招かざる予兆(Scirocco)8

【地中海 中部】

 1946年4月30日 夜


 船団がジブラルタルを出てから、一週間ほど経とうとしていた。現在位置はチュニジア沖の北方、マルタ島から見て南方にあたる。ちょうど地中海の中央部あたりの海域だった。


 その夜、地中海は大しけだった。白い波濤の中、頼りなく木の葉のようにゆらゆらと東進する船影があった。


 英国海軍ロイヤルネイビーの駆逐艦<マイソール>だ。トライバル級駆逐艦の二十八番艦で、比較的新しい艦だった。


「……嫌な海です」


 艦橋の扉が開かれ、副長のマーズ大尉が青い顔で現れた。酷い船酔いで、たまらず医務室から酔い止めの薬をもらってきたところだった。


「楽しからぬことは確かだ」


 涼しい顔で迎えたのは艦長のエヴァンズ中佐だった。マーズを一瞥すると、すぐそばで控えているレーダー員の肩越しにPPIスコープを覗いた。


「散っているな」


 十個以上の光点が、まばらに点在していた。<マイソール>は対水上レーダーを発振し、警戒状態にあった。敵の襲撃に備える意味もあったが、それ以上に味方の様子を把握するために機能させていた。


「サー、無理もないです。何せ、このシケですから」


 レーダー員は振り返らずに応えた。


 エヴァンズは労いの意味を込めてレーダー員の肩を叩くと、幽霊のような副長へ目を向けた。この船団の護衛指揮官として任務を果たさなければならなかった。


「副長、<オリンピア>と<パシフィック>に打電してくれ。隊列から離れすぎている。下手をすると置いてきぼりになるぞ」


「了解」


 マーズはすぐに無線で、指定された二隻の貨物船へ連絡をとった。


 <マイソール>は、嚮導駆逐艦として輸送船団コンボイの前方を走っていた。


 彼女が率いているのは二十隻ほどで、いずれも徴用された貨物船や油槽船だった。その二十隻を大きく取り囲むように、<マイソール>を含む五隻の駆逐艦もしくはフリゲート艦が航行していた。


──気に食わん


 エヴァンズは心の中で呟いた。


 不吉な|カードが揃いつつある。


 まず船団の規模に対して、護衛戦力が少なかった。せめて護衛対象と半数の隻数をつけてほしかった。あるいは出港を見合わせるべきだったのかもしれないが、適当な理由が思いつかなかった。護衛戦力の少なさを理由にあげるのならば、それは慢性的で今日明日で解決不可能な問題だった。


 英国が守るべき海は広すぎる。


 インド洋から大西洋全域、北海、そして目下の地中海。


 英連邦の各国の海軍でカバーしあうにしても、圧倒的に戦力が足りなかった。なにしろ魔獣のいない海など、今やアラル海くらいなのだ。


 <マイソール>の細長い船体を縦揺れピッチングに見舞われる。鋭利な艦首が波間に突っ込み、あえぐように海面へ突き出た。艦尾から金属の回転音が響いてきた。スクリューが、ほんの一瞬海上に露出したのだ。


 もう一つのカードは、この天候だった。


 地中海のシケは珍しくはない。内海のため、穏やかな印象を持たれがちだが、実態は全く異なっている。近代化される以前、古代ペルシャ帝国やオスマン・トルコによって建造された大艦隊をいくつも飲み込んだ魔の海だった。加えて、今では魔獣の遊び場と化している。


 <マイソール>が沈むことはないだろうが、鼻歌交じりで渡れるような気楽な海ではなかった。


 三枚目のカードは、現在位置だった。


 マルタ島周辺の海域は、ここ数か月で魔獣との遭遇率が高くなっていた。理由は分からないが、やたらとこの海域での被害が多いのだ。できれば一日でも早く通り過ぎたいところだが、大シケのせいで速度を出すことができなかった。そんなことをすれば、たちまち船団の隊形が崩れ、まともな護衛作戦などできなくなってしまう。


 最後のカードは……エヴァンズは暗くとざれた舷窓の先を見た。そう、今は夜なのだ。味方に異変があったとしても、それを確かめる手段が限られていた。レーダー波と無線が頼みの綱だった。


 さながら凶兆のフルハウスだったが、ゲームを降りることはできなかった。エヴァンズはプレイヤーでもマスターでもなく羊飼いだった。無辜の羊を守り、飼い主の元へ送り届けなければならなかった。


艦長サー──」


 レーダー員が困惑した顔で振り向いた。


「何があった」


 エヴァンズが問うと、彼はPPIスコープを再度確かめながら言った。


「<オリンピア>が船団から、さらに離れています」


 そこでエヴァンズは、マーズが脂汗をにじませて受話器を握りしめているのに気が付いた。船酔いと言うわけではなさそうだった。


 マーズは受話器から顔を話すと、上官へ異変を告げた。


「<オリンピア>からです。原因不明の速度低下と……スクリューが回らなくなった」


「機関に問題が」


「いいえ、そういうわけではないようです」


「では……クラァケンか」


 水棲型魔獣のクラァケンは、タコよく似た形状をしていた。奴らは襲撃する時に、船底に張り付く習性があった。その際に自身の足をスクリューに絡ませるのだ。


 突如、嵐を突き破って轟音が鳴り響いた。


 船団の後方から赤々とした炎が舞い上がった。


◇========◇

次回10月4日(月)に投稿予定

ここまで読んでいただき、有り難うございます。

引き続き、よろしくお願いいたします。

弐進座


◇追伸◇

書籍化に向けて動きます。

まだ確定ではありませんので、

実現のために応援のほどお願いいたします。

(主に作者と作品の寿命が延びます)

詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)

もしくは、活動報告(2021年6月23日)を

ご参照いただけますと幸いです。

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