獣の海 (Mare bestiarum) 3

【アドリア海】

 1946年5月16日 夜


 ロレンツィオ・オルフェオ・チェッリーニ中佐にとって、5月は受難の月だった。あるいはイタリア海軍と言い換えるべきなのかもしれない。


「集中射!」


 無線越しに麾下の舟艇に命令を告げると、一斉にオレンジ色の点線が伸びていった。海岸線に迫る黒い塊の群れに向けて、曳光弾が降り注ぐ。途端に奇妙な鳴き声と咆哮がアドリア海の水面を震わせた。


 砂浜から幾つかの煌めきが生じ、砲兵陣地から砲弾が吐き出された。呼応するように即席の機銃座がけたたましい戦場音楽を奏で始める。いずれも海から迫る敵を指向していた。


 無数の水柱が芽吹き、散っていった。時折、赤や紫の色が混じるのは魔獣が肉塊と化した証だ。


 ロレンツィオの舟艇隊は海岸線を舐めるように掃射すると、高速で沖合へ離脱した。振り向きざまに戦果を確認する。


 まずは第一波を防ぎ切ったらしい。再突入の可否を考える中、波間の一角が盛り上がった。


「中佐、あれを……」


 背後の機銃手が一点を指さしていた。


「ああ、わかっている」


 風防の縁を握りしめ、ロレンツィオはうなずいた。高速艇はロデオのように揺れ動いている。気を抜けば、そのまま船外へ放り出され、水面に叩きつけられてしまうだろう。


 盛り上がった海面から、無数とも思える巨大な首が突き出てきた。大型魔獣のヒュドラだった。緩慢な動きだったが、着実に海岸線に近づいている。


「ド派手な客が来たもんだ」


 快活極まる怒鳴り声をあげて、ロレンツォは仲間を鼓舞した。彼が率いるのは、M.A.S艇と呼ばれるイタリア海軍の高速舟艇だ。自身を含めて4隻の舟艇が、彼が自由にできる戦力のすべてだった。


「陸の奴らには、少し荷が重そうだな」


 砂浜を守っているのは、一個小隊ほどだったはずだ。重火器は迫撃砲とドイツから供与された携行型無反動砲パンツァーファウストぐらいだ。砲兵が控えているが、恐らく弾薬に余裕がない。何せ、丸一日ぶっぱなし続けていたのだから。


 いや、その前からだ。


 イタリア半島の東部、アドリア海に面した海岸線は魔獣の津波に襲われていた。たった今、ロレンツォが急行してきたマンフレドニアも、その一つだった。イタリア半島の踵、その付け根辺りにある街で、普段は閑散とした砂浜が広がっている。


「沖合の艦に支援を要請しますか?」


 無線手が尋ねてきた。


「やってくれ。ただし、期待は禁物だぞ。俺たちほどエンジンをぶん回せるわけじゃない」


「了解。言うだけはタダですからね。まあ、連中も難儀なもんですわ」


 無線手は軽口をたたくと、沖合にいる駆逐艦へコンタクトを取り始めた。


 恐らく駄目だろうとロレンツォは思っていた。理由は三つある。


 今日みたいなお祭り騒ぎが、アドリア海のそこかしこで起きていること。そのために派遣できる海上戦力が、あまりにも少ないこと。最後に、艦を動かすための油が底をついていること。最後の理由が致命的だった。


 イタリア海軍は額面上は有力な戦力だったが、実態は散々なものだった。今回の迎撃任務に駆り出されたのも、大半はロレンツィオが乗る小型舟艇、より大型・・なのは駆逐艦だった。軽巡以上の艦艇は、ターラントの岸壁に縛り付けられていた。


「ドイツが油を融通してくれるんじゃなかったんですか」


 機銃手がぼやいた。


「ああ、融通してくれたとも」


 ロレンツィオは笑いを堪えていた。


「そのおかげ・・・で俺たちが暴れまわれるんだよ」


「……なるほど」


 艇内に失笑があふれたところで、ロレンツィオは決心を固めた。


「舵を切ってくれ。久しぶりに、水雷艇らしいことをするぞ」


「了解」


 操舵手が舵輪を回すと、大きく弧を描きながらロレンツィオの舟艇が海岸線へ舳先を向け始めた。続いて、麾下の舟艇も一斉に舵を切り、ロレンツィオに続いた。


「舵を戻せ。針路そのまま」


 舳先が黒い巨影に向けられる。ヒュドラの群れだ。無数の首を束ねる胴体は三体あった。距離は目測で、ざっと千五百メートルほどだ。その差は、あっという間に詰まっていく。


 けたたましいエンジン音にヒュドラたちも気が付いた。鎌首のいくつかが、ロレンツィオに舟艇隊へ向けられる。たちまち、緑色の火炎が吐き出され、鮮やかに周辺を照らし上げた。第三者的に見れば、綺麗な光景だったが、その下で繰り広げられるのは命のやり取りだった。


 ロレンツィオは舌なめずりをした。劇画的だが、興奮したときの彼の癖だった。舌の細胞が唇に張り付いた塩化ナトリウムをこそぎ取った。


「距離は二百まで詰めろ。俺たちが先に行く」


 無線で発射距離を告げて、間もなく二百に達した。


発射フォッコ!」


 ロレンツィオのM.A.S艇に搭載された二本の魚雷が発射された。外しようのない必中の距離だった。それは相対するヒュドラにとっても同義だった。十数本の緑色の火炎が放たれ、ロレンツィオに迫った。


「取り舵一杯!」


 急角度で旋回を取り、水しぶきのスクリーンを展開される。その背後で、ロレンツィオ隊の舟艇が次々と魚雷を放った。


ずらかれコレレ!」


 ロレンツィオの部下は、指揮官に忠実だった。彼らは指揮艇にならい、見事な弧を描いて離脱した。まもなくして、彼らの背後で轟音が響き渡った。

 振り返れば、黒煙と緑色の炎に包まれた肉塊が出来上がっていた。


◇========◇

次回2月7日(月)に投稿予定

ここまでご拝読有り難うございます。

弐進座


◇追伸◇

書籍化に向けて動きます。

まだ確定ではありませんので、

実現のために応援のほどお願いいたします。

(主に作者と作品の寿命が延びます)

詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)

もしくは、活動報告(2021年6月23日)を

ご参照いただけますと幸いです。

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