獣の海 (Mare bestiarum) 33
【Uボート<U-219>】
<U-219>を覆う紅い光が消えてから十数分後、ハインツが司令塔に戻ってきた。すぐにフラーが被害報告をまとめてくる。
「前部発射菅室が損傷しました。浸水は応急排水で食い止めていますが、ドックまで使い物になりません」
「負傷者は?」
「重傷が2名、ほか軽傷が3名ほど。すでに治療中です」」
「よし、よくやった。それにしても……クソッ、いい加減、潮時だな。他には?」
「ディーゼルは無事ですが、充電機構が故障しています。こちらは応急対応中ですが、しばらく充電はできません」
「蓄電池はどれくらい残っている?」
「50パーセントほどです」
「そんなにか? 意外と消費しておらんな」
「ええ……メーターが故障したわけではなそうです」
「よろしい。ブルーノ、なにかわかったか?」
水測室のカーテンが開いた。憔悴しきった若者が顔をのぞかせる。交代から1時間もたっていないが、1年以上そこにいたかのようだった。
「異常音響は聴こえません」
「わかった。怪しい歌が聞こえても安心しろ。俺の耳にも聞こえていた。決してお前が狂ったわけではないから大丈夫だ」
さもなくば、俺を含む全員が狂っているのだろうさ。ハインツは自嘲気味に思った。いかに彼が歴戦のUボート乗りであっても、直視できる現実と目を背けたくなる現実があった。今はまさに、その狭間にあった。
深度計や電池残量の目盛りは彼が慣れ親しんだ情景だ。たとえ針が降り切れようと、残量が底を尽きようとハインツは思考を維持できる。しかし少女の形をしたものに生死を左右されるのは、全くの埒外だった。
兵士たちの顔つきが一変し、誰が来たのか察した。
「終わったのか?」
「ええ、ひとまずは」
クラウスは額に包帯を巻いていた。血が痛々しく滲んでいたが、罪悪感は覚えなかった。恐らく本人も謝罪など望んではいないだろう。
「ここを離脱する」
有無を言わさない口調で、ハインツは告げた。
「同意します」
吐いた言葉とは正反対の表情に見えた。眉を潜め、納得しがたい様子だ。案の定、続けて出たのは「しかしながら」だった。
「日本人は別の考えを持つかもしれません。彼らが我々をすんなりと逃してくれると?」
「ありえないだろうな。でも、やれるところまではやるのさ。それとも大きめの白い布を用意するか」
「やれるものならどうぞ。なんなら私が旗手になりましょうか。司令塔のハッチを開けてくれるならね」
思わぬ減らず口にハインツは面食らった。クラウスは眉間の皺を伸ばし、吹っ切れた顔になっていた。
「はっ、そのときは魚雷発射管から出ていけ。ああ、後部の方だぞ。前は潰れちまったからな。とにかくもう逃げ──」
「艦長、深度計を見てください」
フラーが声を震わせて言った。何事かと目をやると、針が右方向へ向かって動き始めていた。
「浮上しているだと。おい、誰かタンクブローしたか」
もちろん、そんな命令は誰からも下されていない。またかとばかりにクラウスを見たが、本人も困惑している。あの月鬼の仕業というわけではなさそうだ。
「畜生! 何が起きているんだ」
いよいよ、俺たち全員がパラノイアにでもかかったのか。
◇
【魔導駆逐艦<宵月>】
数本の光の剣が闇を貫き、海底をまさぐった。<宵月>の探照灯だ。はたから見ると、大道芸の舞台を照らすスポットライトのようだった。ゆらゆらと光の円が海底を巡り、そのうちの一つが流線型の筒を突き刺した。横たわるUボートの船体だった。そのままスポットライトは撫でるように移動し、司令塔へ達した。
「用意周到なことだ。御覧なさい。わざわざ番号を消していますよ。まったく小賢しいことを」
双眼鏡を構えながら、ローン大尉は言った。戦闘指揮所から艦橋へ上がってきたのだ。横では興津も似たような恰好をしていた。
「艦首部分が海底へめり込んでいますね。ああ……あれじゃあ、前部発射菅は使い物にならない」
<U-219>はやや前のめりに海底へ鎮座していた。<宵月>の左舷正横、距離にして500メートルほど先にいて、誰の目にもシルエットがくっきりとわかった。
いかに駆逐艦の探照灯が強力でも海底では減衰し、まともな使い物にならないはずだった。しかし、そんなことはお構いましに赤裸々とUボートを照らし出していた。
「ローン大尉、早く済ませろ」
艦橋内から儀堂の声があがった。
「これ以上、ネシスのBMに奴を入れておきたくない」
◇========◇
毎週月曜と水曜(不定期)投稿予定
ここまでご拝読有り難うございます。
弐進座
◇追伸◇
書籍化したく考えております。
実現のために応援いただけますと幸いです。
(弐進座と作品の寿命が延びます)
最新情報は弐進座のtwitter(@BinaryTheater)にてご確認ください。
よろしくお願いいたします。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます