招かざる予兆(Scirocco)16
【ジブラルタル】
1946年5月10日 昼
ダカールを発ってから約二週間後、<宵月>はジブラルタルへたどり着いた。
目の覚めるような、鮮やかなスカイブルーが上空を覆い、どこか余所余所しい潮風が吹き抜けていく。儀堂を含め、第十三独立支隊の大半にとって、地中海は未踏の海だった。
──まさか実戦で訪れるとは。
儀堂には、奇異な邂逅だった。彼が士官候補生として江田島に入った頃には、すでに日米間はのっぴきならないほど剣呑な関係になっていた。そのため練習航海も太平洋近海に限られていたのだ。とてもではないが、遠く欧州まで回航するなど出来なかった。
五年前に日米開戦が決定的となったとき、儀堂は漠然と自分の死を覚悟した。おそらく太平洋やインド洋、いずれかで没するものだと思っていた。当時の儀堂は一介の少尉にすぎなかったが、それでも日本海軍が欧州まで遠征するなど非現実的な絵空事に思えていた。
──ままならない世の中だ。
内心で苦笑しつつ、儀堂は艦橋からぐるりと周辺の海域を見渡した。北側にトラファルガー岬の灯台が見えた。南側に視線を転じればスパルテル岬が遠くに見えた。いずれも肉眼で捉えられるほどしか離れていない。
欧州、アフリカの結束点だった。
ふと、えも言われぬ圧迫感を覚えた。
両端の大陸に挟まれ、押しつぶされそうな錯覚だ。入ったが最後、二度と出てこられないように思えた。
「司令、ジブラルタルからです」
副長の興津に話しかけられ、儀堂は現実に引き戻された。
「ああ」
自分はどんな顔をしていた? 湿気た指揮官の顔など誰も見たくないだろう。
「迎えを寄こしてくれるそうです。じきにタグボートが見えるかと」
興津はいつも通りの平易な口調だった。どうやら杞憂だったようだ。俺としたことが、戦場で我を忘れるとは。
──潮気が足らんな
舷窓から漏れた温い風が、儀堂の頬を撫でていった。
タグボートに先導され、案内された岸壁は港の中心部に近いところだった。どうやらVIP待遇で迎えてくれるらしい。接舷が完了し、けたたましい金属音とともに錨が下ろされる。舫が岸壁に渡され、タラップが設置された。
初めに降りたのは、アルフレッド・ローン大尉だった。彼は地中海艦隊の司令部と調整をとるために、迎えのセダンに乗って行ってしまった。
やがてジブラルタル基地司令から無電が<宵月>に届いた。
『遠方ヨリ来ル朋ヲ歓迎ス』
ダカールと違い、ここには暫く逗留する予定だった。
◇
5月のイベリア半島は未だに涼しかった。興津は
久しく踏みしめる地面は何とも有り難い存在だった。
「
慣れない呼称に振り向けば、同じく軍装姿のローンだった。
「どうも」
興津は軽く会釈をした。どうにも、この英国人は苦手だった。そりが合わないというか、どこか油断ならない空気を感じていた。
「ほう、
英国海軍には中尉相当の階級はなかった。中尉も少尉もひとくくりにサブルテナントと言われている。
興津は真新しい肩章を身に着けていた。二本目の金色の線が以前よりも太くなっていた。
「ありがとうございます」
興津は何とも言えぬ顔で礼を言った。嬉しくないわけではなかったが、どうにも現実感と言うものが湧かなかった。階級が上がったところで、自分がやることに変わりがないのだ。あるいは上官の影響かもしれない。
儀堂も階級と言うものに頓着がなかった。もちろん軍人であるからには、命令規則に従うが、それは条件付けされた所作だった。興津の上官は、どこまでも現実的で実存的な人間だった。階級などというものは軍事組織を円滑に運用するための方便にすぎないと考えていた。
「これからどこへ?」
浮かない面持ちの青年士官に、英国人は極めて親愛な態度で聞いた。
「いえ、特に予定は──」
答えて、興津はやや後悔した。次のやり取りを予想できたからだった。
「なるほど、ならば私がジブラルタルを案内しよう。来たまえ。良い
ローンは振り向きもせずに、つかつか先を歩き始めた。興津の丁重な断りは届きそうになかった。
興津は密かに嘆息した。
酒場なら東京にもある。きっとこの先で寄港する港にもあるのだ。
俺は、ただ、この街を見て回りたいだけなのに。
◇========◇
次回11月1日(月)に投稿予定
ここまで読んでいただき、有り難うございます。
引き続き、よろしくお願いいたします。
弐進座
◇追伸◇
書籍化に向けて動きます。
まだ確定ではありませんので、
実現のために応援のほどお願いいたします。
(主に作者と作品の寿命が延びます)
詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)
もしくは、活動報告(2021年6月23日)を
ご参照いただけますと幸いです。
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