ」
見向きもせずに御調が歩き出した。肩をすくめると、ローンは狭い通路の中で儀堂とすれ違った。その刹那、肩越しに呟きが耳に入った。
「
ぎょっと振り返ると、儀堂は艦橋へ戻ろうとしていた。ローンは戦慄を覚えながら、反対側にいる御調の後を追いかけた。
御調の行く先に見覚えがある。<宵月>で最も固く守られた区画、魔導機関室だった。
分厚い水密扉が開かれ、中へ案内される。直後、御調が居合のように素早く刀を抜き、ローンの首元へ添えた。
「こういうときはセップクだと思っていたよ」
両手を掲げてローンは無抵抗の意思を示した。首筋に刃の冷たい感触が刻みつけられている。
「実は
「お望みですか?」
「いいや! 勘弁してほしいね。痛いのはいやなんだ。でも君が
否定こそされなかったが、刀は首に押し当てられたままだった。
「懐にあるものを、素直に取り出してください。あなたが<
澄んだ声で御調が命じた。ローンはとぼけることもできたが、今は得策ではなかった。御調の背後から、強烈なプレッシャーを感じていたからだ。
魔導機関室の主が、
『小細工を弄してもよいぞ。ただし、妾を楽しませてくれような? つまらなければ、妾自らおぬしを玩具にしてくれよう』
「ネシス嬢の手を煩わすなど。滅相もない」
手を内ポケットへ突っ込み、ローンは小さなカメラを取り出した。レンズに怪しげな紋章が刻まれたカメラで、見たことのない文字がフレームに刻まれていた。
「それは?」
訝し気に御調が正体を尋ねると、ローンは得意げな顔で答えた。
「イビルシャッター。魔眼仕込みのカメラ……と言ったところかな」
◇========◇
twitter(@BinaryTheater)で各話の挿絵もランダムで公開中。
毎週月曜に投稿。
ここまでご拝読有り難うございます。
弐進座
◇追伸◇
書籍化したく考えております。
実現のために応援いただけますと幸いです。
(弐進座と作品の寿命が延びます)
最新情報は弐進座のtwitter(@BinaryTheater)にてご確認ください。
よろしくお願いいたします。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます