獣の海 (Mare bestiarum) 10
【地中海 駆逐艦<宵月>】
1946年5月23日 夜
ジブラルタルを出港してから一週間ほど経過したところだった。輸送船団はひたすら東進している。
静かな夜だった。海は薙いでおり、風も落ち着いていた。天候も申し分もなく、空を見上げれば満天の星を拝むことが出来ただろう。その中にはスピカ、デネボラ、アルクトゥールスで形成される春の大三角形が煌々と輝いていたに違いない。
しかしながら、いずれも<宵月>には関係のないことだった。
副長の興津大尉が
入室するや、興津の目に、やはり手持ち無沙汰な士官が映った。
「小清水じゃないか」
呼ばれた士官は、軽く頭を下げた。掌砲長の小清水禎一中尉だった。
「お邪魔しております」
小清水は軍人らしからぬ丁寧な口調だった。彼は予備士官として招集された青年だった。軍に来る前は、紡績会社の経理を務めていた。本来ならば主計士官として配属されるはずだったが、人手不足の砲術へ引っ張られたのだ。経理畑を歩んできた小清水は数字に強かったためだ。彼の数学的な才能は弾道計算に活かされることになった。
「ずいぶんと、お疲れのご様子に見えます。お茶でもいかがですか」
「もらおうか」
小清水は未使用の湯飲みを持ってくると、やかんから茶を注いだ。興津は礼を言うと、喉を潤した。冷めきった茶が食道を下っていき、心地よかった。欲を言えば、出がらしではなく濃ゆいものがよかった。
「それは、なんだ?」
小清水はテーブルにノートを広げていた。片手には万年筆が握られている。よく見れば細かな字で品目と数字が書き込まれている。
問われて小清水は少々気まずい顔を浮かべた。
「いえ、実は主計班の作業を手伝っているのです」
興津は目を細めた。
「主計は人が足りていないのか?」
「ああ、いや、そういうわけではありません」
小清水は取り繕うように言った。
「何と言いますか。私のわがままを聞いてもらったのです」
「どういう意味だ?」
「いえ、その、大変言い出しにくいのですが……暇だったのです」
「……ああ」
すぐに合点がいった。
「普段ならば、それこそ砲術訓練でもできるのでしょうが、なにぶん──」
小清水は親指で船外を指した。士官室に舷窓はなかったが、言わんとしていることはわかった。
たった今、<宵月>は漆黒の空間に囲まれている。
駆逐艦<宵月>はシチリア海峡の水深二十メートルを航行中だった。ネシスの魔導によって、<宵月>の上部構造物は楕円形の膜につつまれ、防水処置がされている。
「海面下での砲術訓練など、海軍の教本には記されていないからな」
「ええ、まったく……それで時間が出来たので、古巣の手伝いを私が買って出たわけです。向こうも渡りに船だったようでして」
「野田大尉は把握しているのだな?」
野田は砲術長で、小清水にとっては上官に当たる。
「それは、もちろん。野田大尉から『ほどほどならかまわんよ』とお言葉をいただいています」
「そうか。ただ、事前に儀堂司令と俺に一言申し添えてほしかったが」
「申し訳ありません」
恐縮する小清水に興津は首をふった。
「いや、いい。もう過ぎたことだ。気にするな」
本来ならば野田から儀堂か興津に相談があるべきだった。あるいは自分の知らないところで、儀堂に相談があったのかもしれない。
「それで、臨時
興津は声の調子を軽くして尋ねた。必要以上に委縮させてしまったため、話題を変えることにしたのだ。
小清水はほっとした表情で答えた。
「かなり潤っています。英国の支援のおかげですね。ジブラルタルで必要な資材を全て揃えることが出来ました。チリ紙から魚雷まで必要な物資の全てが充足しています。特に酒保はかつてないほど品ぞろえになったかと。舶来物の酒が大量に入ってきたとか」
「それは、また景気のいい話だ」
興津はジブラルタルの酒場を思い返した。あそこで飲んだカシャッサとかいうブラジルの酒も含まれているのだろうか。
◇========◇
次回3月28日(月)に投稿予定
ここまでご拝読有り難うございます。
弐進座
◇追伸◇
書籍化に向けて動きます。
まだ確定ではありませんので、
実現のために応援のほどお願いいたします。
(主に作者と作品の寿命が延びます)
詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)
もしくは、活動報告(2021年6月23日)を
ご参照いただけますと幸いです。
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