獣の海 (Mare bestiarum) 38


 艦橋からも被害の深刻さはわかった。左舷の火災が黒煙をまき散らし、前部甲板まで押し寄せて来たからだった。


「左舷、甲板中央部で火災発生!」


「機銃座が全滅しました! 兵員の安否不明」


「応急班、消火急げ。負傷者の回収もだ」


 悲鳴のような報告に対し、儀堂は普段と変わらぬ口調で応えた。艦橋内でもちらほら負傷者が出ている。見張り員の一人は駄目そうだった。後頭部がまっ平にひしゃげている。儀堂が命令するまでもなく、興津が遺体を運び出す指示を出していた。たんたんと艦内の混沌が回復されるつつも、危機であることに変わりはなかった。


 敵潜は魚雷を浴びせかけた後でBMの外へ逃れてしまっている。その間、わずかに数分だったが今では目視出来ないほど遠くへいるようだ。


「危ないところでした」


 せき込みながら、かすれた声でローンが言った。爆風をもろに受けたらしく、しばらく呼吸困難に陥っていたのだ。


「君は軍医に診てもらったほうが良い」


 ローンの顔を見つめながら、儀堂は言った。


「恐らく思っているよりもひどいことになっているよ」


「そうかもしれません」


 わき腹を押さえながら、ローンは言った。


「たぶん、あばらの骨をやられています」


「それだけじゃない」


 儀堂は額を指した。ローンは怪訝な顔で自身の頭部に手を当てると、べったりと血が張り付いた。どこかを切ったらしく血が滴ってきていた。アドレナリンの作用で忘れていた痛みを覚え、顔を歪める。


「あの畜生ブラディUボートめ──」


 よほど腹が立ったらしく、母国語に切り替わっていた。痛々しげに身をかがませると、床から何かを拾い上げた。彼が撮影に使っていたカメラだった。


「ああ、これ、高かったんですよ」


 弱弱しくローンは呟いた。


「ご愁傷様」


「せめてフィルムが無事だといいんですが、クソッたれめ──」


「ローン大尉でも悪態をつくことがあるんですね」


 興津が何とも言えない笑い浮かべていった。ローンは首を振った。


「人はパンのみにて生きるにあらず。君とて、常にわびさびで物事を語らないだろう」


「それは確かに……誰か人を付けますか?」


 ローンは再度首を振った。


「お気遣いなく。これくらい、機銃座の連中に比べれば大したことは無い。儀堂司令、どうせ医務室はいっぱいでしょう。この戦闘に最後までお付き合いさせてください」


「わかった。好きにすると良い」


「ありがとうございます。そういえば、少し気になる事がありました」


「なんだ」


 喉頭式マイクを切り替えながら、儀堂は問い返した。


「あのUボートの後部残骸、切り離されていても紅く輝いていました」


 マイクをいじる手が止まった。儀堂の鋭い視線が、ローンに注がれる。


「確かか?」


「ええ、撮影する際にファインダー越しに紅い光が下から見えました。誰かに確かめさせたほうが宜しいかと」


「右舷側、見張り員でも誰でもいい。敵潜の残骸を確かめろ」


 すぐに報告が上がってきた。ローンの言った通り、Uボートの後ろ半分の残骸が仄かに紅く輝いていた。原因はわからなかったが、良い気分はしなかった。またぞろプラナリアのように前半分を生成されては、たまったものではない。早く、ここから離脱しなければ。


「ネシス、ネシス、聞こえるか」


 応答はなかった。代わりに耳あての向こうから、ハスキーな声が変換されて来た。


『儀堂司令、御調です』


「少尉、ちょうどよかった。そちらの状況を聞かせてくれ」


『目立った損傷はありません。ただネシスの霊力が、これまでないほど弱くなっています』


 御調の声に余裕が感じられないことから、事態の深刻さを否が応でも悟らされる。


「シカゴで瀕死になったときと同じか」


『あのときほどではありません。しかし、戦闘続行は困難と考えます』


「俺の血を分ければ──」


『いけません!』


 御調が叱りつけるように言った。大声ではなかったが、鼓膜の奥を突き抜けそうな怒気が籠っている。


「しかし、それで回復するのだろう? 他に手はあるのか」


『これ以上、あなたの意識をネシスに乗っ取られるわけにはいけません。そんなことを司令にさせるくらいならば、私が犠牲になります』


『それには及ばぬ』


 寝起きのような声で、ネシスが割って入ってきた。


「目を覚ましたか」


『左様……ギドー、すまぬ』


 何に対して謝っているのか、儀堂は問わなかった。


「お前は、為すべきことをやった。ただ、それだけだ」


『……そうじゃな。お主の言う通りじゃ』


「御調少尉の話だと、お前は死にかけらしいが、実際のところどうなんだ?」


 遠慮なしに儀堂は尋ねた。情緒のへったくれもなかったが、ネシスもそんなものは求めていなかった。


『そうじゃな。彼岸がうっすらと見えてきておる。じゃが、妾はまだ川向うへ渡る気はない。儀堂よ──』


 問いかけたまま、ネシスはしばらく黙りこくった。十秒近くたち、ついに儀堂は我慢できなくなった。


「なんだ? また気絶したのか?」


『おぬし……妾とひとつにならんか』


◇========◇

毎週月曜と水曜(不定期)投稿予定

ここまでご拝読有り難うございます。

弐進座


◇追伸◇

書籍化したく考えております。

実現のために応援いただけますと幸いです。

(弐進座と作品の寿命が延びます)

最新情報は弐進座のtwitter(@BinaryTheater)にてご確認ください。

よろしくお願いいたします。

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