獣の海 (Mare bestiarum) 27
突然、儀堂は拳で激しく自分の頭を打ち据え、正気を取り戻した。艦橋内にいた者は気がふれたと思っただろう。
殴りつけたせいで視界が船底の後方へ向いた。うっすらと2本の魚雷が追いかけてて来るのが見えた。ネシスは夜目が効くらしく、海中でも目標を捉えることが出来た。何かがおかしいと気が付いたのは、そのときだった。続いて仮説が生まれた。
果たして、どうだろうか。
いや、これ以上考えている暇はない。
「ネシス、沈め。下へ逃げるぞ」
下方へ迫る魚雷へ向けて、<宵月>は落ちていった。
「興津、機関停止、すぐにだ!」
マイクを切り替える時間も惜しかった。すぐそばで返事があった。
「了解! 機関停止、繰り返す、機関停止!」
<宵月>の船腹から音が消え、スクリューの回転が徐々に止まっていく。その間にも、魚雷との相対距離は刻々と変化していった。
上方から迫る4本の魚雷との差は開きつつあったが、下方から迫る2本との間はどんどん縮まりつつあった。
<宵月>は重力とネシスの力によって、加速度的に沈降しつつあった。三半規管が忙しく反応し、危機を知らせている。
数秒後に決定的な瞬間が訪れた。
下方から迫る魚雷が至近に迫り、針路が交錯する。わずかにだが<宵月>の沈降のほうが早いように見えたが、それは慰めにはならなかった。
「耐衝撃!」
いったい何度、俺は同じ命令を下したのだろうか。仕方がないことだが、自分が阿呆に思えてくる。
予想された衝撃は、しばらくした後に訪れた。それは予想以下の規模で、鋼鉄の船体を小さく震わせた程度だった。
<宵月>は再び海底に降り立った。数千トンの鉄塊を迎えたことで、盛大に泥が舞い、辺り一面に自然の煙幕が展開された。
仮初であるが、<宵月>は下方からの危機を回避した。恐らく2本の魚雷が海面へ向けて遠ざかっていくだろう。残念ながら、周囲に漂う泥のせいで儀堂からは見えなかったが。
『儀堂司令、何がおきているのですか』
戦闘指揮所から、困惑気味にローン大尉が尋ねた。彼は<宵月>の総員を代弁していた。
「詳しくはあとで話すよ」
儀堂は額の汗をぬぐった。目視出来ないがぐっしょりと袖が濡れたように思った。心臓が忙しく胸を叩き、煩わしささえ覚えた。いっそ止めてやろうか。
「あの2本は
下方から<宵月>を追ってきた魚雷は、魔導で操作されていない魚雷だった。確かに<宵月>を追尾してきたが、紅い光を帯びていた魚雷と違い、動きが緩慢だった。言ってしまえば、
──恐らく、敵の月鬼に限界があるのだろう。奴が操作できる魚雷は最大で4本までだ。
ネシスに確かめてみたいと思ったが、それよりも片付けなければならない問題があった。上方から迫る4本だ。相変わらず<宵月>へ向かって突き進んでいる。
泥のカーテンの先から、うっすらと紅い点が4つ見えた。
未だに危機を脱していないが、儀堂は冷静さを取り戻しつつあった。今度も何とかなるだろうと無根拠な確信が生まれつつあった。もっと正確には決心と言うべきかもしれない。
──こんなところでくたばってたまるか。
ある意味では<U-219>艦長ハインツの予想は正しかった。儀堂は執念深い男だった。闘争心と日本人らしからぬ生への執着を持っていた。
思えば、最悪の状況から遠ざかりつつあった。最初の一撃を食らい、海底に鎮座したときに畳みかけられていたら、きっと酷いことになっていただろう。
なぜ、そうしなかったのだろうか。
<宵月>が浮上する前に、奴は確実に仕留められていたはずだ。
気づかなかった? いや、そんなはずはない。こんな禄でもない攻撃を仕掛ける奴が、気づかないはずはない。
それとも出来なかった? なぜだ?
あの紅い魚雷が<宵月>を追えなかったとしたら?
「ネシス、BMの空間を縮小しろ。<宵月>をぴったりと包み込むぐらいまでだ」
『良いのか? それではお主たちにも害が及ぶぞ。あの爆発が起きたら妾の膜を越えて、この船にも──』
「構わない。早く……!」
紅い光点が迫るなかで、BMの空間が小さくなり、<宵月>に張り付くように展開された。
間髪入れずに、儀堂は命じた。
「爆雷投射! 全部、ぶちまけろ!」
◇========◇
毎週月曜と水曜(不定期)投稿予定
ここまでご拝読有り難うございます。
弐進座
◇追伸◇
書籍化したく考えております。
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(主に作者と作品の寿命が延びます)
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