招かざる予兆(Scirocco)1

【ローマ】

 1946年4月19日 夕方


 4月とはいえ、ローマは肌寒かった。気象予報では最高気温は15度ほどで、最低は10度を下回るらしい。


 その日は珍しいことに、小雨が降っていた。街の人間の大半は傘を差さず、古びた石畳を歩いている。かつての大帝国が敷いた道の一部だ。敷設された当時は隙間なく張り巡らされていた石の回廊も、経年劣化によって縁が丸く削り取られてしまっていた。平らな石の隙間を這うように雨水が伝っていく。


 よく磨かれた革靴が、テンポよく石畳を踏み鳴らしていった。埃まじりの雨水が跳ねても、本人は気にならなかった。また磨いてもらえばよいだけの話だ。


 ロレンツィオ・オルフェオ・チェッリーニ中佐は急いでいた。友人と会う約束をしていたのだが、あいにく道が混んでいたため、到着は遅れそうだった。


「待たせたな」


 裏通りの一角にある喫茶店キャッフェテリアに、彼の待ち人はいた。


「仕方がないさ。ヴィア・クルチスの日だ。どこもかしこも、人通りでいっぱいだよ」


 ヴィア・クルチスは、祭事の一つだった。毎年、復活祭パスクアの直前の金曜日に、イタリアの各地で行われる。それはローマ教皇をはじめとした聖職者たちが、イエス・キリストが辿った十四の受難を追体験し、祈りをささげるものだった。今年のローマでは、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂で行われる予定だった。


「それだ、それだ」


 ロレンツォは、揶揄するように言った。


「よく、おたくのところのドンが許したもんだ」


「意外には思わないよ。ドゥーチェは、あなたが思うよりは寛容だ。特に、ここ数カ月はね」


 レオポルド・アダーモ・クルタは、そう言うと店の主人にトルココーヒーを持ってこさせた。


「早速だけど、世間話をしよう」


 レオポルドは声を落として言った。


「大丈夫なのか」


 ロレンツィオが店内をそっと見まわした。幸いと言うか、あるいは当然か、店の中には人はいなかった。大半のイタリア人は教会に到着しているか、あるいは行く支度をしていた。


「問題ないさ」


 レオポルドは断言した。


「ここの主人はアナトリアから渡ってきたトルコ人だ。考えても見てくれ。ヴィア・クルチスの、こんな時間に店を開けているんだよ」


「確かに」


 ロレンツォはイタリア人らしい快活な笑みを浮かべた。既に壮年だが、乙女を虜にする色気が出ていた。


「俺たちも人のことは言えんがな。皆がミサに興じる中で、こんなところで世間話とは。二人そろって、アデリーナに怒られるだろうさ」


 妻の名を口にすると、レオポルドは眉をひそめた。


「時間がないんだよ。姉さんから、義兄さんは明日タラントに戻るって聞いてさ」


 レオポルドにとって、ロレンツォは姉の伴侶であり、同時に年の離れた幼馴染だった。


「なるほど、お前にしては、ずいぶんと冒険的だと思っていたんだが、さぞや野暮な話だろうな」


 ある種の予感を覚え、ロレンツォは真顔になった。レオポルドこいつがこんな顔をするときは、厄介ごとに巻き込まれた時だ。


「何があったんだ?」


「僕じゃない」


 意外なことに、レオポルドは即座に否定した。


「あなただ。ドゥーチェは外に興味を持ち始めている」


「外? まさかヴァチカンか?」


「違う。イタリアの外だよ」


「おいおい、嘘だろ!」


「声が大きい。確かな話さ。昨日、官房の議事を整理していて目にしたんだ」


 レオポルドの職場はヴェネツィア宮殿だった。そこはイタリアの国家指導者ドゥーチェ、ベニート・ムッソリーニの居城となっていた。レオポルドは、いくつかの幸運(不運)に恵まれたせいで、秘書官補佐として働いていたのだ。


 今朝がた、書類の整理を命じられた彼は、そこで自身の身内に関わる重大事案を目にしてしまった。ちょうど当事者がローマに帰郷しているとわかり、祭日に呼び出すことにしたのだった。


「またぞろ、アフリカに送られるのは嫌だぞ」


 1941年まで、北アフリカでイタリアはイギリスと熾烈な戦闘を繰り広げていた。大半は劣勢だったが、ドイツ軍の支援を受けながらもかろうじて継戦出来ていた。しかしながら、彼らの戦争は12月のある日を境に終わりを告げた。


 ローマにBMが現れたのだ。


◇========◇

次回9月6日(月)に投稿予定

ここまで読んでいただき、有り難うございます。

引き続き、よろしくお願いいたします。

弐進座

◇追伸◇

書籍化に向けて動きます。

まだ確定ではありませんので、

実現のために応援のほどお願いいたします。

(主に作者と作品の寿命が延びます)

詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)

もしくは、活動報告(2021年6月23日)を

ご参照いただけますと幸いです。

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