海獣(cetus) 4

 初めは耳鳴りのような響きだった。続いて機械の駆動音のように規則的に鼓膜が震わされる。間隔がどんどん不定期になるにつれて、濁った音になっていった。やがて幾つかの生々しい雑音が混じりあったものだとわかる。


 水中を伝う音は深く潜るほどに、大きくなった。


 脳裏で嫌な記憶が呼び起こされる。


 マラッカ海峡での出来事だった。あのとき乗り合わせた船が沈んだ。クラァケンに船底をぶち抜かれたのが原因だった。3000トン足らずの貨客船で、兵員輸送船として徴用されていた。


 あっというまに浸水していった。


 儀堂は運が良かった。たまたま甲板に出ていたからだった。それに襲撃は昼間だったのも幸いした。退船命令が出されても、混乱は最小限に収まった。


 唯一にして致命的な不幸は救難艇の数が足りなかったことだった。儀堂は救難艇を降ろす作業を手伝い、自分は海に飛び込んだ。泳ぎには自信があったからだ。兵学校で遠泳の訓練も受けている。加えて襲撃したクラァケンも撃退されていた。


 そこで予期せぬ試練が儀堂に襲い掛かった。二体目のクラァケンが現れた。そいつは船底にもう一つドデカい穴をあけ、浸水を加速させた。急速に船尾から水没していき、船首が塔のように海面にそそり立った。


 そこから先は一気に破局が加速した。クラァケンが船を海底へ引きずり込み、大渦が発生した。渦は波間に漂う兵士たちを飲み込んだ。その中に儀堂がいた。


 この戦争で何度か味わった死の瞬間だった。その中でも最も恐ろしく長い時間だった。


 息を堪えて渦が収まるを待ったところで、ぼんやりと光を放つ海面を目指した。途中で口から空気が漏れ、どんどん苦しくなっていく。無数の気泡が儀堂を追い抜いていき、その中には兵士の死体も混じっていた。


 最後は全ての空気吐き出して、決死の思いで足掻きながら海上に顔を出した。あのときほど呼吸に喜びを覚えたことは無かった。


 唐突なフラッシュバックから現実に儀堂は戻ってきた。時間にして数秒程度だろう。


 儀堂は音の正体に気が付き始めていた。あのときと同じだ。死にゆくもの・・・・・・と無数の気泡が<宵月>とすれ違っていく。


 そう、魔獣のどいつもが溺れ、死にかけているのだ。


 儀堂は<宵月>とともに、断末魔の展覧会を巡っていた。


 陸棲や水棲に関係なく魔獣たちの身体は腐りかけ、衰弱していた。


 海底から響いてきた全ての異音は、魔獣が最後の力を振り絞った絶叫だった。水中で放たれた悲鳴は濁った音とになり、暗闇で反響していた。


 文字通りの阿鼻叫喚だった。


『禍津め、存外に詮無いことをしておるようじゃ。いたく興がさめる』


 ネシスが抑揚のない声で言った。


「どういう意味だ?」


『どうにもこうにも、生み殺しておるのよ。そろそろ見えて来るぞ』


 目を凝らすと、ぼんやりと暗闇を揺らすように滲んだ青白い光が見えた。


『ほぅら、ついたぞ。これが奴の正体じゃ』


 <宵月>の深度計の針が止まった。深度は1千メートルほどで、海底はまだ数百メートル先にあると儀堂にはわかった。


 日の光を飲み込んだ深海で何者かが見えるなど、在り得ない現象だ。ときどき沸き上がってくる断末魔の魔獣と無数の気泡だけが、ここが海中であると思い出させてくる。


「……どこに」


 言いかけて、儀堂は自身の認識を正した。尺度スケールが違いすぎたのだ。


「おい、まさか……」


 儀堂は呆然とつぶやいた。


 最初から禍津竜は、そこにいた。


 ふいに視界一面が広がり、コバルトブルーの平原が現れる。そこに数え切れないほどの禍々しい紅い光が生まれた。自然発光する類のものではない。どれもが不規則に明滅し、脈動している。まるで心臓の鼓動のように一定の周期で点滅を繰り返していた。


