招かざる予兆(Scirocco)2

 ローマBMが現れたのは1941年の12月17日のことだった。真珠湾に現れたBM第一号よりも、やや遅れたタイミングだった。この数日のラグはイタリアに幸運と不幸を同時にもたらした。


 イタリアにとって幸運は、比較的早い段階で初動対応に成功したことだった。


 すでにドイツやフランス、あるいは東欧に出現したBMの被害状況はローマにも伝わっていた。加えてイタリア国内でも、アルプス山岳部のアルピーニ兵部隊が魔獣と散発的な戦闘状態に入っていた。


 欧州各地から惨劇の報が伝わると、ドゥーチェ・ムッソリーニは直ちにローマ周辺に軍を呼び寄せた。本来ならばチュニジアに送るはずだった機甲部隊を近郊に待機させ、さらには工兵や軍属を動員して野戦陣地を構築させた。ローマ近郊は一夜にして仮初の最前線となった。


 急造された塹壕や掩体壕、そしてトーチカはとても頼りないものだったが、ないよりはましだった。何よりもイタリア人の心理に非常事態を植え付けることに成功していた。


 さらにムッソリーニは海軍にも同様の努力を求めた。イタリア王国海軍が保有する三隻の戦艦を回航させ、ローマ近海に呼び寄せていた。当初、海軍の首脳部はムッソリーニの判断に懐疑的であり、極めて消極的だった。彼らからすれば、BMよりもマルタ島近海に出現する英国海軍ロイヤルネイビーの方が深刻な脅威であり、現実的だった。


 もちろん空軍にも同様の対策が求められた。ローマのみならず、ヴェネツィアやフィレンツェ、ターラントなどの主要都市へ航空部隊を進出させた。また各基地から夜間を覗いて哨戒機を出させ、警戒に当たらせた。これは空軍上層部から大変嫌われる措置であった。ただでさえ、備蓄のない燃料がすり減っていくからだ。


 三軍からヘイトを集め、いささか神経質とも思えるドゥーチェの対応だったが、後のBMの災禍を考えれば功を奏したと言える。


 問題は、ムッソリーニの期待に見合うだけの実力がイタリア半島になかったことだった。


 BM出現の当日までに、ローマ周辺に展開できた部隊は三万ほどだった。その大半は歩兵部隊で、魔獣と互角に渡り合える装甲車両を有していなかった。なけなしの戦車部隊もようやく訓練を終えたばかりで、大半は新兵だった。


 このときイタリアで最も有力な部隊の大半は北アフリカで魔獣を相手に絶望的な戦いを強いられていた。彼らは本来、英国陸軍と相対するはずだったが、英国も似たような状況に陥っていた。


 海軍も決して楽観的な状況ではなかった。回航中の戦艦はいずれも旧式で、さらには貴重な燃料を食いつぶす存在だった。もっと深刻だったのは練度不足だった。燃料不足がたたって、まともに射撃統制や艦隊行動の訓練を行うことができなかったのだ。


 結果から述べるのならば、ムッソリーニの決断は正しくもあり、同時に誤っていた。


 ローマBMの出現地点は、ローマ郊外の港町オスティアの沿岸だった。夏場はリゾート地として、ヨットレースが催され、ビーチでは海水浴に興じる人々が見られる。幸いなことにBM出現時は冬場だったため、地元民以外はいなかった。


 これが第一の幸運だ。おかげでオスティアにおける民間人の被害は抑えられた。余談だが、ローマBMという呼称は、ずいぶん後に名付けられた。当初はオスティアBMと言われていたが、ファシスト党のプロパガンダのため、ムッソリーニが変名させたのだ。


 出現したBMはローマからも観測できたため、ただちにイタリア軍は厳戒態勢に入った。ローマ郊外に展開していた部隊がオスティアに向けて動き出し、市民たちの間で動揺が広がった。緊急放送が流れ、避難指示が出されたが動き出す市民は少なかった。彼らは脅威を正しく認識することができなかったのだ。無理からぬことだった。ローマが落ちるなど、歴史教科書の出来事でしかなかったのだ。


