獣の海 (Mare bestiarum) 1
【地中海】
1946年5月16日
輸送船団が碧海に乗り出して、最初の1日が過ぎようとしていた。
現在位置はジブラルタル西方、三百キロほどの海域を通り過ぎている最中だ。すでに陸地は彼方へ過ぎ去り、水平線に取り囲まれている。
規模は、今年に入って最大隻数に達している。
俯瞰してみれば、船団の陣形は次の通りだった。
中央部には、50隻ばかりの船舶が五列の縦隊を形成し、その周辺を19隻の艦船が取り囲んでいる。
船団の前方には旗艦の戦艦<ヴァリアント>を中心に、4隻の駆逐艦が展開している。後方には空母<イラストリアス>が控えていた。両脇を軽巡洋艦<エイジャックス>と<アキリーズ>が固め、さらに後方に2隻の駆逐艦が航行している。
進行方向の両翼にも、やはりコルベットと駆逐艦が距離を保ちながら随行している。左右それぞれ4隻ずつ、合計8隻ほどだった。
護衛部隊も併せて、七十隻に達する大船団が十五ノットほどで舳先を西へ向けていた。
駆逐艦<マイソール>は、船団北側のグループに属していた。
「我が軍の出納係は、ずいぶんと気前良くなりましたね。
揶揄する口調で、マーズ大尉は言った。双眼鏡を両眼にあてがい、右舷へ向けている。レンズには船影の群れが映し出されている。
「あるいはダービーかもしれない」
艦長のエヴァンズ中佐が返した。やや、やつれた印象を覚える。先月の戦闘で負った傷が癒えきっていなかった。
東奔西走。
<マイソール>の航跡を表すのならば、その一言に尽きていた。飾らぬ言葉ならば過重労働と称するべきなのかもしれない。
先月、護衛戦闘の果てに<マイソール>はマルタ島で応急修理を受けた。マルタには乾ドックはなかったが、代わりに工作艦が停泊していたためだ。
厄介だったのは、不発の魚雷が艦首に突き刺さっていたことだった。艦長のエヴァンスからすれば、すぐにでも引き抜いてしまいたかったが下手をすれば炸薬が誘爆しかねなかった。艦内の人間を全て陸に上げ、調査と処理が済んだのは4月末だ。その頃には、船団護衛の任務は解かれ、司令部への報告もあらかた終わっていた。
通例ならば、別命あるまで待機するはずだったが、<マイソール>に安息は訪れなかった。すぐに地中海艦隊から電文が届いたからだ。皮肉なことに、自身を戦闘不能に追い込んだ魚雷をジブラルタルまで輸送する任務だった。そのほかにもわけのわからない
エヴァンズを初め兵員たちが満足な休暇を得られたのは、ジブラルタルで過ごした数日間だけだった。兵員たちは英気を養えたかもしれないが、エヴァンズ自身は例外だった。本人は絶対に認めようとしなかったが、入院措置が必要な身体だった。医者の見立てでは肋骨にひびが入っているそうだ。
「いずれにしろ、賞金の額は大したことはあるまい」
エヴァンズは珍しく微笑を浮かべた。周りに気づかいをさせたくなかったのだろう。
「考えても見たまえ。守るべき50隻に対して、我々は20隻にも満たない。それも同盟国の支援を受け──」
エヴァンズの声は、レシプロ機の音でかき消されてしまった。
上空を三機の<烈風>がフライパスしていった。
◇
駆逐艦<宵月>と特務輸送船<大隅>は、船団の前方先行していた。進路上の警戒が主な任務で、儀堂が護衛部隊の指揮官ウィッペル中将へ申し出たものだった。
儀堂は艦橋近くの休憩室にいた。ほんの3畳ほどの広さしかなく、簡易ベッドが備えられているに過ぎない部屋だ。艦橋には興津が当直士官として、控えていた。出港して間もない日取りだ。敵襲の可能性が低いため、自らは待機しておくことにした。
室内に窓はついていない。薄暗い中で時間の感覚が空虚に過ぎていく。ふと手元の腕時計を見れば、正午にすら達していなかった。
外の景色を拝もうかと思案するも、いまいち気乗りがしなかった。どのみち灰色の景色しか、そこにはないのだ。天候は良好だったが、あいにく<宵月>を取り巻く視界は不明瞭だった。
おもむろに儀堂は喉頭式マイクのスイッチを入れた。
「ネシス」
『退屈じゃ』
耳当てから、欠伸交じりの愚痴が響いてきた。
『おぬしもそうじゃろう? でなければ、用もないに妾を呼び出すこともなかろう?」
からかい口調でネシスは言った。
「莫迦なことを言うな。異常はないな?」
『あるはずもない。あらばお主に告げておるし、妾の気も紛れようのに──」
嘆き節でネシスは返事をした。
「俺たちは暇つぶしに、ここへ来ているわけではない」
『何を今さら──お主こそ何を考えておるのじゃ? 妾にはさっぱりわからぬぞ』
あからさまにネシスは不満げだった。
「なんのことだ?」
『とぼけるな。なにゆえ、妾たちが姿を隠さねばならぬじゃ。まるで亀のようにのろのろとして、一向に埒が明かぬぞ』
思わず儀堂は苦笑した。こいつと話して笑うことがあるとは……。
確かに<宵月>の境遇を表すならば、ドンガメの一言に尽きるだろう。<宵月>は船団主力の前方50キロ、水深80メートルを航行していた。
船体上部を楕円上の膜で覆い、浸水を防いでいた。理屈としてはネシスによって、BMを部分的に展開している状態だった。船底部分はあえて露出させ、スクリューによって推進力を得ていた。同じく船首部分の聴音装置も露出させ、常に周辺を警戒させている。
『何がおかしい?』
ネシスはいっそう不機嫌さを増していた。
「いいや、なんでもない」
『ギドーよ。妾は飽きてきたぞ。このうえは疾く飛んで、この海に潜む怪異を滅してしまわんか?」
「それは駄目だ」
儀堂は即座に却下した。
『なにゆえ?』
答えるまで少し間があった。
◇========◇
次回1月24日(月)に投稿予定
ここまでご拝読有り難うございます。
弐進座
◇追伸◇
書籍化に向けて動きます。
まだ確定ではありませんので、
実現のために応援のほどお願いいたします。
(主に作者と作品の寿命が延びます)
詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)
もしくは、活動報告(2021年6月23日)を
ご参照いただけますと幸いです。
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