招かざる予兆(Scirocco)24

【ジブラルタル】

 1946年5月14日


 嘉内が<大隅>の一室に呼び出されたのは、出港を控えた前日のことだった。すでに補給は終え、アレキサンドリアまでに必要な物資を積み入れている。


 部屋には名札はなかったが、一部の将兵の間では「作業室」と呼ばれていた。


 嘉内がドアを開けると、ぬるりとべたついた空気に迎え入れられた。閉め切っている上に、高出力の電子機器が設置されているためだった。空調がなければ、蒸し風呂になっていただろう。


「通信量が増えている?」


 部下から説明を受けて、嘉内は目を細めた。


 機器の大半は通信に関するものだった。送受信のみならず、広範囲の帯域を傍受可能な最新設備だ。


「中身は分かりませんが、爆発的な量です」


 通信士官がモールスの束を差し出してきた。嘉内は一瞥すると、手に取った。


「いつからだ?」


「今月に入ってからです」


「ほう……それはごついな。場所の推定は?」


 発信源のことを指している、


「まだはっきりとは……欧州のどこかとしかいえません」


「まあ、そうだろうな。引き続き解読を進めてくれ」


「了解」


 通信士官は下がると、・と‐の楽譜と向き合い始めた。


「どう思う?」


 別の士官に嘉内は尋ねた。彼は、ここの班長だった。元々は嘉内と同じく軍令部で情報局員を務めていた。嘉内の<大隅>着任とともに、引き抜いてきたのだった。


 <大隅>の「作業室」は軍令部の情報支局として機能していた。班員の大半は軍令部内の第三部【情報担当】、もしくは第四部【通信担当】から引き抜かれている。さきほど嘉内が話しかけた士官は、第四部の九課で通信計画を担当していた。


「戦場の序曲です。おわかりでしょう? 血と硝煙の香りが、ほのかに漂っています」


 商社マンを思わせる風貌で士官は断言した。


「陸かな?」


 商社マンは、まばたきを一回だけすると肯いた。


「恐らくは……地中海ならば英国が騒がしくなります。連中も我々と同じく気が付いているでしょうが、ジブラルタルの通信頻度は変わっていません」


「ジブラルタルで拾えるくらいだ。発信元はそう遠くはないな」


 嘉内は壁に貼り付けているメルカトル図法式の地図を見た。欧州大陸全般と地中海、小アジアから北アフリカまで描かれている。


「ドイツ本国内は除外できます。政変の可能性は低いでしょう」


「なせだ? 減衰するからか?」


「それもありますが、わざわざ無線通信を使う必要がありません。あの辺りは有線網が発達していますから。そちらを使ったほうが速く、正確です。例外があるとすれば、有線網が届かない地域と連絡を取る場合です。例えば──」


 商社マンは壁の地図へ歩み寄った。


「イタリア、あるいはバルカン、可能性は低いですが我々がいるイベリア半島も含まれます」


「反対側はどうだ?」


 嘉内は北欧のスカンジナビア半島、ノルウェーを指で叩いた。ノルウェーは六年前からドイツによって占領されている。


「皆無ではありませんが、我々の範疇を越えた問題です。英国に目立った動きがない限り、考慮から外してかまわないかと。以上のことから──」


 商社マンは赤鉛筆を取り出した。半透明の薄紙を地図に重ね、磁石付きのピンで留める。


「恐らく、このあたりが通信増大の要因となります」


 薄紙に大きな赤い円が描かれていく。


「……ずいぶんと広いな」


 当ての外れた顔で嘉内は言った。口元は苦笑していた。鉛筆で描かれた円内にはアドリア海を中心にイタリア半島中部からバルカン半島西部まで入っていた。


「狭いほうですよ」


 こともなげに商社マンは言った。


「イタリアとバルカン、どちらだと思う?」


「ああ、その前提には賛成できません」


「貴様は、何を言っている?」


 かすかに苛立ちを含んだ口調で嘉内は尋ね返した。商社マンは相変わらずだった。


「どちらかではありません。円内の地域全般で何かが起きた、もしくは起きている可能性が高いのです。電文の一部を解読したところ、イタリア語でバルカン半島に由来する単語がありました」


「それを先に言ってくれ。なんだ?」


「それは──」


 商社マンは赤鉛筆でマーキングを施した。


「黒い手……イタリア語でマーニ・ネレ、現地語でツルナ・ルカ。かつてオーストリア皇太子を暗殺した過激派の別名です」


 小さな赤い輪がサラエボを包んでいた。


◇========◇

次回1月3日(月)に投稿予定

ようやく快復してきました。

療養中、温かいお言葉をいただき、ありがとうございます。

一人一人にご返信できず、恐縮です。

感想やコメントには日を改めて返信できればと思います。

本年最後の投稿となります。

来年が読者の皆様のとって健やかな年になりますよう。

それでは、良いお年を…!

弐進座


◇追伸◇

書籍化に向けて動きます。

まだ確定ではありませんので、

実現のために応援のほどお願いいたします。

(主に作者と作品の寿命が延びます)

詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)

もしくは、活動報告(2021年6月23日)を

ご参照いただけますと幸いです。

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