獣の海 (Mare bestiarum) 26


 儀堂は大きく息を吸い込むと、鼻からゆっくりと抜き出した。


「……やはりな。そんなことではないかと思っていたよ。ネシス、正直に言え。今のお前は全力を発揮できるのか」


『……』


「ネシス」


『まあ……そうさの、せいぜいが六分咲きというところか。あの機械仕掛けの魚、やってくれたわ』


 不貞腐れたようにネシスは言った。儀堂は特に咎めるようとは思わなかった。過ぎたことであるうえに、ネシスのおかげで生きているのだ。為すべきことは現状を正しく認識し、決心することだった。


「敵の位置はわかるか」


『ぼんやりとだが、近づいてきておる。妾から見て前、少し上かのう』


「艦首、上方か」


 やろうとしていることの予想はできていた。あのUボートは確実に止めを刺しに来るだろう。まな板の上の鯉とは、まさに今の<宵月>だ。


 いや、そもそもの判断が誤っていたのかもしれないと儀堂は思った。敵を確実に捕捉するためとはいえ、わざわざ海中ホームグラウンドに乗り込んでしまったのだ。何よりも、相手が月鬼であると予測しながらも、この体たらくだ。


 内心で舌打ちをしながら、儀堂は過ちを修正することにした。やはり駆逐艦は駆逐艦らしく戦うべきなのだ。


「ネシス、浮上できるか」


『浮くだけならば、造作もない』


「可能な限り早く、海面まで上れ。態勢を立て直す」


『ほう、逃げるのかや』


「いいや、違う。昨今では転進というのさ」


『ものは言いようじゃな』


「早くしろ」


 返事代わりにネシスは大笑すると、<宵月>の深度計の針が動き出した。


「ネシス、俺に視界を共有しろ」


 直後に視界が暗転し、深海の光景が映し出される。Uボートが急速に接近してくるのが見えた。追う側から追われる側になったのだ。小癪だが、良い判断だった。


「Uボートへの警戒を怠るな。俺が奴なら……畜生、やはりな!」


 前部発射管から魚雷が二本発射された。それらは真っすぐ<宵月>へ疾走してきた。すかさず儀堂はマイクのスイッチを艦内放送へ切り替える。


「総員、耐衝撃! ネシス、全速力で浮上だ。一気にいけ!』


 目前の魚雷を睨みつけながら、儀堂は叫んだ。昇降機に乗った時のように、下方向へ押し付けられる感覚が全身を覆う。


 魚雷は<宵月>の船底を通り過ぎると、大きく弧を描きながらUターンし、追尾してきた。心なしか緩慢に見えたが、それだけ<宵月>が急浮上しているのだろう。このままいけば、振り切れそうだった。


 思わず儀堂は上を見上げた。月明かりが照らすであろう海面が、暗闇の先にあるはずだった。


 そう、あともう少しで光が見える。


 いや、見えた。


 紅い光の帯が4本、直上から向かってきた。


「ネシス、魚雷だ!」


 儀堂にとって認めがたい事実が迫っていた。下方から2本、上方から4本の魚雷に挟まれた格好だった。悪夢を見ている心境だった。いったい、どこから生まれた魚雷なのだ。いつの間に、奴は発射していた?


 儀堂が理解できないのも、無理はなかった。上方から迫る4本の魚雷は、<宵月>が着底する前に放たれていたのだ。より正確には、後部から発射した魚雷が<宵月>に炸裂した瞬間だった。ネシスがダメージ負い、混乱した隙に<U-219>の前部発射管から放たれていたのだ。4本の魚雷は海中を漂い、浮上する<宵月>を待ち構えていた。


 だが、そんな事実は儀堂にはどうでも良いことだった。十数秒後に訪れる絶体絶命のときを如何にして対処するかが問題だった。


 恐らく先ほどと同じように、ネシスのBMに触れる直前に魚雷を自爆させるつもりだ。


 いかにネシスのBMが強力でも、四方八方から衝撃を食らえばただでは済まないだろう。


 どうする。


 手を打たなければ。


 何をすればよい。


 莫迦野郎。


 ここまでだ。


 これで終わりだ。


◇========◇

毎週月曜と水曜(不定期)投稿予定

ここまでご拝読有り難うございます。

弐進座


◇追伸◇

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