海獣(cetus) 10

 背後の海域は真っ黒な巨大な影が広がったままだった。海面下では、禍津竜がじりじりと着実に<宵月>の後を追って来ている。


 彼我の距離は一〇キロほどだった。それ以下にすると、あの触手を迎撃するのが億劫だからだ。ときおり<宵月>の各砲塔が海面を撃っているのは、触手除けのためだった。ハエたたきのように払っている。


 儀堂が思っていたよりも、容易に禍津竜を誘導できそうだった。拍子抜けとまではいかなかったが、幾分か胸を撫でおろしたくもなった。


 所詮は畜生ということなのだろうか。


 そう思ったとき、たどたどしい囁きが何度も鼓膜を震わした。


『ぃもォじィ……』


 禍津竜の鳴き声・・・だった。ひもじいと言いたいのだろう。今さらながら背筋に冷たいものを感じた。人ならざる者が人語を話している。ただそれだけで悍ましく思った。


 極論すれば、文鳥の鳴き声と変わらないのかもしれない。違いがあるとすれば、禍津竜は己の心にある欲望を語っているのだ。


 だからこそ恐ろしい。


『ぃもォじィ……クぁすェて』


 <宵月>へ向けて、禍津竜は懇願していた。儀堂は悍ましさの正体を自覚した。同時に怒りが湧いてくる。


 仮にもこれから自分をぶち殺そうとしている相手に対して、食わせろと言っているのだ。実に嘗められたものだった。


 そうだ。この莫迦でかい這い虫は俺たちのことを敵とすら思っていない。もし敵と認めているのならば願う前に、奪いに来るはずだった。


 それこそ問答無用で、なりふり構わずに大口を開けて襲い掛かってくるだろう。これまで儀堂が対峙してきた魔獣の大半は、牙や爪とともに本能をむき出しにしてきた。


 ところが禍津竜の野郎─メスかもしれないが─は緩慢に触手を伸ばしてくるだけだった。まるで戦意が感じられない。いつか捕まるだろうとプラプラしている格好だった。


──何という傲慢か。


 儀堂は歯噛みをしつつも、口端を上に曲げた。肉食獣のような笑みがこぼれる。恐らく、この禍津竜はこれまでまともな脅威に出会ったことがない。一方的に捕食し、搾取してきたのだ。この世界の海だけではなく、ネシスの世界でも同様だったのだろう。


──どんな声で啼くのかな


 実に楽しみだ。こいつの悲鳴を聞くのは……。

 


 作戦海域は臨時で決まったものだった。そのため参加艦艇の選出も応急的―行き当たりばったり―なものだった。逆説的に述べるのならば、複雑な戦術運動は期待されていない。


 イオニア海の南方、クレタ島から見て西方約300キロに6隻の艦艇が集結していた。それぞれ護衛部隊から抽出された戦力だった。そのうち一隻は<大隅>だ。ちょうど他の5隻に取り囲まれるように航行している。


『<大隅>より<エイジャックス>へ、針路150へ変針求む』


 忙しなく<大隅>の高声令達器が状況を伝えてくる。


『電探より二通ふたつうへ、右舷後方の<エイジャックス>の針路変更を認む。彼我の相対距離は約3浬』


 二通ふたつうとは第二通信室のことだった。艦内の別称は作業室で、普段は他国の通信を傍受、分析している。本来の用途は情報収集だったが、今回に限って参加艦艇の管制誘導を指揮していた。


 理由は二つあった。


 まず高性能の通信設備を有している。条件が整っていれば、地中海を越えて北海までの送受信が可能だった。もっとも実際は受信ばかりで、自分から送信することは滅多にないが。とにかく複数の艦艇を同時に指揮中継するには適当な部署だった。


 次に、何よりも作業室の士官たちは全員英語ができた。


二通ふたつう、了解……<エイジャックス>へ現針路を維持されたし』


 電探室へ応答すると、すぐに作業室の士官は英語に切り替えて<エイジャックス>と交信が始まる。


 艦橋の電話が鳴り、嘉内が呼び出された。


『こちら本郷、こちらはいつでも大丈夫です』


 本郷とユナモは、飛行甲板のマウスに乗車したままだった。


「了解。急な頼みで、すみませんね」


『いいえ、お気になさらず。これはユナモにしかできないからね。それに……この子がやると言っている。だから、僕も付き合うよ』


「有り難い。あとは<宵月>の方でうまくやってくれるとは思いますが、まあ、そのひとつよろしく頼みます」


 それから細かい打ち合わせをして、嘉内は電話を切った。


『電探より艦橋へ、12時に新たな反応。<宵月>と思われる』


 舞台は整った。


 後は役者の到着を待つのみだった。



 正艦首に見えた艦影はローンにとって馴染み深いものだった。弩級戦艦の原型アーキタイプ、その系譜に連なる佇まいだ。


 <宵月>を出迎えたのは、クィーン・エリザベス級<ヴァリアント>だった。


「旗艦自らとは、何とも恐れ入るな」


 興津は本心から言っているようで、ローンは苦笑した。


副長ナンバーワン、お気になさらず。我々は儀堂司令のリクエストに応えただけさ」


 儀堂は禍津竜を誘導する前に、<ヴァリアント>のウィッペル中将へ幾つかのリクエストを行っていた。


 <大隅>を入れて、6隻の臨時部隊を編成すること。


 <宵月>との合流海域の指定。


 最後に部隊を率いるのは、大型艦かつ大威力の兵器を有し、BMに匹敵する脅威にも対処しうること。


「先頭艦の任に堪えられるのは、<ヴァリアント>以外に考えられないでしょう」


 確かめるようにローンは儀堂の方を振り向いた。


「ネシス、共有を切ってくれ」


 儀堂の視界に艦橋内の光景が広がった。急に網膜の光を認識したせいで、思わずしかめ面になってしまう。


「通信、<ヴァリアント>へ打電。同時に発光信号。協力ニ感謝ス、以上だ」


 二隻は相対距離2浬ほどで、すれ違った。


 儀堂は艦橋の方へ向けて、ゆっくりと丁寧な敬礼を行った。それから、すぐにネシスに視界を共有させる。


 最新鋭の駆逐艦と最古参の戦艦が行き交う情景。俯瞰すれば、さぞ勇壮で浪漫が掻き立てられそうなもだった。


 だが、そんな幻想は長続きはしなかった。その後、すぐに山のような黒い影が海面を通り過ぎて行ったからだ。


 <宵月>は直進し、そのまま<大隅>と合流を果たした。


 まもなく日英協働の竜殺しドラゴンスレイヤーが始まった。


◇========◇

毎週月曜と木曜(不定期)投稿予定

ここまでご拝読有り難うございます。

弐進座


◇追伸◇

書籍化したく考えております。

実現のために応援いただけますと幸いです。

(弐進座と作品の寿命が延びます)

最新情報は弐進座のtwitter(@BinaryTheater)にてご確認ください。

よろしくお願いいたします。

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