獣の海 (Mare bestiarum) 12

 五千トンの鉄塊が水しぶきとともに月下へ躍り出る。直後、水柱が海面から沸き上がった。水の束に囲まれながら、<宵月>はさらに上昇していく。やがて逆立った水柱は<宵月>を離れ、重力の網に引きずられるまま海へ回帰していった。


「ネシス、船体を水平に戻せ。ゆっくりな」


『あい、わかった。少し待ちやれ』


 艦首から艦尾へ傾斜した船体が元に戻っていく。ほっそりとした<宵月>の全身から海水がしたたり落ちていく。月光を浴びて、つややかな印象を抱かせた。


「ネシス、敵の位置はわかるか?」


『さっぱりじゃ』


 あっけらかんとした声が耳当てから響き、儀堂は喉頭式マイクを艦内放送へ切り替えた。


「手の空いた者は、甲板へ出て索敵しろ。安全帯を忘れるな。何か見つけたら、すぐに艦橋へ上げろ」


 興津がそっと近づいてきた。


「司令、<ヴァリアント>のウィッペル少将へ?」


「ああ、頼む」


 興津は肯くと、艦内電話を手に取った。電信室から護衛艦隊の旗艦<ヴァリアント>へ打電するためだった。



【駆逐艦<マイソール>】


 輸送船団は<宵月>の西方50マイル《約80キロ》を航行していた。


「艦長、変針命令です」


 電文のメモを手に副長のマーズが訪れた。エヴァンズは受け取ると艦長席から立ち上がった。そのまま眼鏡をかけ、赤色灯の下へ歩み寄っていく。灯火管制が敷かれているため、文字を読むのにも苦労する。


「針路045に向けて変針せよ……」


 眉間に深い皺を作りながら、エヴァンズは壁にかかった時計を仰ぎ見た。グリニッジ標準時刻で午前0時を回ろうとしていた。


「……30分後か。ずいぶんと予定よりも早いな」


 次の変針点まで、あと二時間ほど猶予があったはずだった。


「<ヨイヅキ>から会敵したと通信がありましたから」


 少し前に先行している<宵月>から艦隊旗艦<ヴァリアント>へ報告があった。複数の敵から攻撃を受け、交戦中とのことだった。司令官のウィッペル少将は敵が伏在してる海域を避けていくつもりだろう。このままでは、交戦海域へ船団を導いてしまうのだから。


 エヴァンズは赤色灯の下から、漆黒の海上へ目を向けた。月明かりでかろうじて海面の様子を見て取れた。穏やかで静かな海が続いている。戦争中とは思えず、どこか別世界の話にすら思えてくる。


 <マイソール>から見て南方には、輸送船の群れが数マイル間隔を空けて連なっているはずだった。恐らく彼らも何かを感じ取っているだろう。<宵月>の電文は暗号化されていたが、暗号化されているという事実が自ずと緊迫した状況を物語っているからだ。


「艦長、このまま変針して大丈夫でしょうか」


 珍しくマーズから疑問を呈してきた。エヴァンズは意外に思いながらも、顔には出さなかった。


副長ナンバーワン、もっと具体的に疑義を呈したまえ」

 艦長席に座り、エヴァンズは言った。ひびの入った肋骨が抗議を伝えてきたが、無視した。


 エヴァンズに諭され、マーズは恐縮な面持ちで口を開いた。


「いえ……<宵月>の報告が確かならば、敵は魚雷で駆逐艦を攻撃したことになります。その理由がわかりません」


「君は、敵の正体についてどう思うのかね」


 一足飛びにエヴァンズはマーズの核心を突いた。


「それは……」


 ためらいつつも、マーズは肯いた。


「あくまでも仮定の話ですが、もし敵が魔獣などではなく、人類……潜水艦ならばおかしな行動です。狙いは船団のはずですから。セオリーから考えて先行している駆逐艦<ヨイヅキ>をやりすごし、後に続く船団本隊を襲撃したほうが理に適っています」


「そう、あくまでも相手が人類ならばの話ではな」


 エヴァンズは念を押すように言った。


「艦長は魔獣とお考えですか?」


「それは、わからんよ」


 エヴァンズは迷いなく言い切った。<宵月>の報告が正しければ、追尾性能を有している魚雷らしい。未だに実用段階に至っていない未知の技術だった。しかし魔導によって操られた魚雷ならば話は別だ。すでに英国海軍の高官には、敵が魔導を行使できる存在だと共有されていた。


「では……?」


「コインの裏表だ。どちらも在りうるように思う。ただ、私も違和感は覚えている」


 エヴァンズは英国人らしく経験を重んじていた。そこには個人的な体験のみならず、英国海軍として蓄積してきた地中海の戦訓が含まれている。


 ここ数か月、地中海での戦闘はおおよそ唐突に始まっている。どこからともなく船団が攻撃を受け、じりじりと損害を出しながら戦闘は終わりを迎える。いずれも船団本隊を狙ったもので、単独で航行中の戦闘艦は無傷だった。


「これまでとパターンが違う」


「ええ……先ほどの自分の見解を否定するようですが、実に魔獣らしい動きです」


 魔獣ならば単艦だろうが、船団だろうが見境なく襲撃してくるはずだった。その意味で地中海で頻発している戦闘は魔獣らしからぬ異端のケースだった。まるでかつてのUボートのように船団を集中して狙ってきたのだから。


 しかしながら、今になってチグハグな襲撃を仕掛けてきた。


「魔獣のように魚雷で襲ってくる敵か。人魚セイレーンのように半人半獣なのかもしれん」


「耳に蜜蝋を詰めたほうがよさそうですね」


 ドレイパーの油彩画を思い浮かべながら、マーズは言った。艶めかしい半裸の人魚ファム・ファタール、帆柱に縛り付けられたまま歌声に狂う英雄、黙々と櫂を漕ぐ男たち。


 エヴァンズは眉間の皺を緩めた。


「ならば、ユリシーズ役は<ヨイヅキ>に買ってもらおう」


◇========◇

次回4月11日(月)に投稿予定

ここまでご拝読有り難うございます。

弐進座


◇追伸◇

書籍化に向けて動きます。

まだ確定ではありませんので、

実現のために応援のほどお願いいたします。

(主に作者と作品の寿命が延びます)

詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)

もしくは、活動報告(2021年6月23日)を

ご参照いただけますと幸いです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る