獣の海 (Mare bestiarum) 15

「ちょうだい」


 黒い函に収まった少女は桃の缶詰を所望した。クラウスは慎重に缶切りで開けると、フォークを突き刺した状態で手渡した。


 少女は缶から桃を一切れ取り出すと、つまらなさそうにかじった。


「少し疲れた?」


「別に。なぜ、そんなことを聞くの?」


 少女は首を傾げた。ビスクドールのように固定された顔つきだった。


「だって、ずっと狭い場所に閉じこもっていただろう。それに碌な休憩もとっていなかったからね。まあ、私の思い過ごしならそれでいいけど」


「疲れていないわ。それに閉じこもっていない。私はずっと、この海を泳いでいたし……あと、あの子を困らせることが出来たから──」


 そこで一息つくと、口端を対称的に吊り上げた。


「とても楽しかった」


 クラウスは表情を変えず、頷いてみせた。


「なるほど、それは良かったね」


「あなた達がくれた玩具が、役に立ったわ」


「気に入ってくれたようだね。地中海まで連れてきた甲斐があったよ」


 <U-219>は<宵月>よりも二週間早く、地中海へ侵入していた。カリブ海での対米工作任務が終わった後、フランスの大西洋側のロリアンへ帰還。その後、一週間の休暇を経て地中海側のトゥーロンへ寄港した。


 クラウスが少女を連れて、<U-219>と合流したのはトゥーロンだった。彼もカリブ海の任務に赴いていたが、<U-219>よりもさらに早くドイツ本国へ帰還していた。帰りは空母<グラーフ・シュペー>に運んでもらった。その後にドイツ本国で短めの休暇を終えた後、新たな任務を仰せつかったのだ。


 ふと少女の視線が自分の背後に注がれていることに気が付く。振り向くと<U-219>の艦長、ハインツ・クルーゲ中佐が立っていた。閉め切った水密扉に身を預けた格好だ。Uボート艦長らしく、伸ばしっぱなしの髭面で目元に小さなクマを粗雑な印象を持つ。クラウスとは対称的な軍人だった。


「どうかされましたか?」


「おたくが何も言ってこないから、わざわざ来てやったところさ。それから、戦闘配置のはずだったがな」


 ハインツはクラウスが持つ桃の缶詰を、冷ややかに見つめていた。まるで生徒の悪戯を見咎めているようだった。


「失礼しました。戦闘ならば先ほど終わりましたので」


 クラウスは恐縮した顔で答えると、空の缶詰を床に置いた。


「それはよかった。うちの聴音員からどでかい爆発音があったと聞いていたが、君ら・・の任務は完了したということでよろしいかな?」


「ええ、それはもちろん。我々・・の任務は、恐らく完了しました」


 含むものをハインツは感じた。


「恐らくとは?」


「戦果確認がまだですので、それに英国人トミーどもの船が残っています」


 ハインツは僅かに眉をひそめた。


「おい、少し待て。まさかとは思うが、英国海軍に襲撃をかけるつもりじゃないだろうな」


 クラウスはふっと笑いを浮かべると小さく首を振った。


「ご安心ください。我々は仕掛けませんよ。むしろ、彼らが仕掛けるのです」


 芝居がかった口調に、ハインツは嫌悪感を覚えた。


「君の言うことは、全く意味が分からないのだが」


「失礼しました。しかし、これ以上は私も言えませんので、ご理解いただきたいのです」


 ハインツは水密扉から重心を移した。いつまでもくだらん問答に付き合うことはできない。


「ああ、わかった。君らは秘密が多いんだな」


「ええ、不便なことです」


「全くだ」


 ハインツが出っていた後、少女がおもむろに尋ねた。


「これからどうするつもり?」


「少し、この海域に留まろう。本当に<ヨイヅキ>を排除できたか、確かめなくてはならないからね」


 少女は不満そうな顔を浮かべた。


「おや、気に障ったかな? 確かに、ここは狭苦しいところではあるけど──」


「私が失敗したと、あなたは考えているのね」


「ああ、ごめんよ。君の能力を疑ったわけではないんだ。ただ、上官から念を押されているのさ。必ず<ヨイヅキ>を破壊せよとね」


 クラウスは床に置いた桃缶を手に取った。ゴミ箱はどこだったか。缶の底に歪んだ自分の顔が映った。


「それに、君だってそうだろ?」


 クラウスの問いかけに少女は小首をかしげた。


「月鬼はなかなか死ななない。ちゃんと殺しきっているのか、死体を見なくてもいいのかな?」


「……そうね。それは、見たい」


◇========◇

次回5月2日(月)に投稿予定

ここまでご拝読有り難うございます。

弐進座


◇追伸◇

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