 これが第一の不幸だった。BMはワイバーンやデビルなどの飛行型の魔獣を大量に吐き出し、ローマを急襲した。数こそ多くなかったが、ローマ市内はパニックとなり、あちらこちらで暴動が起きた。それら17日にオスティアからローマにかけて起きた出来事は、世界各地で起きていた悲劇の一端にすぎなかった。イタリアにとって遅れてやってきた災厄だった。


 出現した魔獣に対して、陸上部隊は果敢に抵抗した。このときローマを取り囲むように急造した抵抗拠点が役に立った。装甲戦力が決定的に不足していた彼らにとって、たとえ土嚢を積み上げた前時代的な陣地でも頼もしい城だった。おかげで陸上からの侵攻を遅滞させることに成功した。


 これが第二の幸運だった。最終的にイタリア陸軍はオスティアの防衛線からローマまで撤退し、損耗率は五割を超えた。それでも彼らはローマを守った。


 海軍も勇猛だった。ローマへ侵攻するBMを迎撃するため、戦艦<リットリオ>と<ジュリオ・チェザーレ>、<カイオ・ドゥイリオ>が急行してきた。彼女らはBM出現から十二時間以内に戦闘海域に到着した。事前にムッソリーニがイタリア半島西方のティレニア海まで回航させていたため、迅速な展開できた。


 これが第三の幸運だった。三隻の戦艦はローマBMを射程に捉えるや、砲撃を開始した。イタリア軍が保有する最大火力が発揮された瞬間だった。


 しかしながら第三の幸運とともに第二の不運が訪れた。


 彼女ら主砲から放たれた徹甲弾は、なかなか命中しなかった。練度不足が土壇場で災いした。、また日本海軍の三式もしくは零式のような対空砲弾も所持していなかった。対空目標に対して、巨砲当てるのは想像以上の至難だったのだ。三隻から放たれた砲弾の大半は海面に着弾し、運よく数匹の魔獣を肉塊に変えたが、それ以上の結果は得られなかった。


 業を煮やした司令官のアンジェロ・イアキーノ中将は、麾下の部隊をさらにBMへ近づけた。具体的には、どんな下手糞でも当てられる距離までだ。当時の砲術士官の証言では、距離は八千メートルを切っていた。


 ローマ最後の幸運はイアキーノの果断から生まれた。十八回目の斉射を越えたとき、ついに命中弾が訪れた。そこから三隻の戦艦から吐き出された砲弾は、黒い球体へ吸い込まれるようになった。


 イタリア海軍栄光のときだった。彼らはレパント海戦から4世紀ぶりに海戦史へ勝利を刻もうとしていた。そして最後の不運に見舞われた。


 ローマBMが大量の魔獣を吐き出し。同時に光弾を放ったのだ。


 それらは<リットリオ>、<ジュリオ・チェザーレ>、<カイオ・ドゥイリオ>に均等に降り注ぎ、上部構造物を破壊しつくした。


 装甲板に覆われた区画は無事だったが、測距儀などの射撃装置が破壊され、艦橋内にいた司令官のイアキーノは戦死した。三隻の戦艦は頭脳と視力を失った。


 そこから先はただ盲目的な殴り合いだった。三隻の戦艦は直接照準でローマBMを攻撃し、ローマBMは光弾を放ち続け、魔獣たちが襲い掛かった。両者の流れ弾がオスティアからローマへ降り注ぎ、敵味方境なく天へ召されていった。


 1941年の12月18日未明、ローマBMは光を放ち、霧散した。


 オスティア沿岸には大破着底した三隻の姿があった。後にオスティアの戦いと呼称される、イタリア最大にして唯一の勝利だった。


◇========◇

次回9月9日(木)に投稿予定

ここまで読んでいただき、有り難うございます。

引き続き、よろしくお願いいたします。

弐進座

◇追伸◇

書籍化に向けて動きます。

まだ確定ではありませんので、

実現のために応援のほどお願いいたします。

(主に作者と作品の寿命が延びます)

詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)

もしくは、活動報告(2021年6月23日)を

ご参照いただけますと幸いです。

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