獣の海 (Mare bestiarum) 31
視界がブラックアウトしたのは突然だった。Uボートが放つ月鬼の歌が、儀堂の感覚を狂わせ、何も考えられないほどの大音響が脳内にハウリングしていく。
『ギドー、しっかりせぬか』
大音響の隙間をついて、ネシスの声が耳に届いた。つづいてネシスの歌声が鼓膜を満たし、敵の歌声をかき消していく。
「今のいったい……」
『レールネの十八番よ』
歌いながらネシスは念話で、儀堂に答えた。
『あやつは心をかき乱し、自我を見失わせるのじゃ。かつて妾の同胞も幾人か、狂わされたのじゃ。あやつめ、性根は変わらずか。絶対に許さぬぞ!』
儀堂は素直に驚いていた。あのネシスが、月鬼に対して怒りをいだいているのだ。これまでと明らかに反応が違った。オアフBMのシルクにしろ、シカゴの月獣相手にしろ、対峙した同胞に対してネシスは悲しみを露わにしても、怒りを見せることは無かった。
「お前とは因縁のある相手らしいな」
『ああ、そうじゃな。この世界に来る前から、妾らは殺しあう
ネシスの声音には殺気がこめられ、剃刀のような剣呑さがあった。儀堂は気に入らなかった。こいつらしくもない。少し癪だが、いつも通り嗤っていたほうが良いのだ。
「宿命とはそういうものだ。しかし、困ったな。先約がいたとは思わなかった」
『なにがじゃ?』
「お前を殺すのは俺の役目だ。奴に先を越されては困る」
『くく、言ってくれるな。安心するがいい。妾はあやつだけには殺されてやらぬ』
どうにか、ネシスの精神は復元したようだった。
「そいつは重畳。副長いるか」
唐突な儀堂の問いに、興津が少し遅れて答えた。
「はい、います」
「君も含めて艦内のものに異常はないな?」
「ありませんが……どうかしましたか」
「いや、なんでもない」
歌の影響を受けたのは儀堂だけのようだった。耳ざとく察したネシスが儀堂に真相を告げた。
『安心せよ。レールネの歌はおぬしにしか届いておらぬ。妾と繋がっておったせいじゃよ』
「なるほど」
『どうする。このままお主との繋がりを絶ってもよいが?』
答えをわかりきっているのに、挑むようにネシスが言う。からかっているのだ。
「莫迦を言え。敵を前にして、目をつぶる奴がいるか。それに向こうは俺の位置を掴んだのだろう?」
『ほう、よくわかったのう』
「奴がお前と同じ術式を使っているのならば、俺の反応から逆探知してきてもおかしくはない。けっこうなことじゃないか。お互いに正面から殴り合える。実に軍艦らしい戦い方だな」
不敵に儀堂が笑うと同時に、Uボートが魚雷を発射するのが見えた。
前部発射菅から2発だった。相対距離はさらに縮まり、五百メートルを切りつつあった。
──この距離で撃ちやがった。
お互い水中爆発でただでは済まないはずだ。それとも刺し違える覚悟だろうか。
獣のようだと儀堂は思った。小賢しさなどかなぐり捨てて、仕留めにかかってきている。
「いいだろう。そっちが獣なら、俺は狩人だ」
【Uボート<U-219>】
前方から空気の抜けるような音がした。連続した発射音だ。これで前部発射管は全て空になったはずだ。後部にはまだ残っているが、使いどころは難しそうだ。
「ええい、好き勝手やってくれるな」
隔壁のパイプにつかまりながら、ハインツは唸った。艦の傾斜が酷く、ほとんど倒れそうなくらいの前傾姿勢になっている。
「お前たちは、そこを動くな」
すれ違う不安げな兵士たちに告げる。艦内では月鬼の歌声が響き、わけのわからないリサイタルが継続中だった。こんな異常な状況でも正気を保っているのが、不思議なくらいだった。あるいは既に狂っていて、単に気がついていないだけかもしれない。
濡れた床に足を滑らせないよう前へ進み、ようやくのところでハインツはゲストルームに辿り着いた。隔壁扉に手をかけると、意外なことにすんなりと扉が開いた。
もどかしいほどに緩慢に動く扉の先にいたのは、ワルサーP38を構えたクラウスSS大尉だった。
「おや、ハインツ中佐」
「お前、何を……」
「私の邪魔をしないでください」
銃声が一発響いた。
◇
レールネの視界は真っ赤に染まっていた。ネシスの歌で魔力が増幅し、ついでに殺意も溢れてきていた。あの子が何をやりたいのか、まったく意味がわからなかった。おちょくられている気すらしていたが、そんなことはどうでもよかった。
殺せる。ようやく殺せるのだ。
<U-219>と一体化した彼女は、<宵月>へ驀進していた。もはや見失いはしない。誰かは知らないが、レールネの歌に心を乱されたものがいる。その男の心の動きが視界に投影されていた。
暗く沈んだ後悔、激烈に滾る憎悪、そして酷く透明な殺意が男から感じられる。
あの子のつがいなのかしら。そう思うと心の奥底が少しざわつき、余計に許せなくなった。
「沈んで。もう潰してあげる」
<U-219>から魚雷が発射され。ひきつけられるように<宵月>へ向かっていく。あの男の情念ごと海底に沈めてやる。
ほら、あと少し。
そう思った瞬間、<宵月>の周囲で巨大な水泡が生まれた。爆雷によって生じた水中爆発だった。
莫迦なのと思った。そう何度も同じ手は通じさせない。
レールネは魚雷の速度を緩め、水泡に巻き込まれないようにした。泥の煙幕も今は無意味だ。あの男の情念をレールネは捉え……。
「え……」
思わず唖然とした。男の殺意が増幅し、大きな塊となって彼女に迫ってきたのだ。
気づいたときにはもう遅かった。水中爆発に紛れて、<宵月>は海底から急浮上し、<U-219>の鼻先に来ていた。
◇========◇
毎週月曜と水曜(不定期)投稿予定
ここまでご拝読有り難うございます。
弐進座
◇追伸◇
書籍化したく考えております。
実現のために応援いただけますと幸いです。
(弐進座と作品の寿命が延びます)
最新情報は弐進座のtwitter(@BinaryTheater)にてご確認ください。
よろしくお願いいたします。
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