招かざる予兆(Scirocco)25

【バルカン半島】

 1946年5月1日

 

 バルカン半島の異変は五月の段階で始まっていた。それは<大隅>の「作業室」が騒がしくなる少し前のことだ。



 ダンツィヒで不愉快かつ不可解な演習を終えた後、エアハルト・ハウザー少佐の装甲中隊はウィーン経由でオーストリア領内を縦断、ヴィロヴィティツァという街まで来ていた。


 かつてのオーストリア=ハンガリー二重帝国、今はクロアチア独立国と呼ばれる地域にある。


 第一次大戦直後、ヴィロヴィティツァはユーゴスラビア王国内のクロアチア自治州だった。それが独立国・・・に進化したのは、ナチスドイツの支援によるものだった。


 ユーゴスラビアはセルビア人が大勢を占めていたため、クロアチア人は潜在的に不満を抱えていた。多数決の原理から国政を主導していたのはセルビア人だったからだ。加えて、バルカン半島にける民族自決のブームにクロアチア人は乗り遅れていた。


 第一次大戦後、オーストリア=ハンガリー二重帝国が解体され、帝国が包含していた地域は民族単位で独立国家を形成していった。その様相は地母神神話のようで、滅びた帝国の母体から多くの国家が生み出されたのだ。


 バルカン半島において多くの民族が独立国家を形成したが、クロアチア人は取り残された。彼らは遅れを取り戻すために、ナチスドイツの力を借りた。1941年、クロアチア人は念願の独立国家を得たが、代償としてハーケンクロイツの制約を受けることになった。


 ハウザーの部隊が何の咎めを受けることもなく、クロアチア独立国に進入できたのは制約の結果だった。クロアチア独立国はドイツ軍の通行を無期限で保証していた。


 ヴィロヴィティツァ郊外の村落にハウザーは部隊を駐留させた。幸いなことに中隊全員が屋根のある場所で寝ることが出来た。住民と交渉の必要はなかった。どこもかしこも空き家だらけだったからだ。


 理由は単純だ。


 数十キロ先に最前線があった。


 五年前、バルカン半島もBMと魔獣の惨禍に覆われた。BMはバルカン山脈に沿うように出現し、魔獣を際限なく吐出し続けた。クロアチアはBMの出現地域から離れていたが、あくまでも相対的な意味しか持たなかった。魔獣は群体を形成し、ギリシャ北部とアルバニア、マケドニア、ブルガリアで惨劇を演じ、南北へ勢力圏を広げていった。


 当時、バルカン半島には現地人の治安維持部隊とドイツ軍が駐留していたが焼け石に水だった。ドイツ軍の主力はモスクワ攻略の最中で魔獣の襲撃を受け、ブリザードの中を撤退し続けていた。つまるところバルカン半島に残された道は絶望しかなかった。クロアチアも例外なく蹂躙されるはずだったが、全領土の喪失は避けられた。


 理由は不明だが、魔獣の侵攻が不活発化したからだ。誠に幸いなことに、クロアチアは南半分の領土を失うだけで済んだ。


 BMと魔獣の侵攻が停滞したのは1942年ことだった。以来、バルカン半島は4年間にわたり南北が分断されている。バルカン山脈沿いに展開したBMと魔獣の群体によって、中東欧の交流は途絶えていた。バルカン半島に住まう人類にとっては新たな苦難の始まりだったが、唯一の救いは魔獣との戦闘が小康状態になったことだった。以来4年間にわたり、相対的な平和が半島に訪れた。


 皮肉なことに、有史以来絶えなかった民族間の対立は鳴りを潜めることになった。BMと魔獣はセルビア人やチェコ人、クロアチア人を分け隔てなく殺戮した。言葉の通じぬ敵を前にして、彼らは肩を並べ、背中を預けて戦わざるを得なくなった。


 ハウザーが派遣された村落は無人ではあったが、目立った脅威は見当たらなかった。バルカン山脈に近く、最前線と言えでも散発的な小競り合いが起こる程度でしかなかった。


 ロシア戦線に比べれば可愛いものだと、ハウザーは思っていた。


 彼の感想が覆されたのは、深夜だった。


 遠くで一発の銃声が響き、スコールのごとく一斉に銃砲火が鳴り響いた。中隊長のハウザーは空き家の一室で眠りこけていたが、最初の一発で目を覚ました。ベッドから起き上がると、ハウザーはブーツの紐を締めなおした。履いたまま寝ていたのだ。その足で司令部にすぐに向かう。


「やれやれ、どこだ?」


 ハウザー中隊の司令部は、すぐ近くの納屋の中に設置されていた。その納屋が、村落で一番空間に余裕がある建物だった。屋内には地図やら無線機器が設置されていた。司令部に現れたハウザーは軽装だった。着の身着のままで出てきたのだ。


「南側の河川にかかった橋です。小規模な群体と接敵しました」


 答えたのは、シュニッツァー伍長だった。ハウザーは軽くうなずくと、机に広げられた地図の前に立った。


「なんだ、俺たちじゃなくてブレンナイスの部隊じゃないか?」


 ブレンナイスはハウザーの同期で、擲弾兵中隊の指揮官だった。どうやら今夜は外れくじを引いたらしい。


「ええ、ですが無駄足になりませんよ」


 シュニッツァーは無線機のイヤーマフをつけたまま言った。


「群体の中にトロールがいます。他にも大物が控えているようで……」


「なるほど、久々に楽しい夜になりそうだ」


 ハウザーは机のポットから代用コーヒーを近くのカップに注いだ。誰が使っていたのかは知らないが、そんなことはどうでもよかった。糞ったれな、ワルプルギスの夜に乾杯。


「ああ、噂をすれば……ブレンナイス少佐から支援要請が来ました」


「なんだって?」


「大型の甲殻魔獣が出現。お前のとこの軍馬を叩き起こせだそうです」


「ったく、相変わらずの減らず口だな」


 ハウザーは冷めた代用コーヒーを喉に流し込んだ。余りの不味さに不愉快になり、目が覚めた。


「いいだろう。騎士様リッターが駆け付けてやろうじゃないか」


 すぐにハウザーは麾下の小隊の派遣させた。もう数時間もすれば、夜を震わす砲声もおさまるだろう。


◇========◇

次回1月10日(月)に投稿予定

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

ここまでご拝読有り難うございます。

弐進座


◇追伸◇

書籍化に向けて動きます。

まだ確定ではありませんので、

実現のために応援のほどお願いいたします。

(主に作者と作品の寿命が延びます)

詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)

もしくは、活動報告(2021年6月23日)を

ご参照いただけますと幸いです。

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