獣の海 (Mare bestiarum) 43
クラウスは状況分析の結果に、素直に従った。
「君らの種族に降伏の概念はある?」
クラウスは両手を挙げた。
「あるぞ。ただし命と引き換えじゃ。一族を率いる者が代償として首を差し出すのじゃ」
「えっと、つまり、それは……」
「つまりは、死ね」
たった一歩踏み出しただけで、ネシスはクラウスの喉元に手が届くところまで来ていた。人間であるクラウスに知覚も反応も不可能な速度だった。
「すごいな……」
鋭利な一閃がクラウスの喉元へ食い込もうとした瞬間、ネシスの鳩尾に拳がめり込んだ。
「なっ!」
予備動作なしでクラウスのパンチがネシスの身体を貫き、瞬く間にネシスは元の位置まで吹きとばされてしまった。並の人間ならば、内臓が破裂するほどの威力だったが、ネシスはびくともしなかった。ただし物理的ダメージよりも、精神面での衝撃が大きかった。よもや人間の打撃を食らうなど、思いのほかすぎた。
「おぬし、その力──」
唖然とするネシスだが、当のクラウスの反応はさらに予想を裏切るものだった。脂汗を流しながら、苦悶の表情を浮かべていた。
「ああ、クソ……これは思ったよりも身体への負担がきついな」
絞り出すようにクラウスは言った。上半身を前かがみに左手で右手首を持っている。よく見れば右手が少しばかり歪なかたちになっていた。先ほどの一撃で自身の拳を砕いてしまったのだ。
尋常ではない光景からネシスは、すぐに原因を悟った。
「おぬし、レールネの眷族になったのかや」
古風な表現にクラウスは苦笑した。
「眷族か。あの子とは仲良くしておきたいけど、主従関係は考えていないね」
「ふざけるなよ。ならば、その力の源泉はなんじゃ?」
「保険だよ。君に備えてのものではなかったが、何事も用意は整えておく
右手をゆっくりと降ろすと、左手でクラウスはポケットから注射器付きのアンプルを取り出した。中の薬液はモルヒネだ。強引に腕へ打ち込み、痛みを緩和させる。
「ふう……こいつは効くけど、限界だな」
「おぬしが答えぬというのならば、身体に聞くまでよ」
しびれを切らしたネシスが、再度跳躍した。クラウスはさらに後方へ下がろうとして、水密扉に背中をぶつけた。すかさずネシスは追いすがり、今度こそ爪を深々と立てることに成功した。
「があぁっ!!」
怒号に似た悲鳴をクラウスを上げ、腰から崩れ落ちる。赤色灯越しに、左胸の上部がじっとりと濡れているのが分かった。ネシスの手刀によって抉られた跡だった。
肩で息をしながら、クラウスはネシスを見上げ、背筋を凍らせた。
獣の目だった。
森を駆ける狼、あるいは山を闊歩する熊、サバンナの獅子が獲物を狩る目つきだ。おとぎ話に語られるような感傷的な描写とは一切無縁の瞳、野生の眼光があった。感情以前の、捕食者としての原始的欲望しか見えない。
クラウスは月鬼を前にして、初めて恐怖を抱いた。レールネの相手をしているときには全く抱かなった感情だ。傷の影響もあるだろうが、呼吸が荒くなり、心拍数が激増するのがわかった。汗が嫌な臭いを発し、身体が硬直する。
死ぬ、食われる。自分が無くなる。だけど、それはともかくとして……面白い。
「何を笑っている」
ネシスは、右手から血を滴らせていた。
「君らは実に奥深い種族だ。機械のように思考すれば、獣のように嗜好する。はは、ドクトル・メンゲレが夢中になるのも無理はない。君をサンプルとして持ち帰れなくて残念だ」
ネシスは無言のうちに、手を振り上げた。
「さて、もう十分だよ」
観念したかのような台詞だったが、クラウスの視線はネシスの背後に向けられていた。ネシスは素早く振り向くと、迎撃態勢をとった。そこには彼女と背丈の変わらぬ少女が立っていた。
「レールネ!」
「死んで……」
レールネが片手をあげると、<U-219>を構成する船体内部が悲鳴を上げた。生体化した上下左右の構造物が突き出し、ネシスを圧縮する。
肉と鉄の入り混じった塊が、あっという間に出来上がる。
「え、いや、まさか、これで終わり?」
あまりのあっけなさに、クラウスが唖然として呟いた。失望すら感じさせる一言だった。しかしながら、幸いなことに彼の懸念はすぐに否定された。
みしりと音を立てて、塊にひびが入った。鋭い爪で塊の上面を突き破ると、真っ二つに引き裂かれた。
「愚か! 愚かの極み。おぬしの魔導で妾を封じ込めると思うてか?」
塊をこじ開けて、ネシスが出てきた。クラウスなどには目もくれず、久方ぶりに顔を合わせた同族に対峙する。
◇========◇
毎週月曜と水曜(不定期)投稿予定
ここまでご拝読有り難うございます。
弐進座
◇追伸◇
書籍化したく考えております。
実現のために応援いただけますと幸いです。
(弐進座と作品の寿命が延びます)
最新情報は弐進座のtwitter(@BinaryTheater)にてご確認ください。
よろしくお願いいたします。
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