 その光景を見ただけで、儀堂は理解した。これは魔獣だと。奴らが、それも途方もない勢いで生れ落ちようとしている。


「魔獣……全部そうなのか?」


『しかり』


 ネシスは事も無げに肯定した。氷のように冷えた声に違和感を覚える。


 紅い光は黒へと色を変え、輪郭が蠢きはじめた。翼のある姿や触手を振りかざすもの、いずれも見慣れた魔獣に姿を変えていく。


 魔獣たちは次々と誕生し産声を上げると、苦し気にのたうち回りだした。輪郭が徐々に溶けてゆき、躯体がぼろぼろに崩れていく。


「生み殺し……か」


 ようやく合点がいった。禍津竜は己の生み出した魔獣を殺している。この事実に思い至ると、儀堂の全身に鳥肌が立った。


「ネシス、この糞みたいな屠殺場が竜なのか……?」


『左様。禍津竜め、獣どもを生んだ端から殺しおる』


「竜が魔獣を生む? 俺の記憶違いか? こいつは魔獣を生み出さないとお前は言っていたぞ」


『妾とて全知ではないのじゃ』


 こともなげにネシスは前言を撤回した。


「素直に間違ったと言えよ」


『すまなかったの! ゆえは分からぬがな。本来、禍津にかような母胎の力はなかったはずなのじゃ──』


 唖然とする儀堂たちの前で、海底の一画が動いた。いいや、一画など馬鹿馬鹿しい言い草だ。正確には海底そのものが盛り上がったのだ。


 すぐにわかった。こいつ動こうとしている。俺としたことが何をぼやぼやしているのだ。早く始末しなければ……!


「爆雷戦用意!」


 禍津竜の一部が隆起し、浮上しようとしていた。泥に這いつくばっていた首魁は、この世のあらゆる生物からかけ離れた形状だった。魔獣ですら縁遠い風体だ。


 敢えて表すのならば、古代のカブトカニとアルマジロを足して割ったような存在だった。だだっ広く平たい胴体に不釣り合いに小さい尾が付いている。


 ひたすらに莫迦でかく、平たく、青白く、這い虫のように醜い。


 ようやく全容が明らかになった。魔獣どもは、こいつの背部から生み殺されていたのだ。背中に浮かび上がっった無数の紅い点は、魔獣どもの揺籃クレードルだった。


 禍津竜が頭部と思しきものを上げた。わずかに身体を傾き、背中に乗っていた。数十体の魔獣が脇から転げ落ちていった。


 聞くに堪えない濁った断末魔が、そこら中に響き渡る。


「クソッたれ、どこに落としても当たるぞ。ネシス、すぐに浮上できるようにしておけ。砲術へ五式噴進弾準備、こいつを始末──」


 言いかけた儀堂に制止の声がかかった。普段なら聞く耳を持たなかっただろうが、このときばかりは無視できなかった。


『ぇおうぇ…み…むァて』


 ぎょっと儀堂は耳当てレシーバーを外した。


『まぁテ……て……マぁて』


 再度の懇願、それは濁り切った雑音だった。ラジオから聞こえる砂嵐のようだが、儀堂の鼓膜へ伝わったものではなかった。


 声は頭に響いてくる。


「ネシス、お前……」


『妾ではない。おぬし、耳が腐っておるのかや。鈴のような妾の声と汚泥のような雑音を一緒にするな』


 砂嵐に独特の抑揚がかかった。


──咳払い? いいや。こいつ笑っている?


 這い虫の親玉を見て儀堂は確信した。この禍津竜が声の主なのだ。


◇========◇

毎週月曜と木曜(不定期)投稿予定

ここまでご拝読有り難うございます。

弐進座


◇追伸◇

書籍化したく考えております。

実現のために応援いただけますと幸いです。

(弐進座と作品の寿命が延びます)

最新情報は弐進座のtwitter(@BinaryTheater)にてご確認ください。

よろしくお願いいたします。

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