幼年期の記憶(Once upon time) 12

 本郷の仮住まいは、辻堂の演習場の近くにあった。海軍が借り上げた民家で、元の家主は疎開していた。平屋だが、ひと家族が住まうには十分な広さだった。


 演習場を出てから二十分ほどで、本郷宅に着いた。


 本郷はユナモを片腕に抱いたまま、玄関を開けた。帰宅を告げた父親を迎えたのは年端もいかない少年だった。七か八歳くらいだろうか。少年は嬉々として玄関に駆けつけたが、背後に立つ竹川知らない大人を見るや、急に立ち止まった。その挙動があまりに可笑しく、竹川は吹き出しそうになった。


「史朗、ただいま。こちらは僕の友達で竹川さんだよ」


 史朗と呼ばれた少年は、慣れない調子で背筋を伸ばした。


「はじめまして、ほんごうしろうです」


 竹川は少し腰を落とした。


「どうも、はじめまして。竹川正和です。君はしっかりしているね。お父様の薫陶のおかげかな」


「よしてくれ。僕じゃなくて家内だよ」


 本郷は嬉しそうに否定した。


「史朗、お母さんかお姉さんを呼んできなさい」


 本郷の息子は大きな返事とともに、家の奥へ消えていった。間もなく、入れ替わりに少女が現れた。長女の綾子だった。もんぺ姿で大人びて見えたが、年の頃は十七かそこらだろうと思われた。視力に難があるらしく、眼鏡をかけている。図書館の司書でも勤めていそうな、知的で落ち着いた佇まいの少女だった。


 長女が竹川と挨拶を交わすのを見届けると、本郷は腕に抱いたユナモをそっと手渡した。


「綾子、すまないが、ユナモを布団に寝かせてやってくれ。ちょっと今日はがんばってしまったんだ」


「わかりました。この様子だと、御飯まで起きなさそうね」


 綾子は竹川に会釈をすると、腕に抱いたユナモを家の奥へ運んでいった。両手が自由になった本郷は長靴ブーツの紐を解き、そのまま竹川を居間まで案内した。


「もう遅い時間だ。竹川君、今日はうちでゆっくりしていきたまえ。明日の始発で東京へ戻ればいいんじゃないかな」


「せっかくですが、それは──」


 本郷の厚意を疑うつもりは無かったが、竹川なりに気が引ける思いもあった。いつ戦場へ赴くかわからぬ父親と家族の時間に、自分が押し入るのは不躾に過ぎるのではないか。


「ああ、遠慮はいらないよ。僕が君と話をしたいんだから。今日は我が儘に付き合ってくれ。こんなご時世だ。同学の士と話す機会なんて、そうそうあったものじゃないからね」


 竹川は納得したように肯いた。


「ええ、確かに……今となっては貴重となってしまいましたね。わかりました。お言葉に甘えさせていただきます」


「ああ、そうするといいよ。惚気てすまないが、家内の料理は美味いんだ。きっと気に入ると思う」


「ありがとうございます」


 本郷の言葉に偽りはなかった。その夜、竹川は久方ぶりに文化的まともな晩餐を堪能した。事前に来客の報せを受けていた本郷の妻は、近くの魚屋で神奈川沖で獲れたぶりのアラを仕入れていた。それを実家から持ち寄った大根、生姜、葱と一緒に醤油と砂糖で煮込んだのだ。大皿に盛られた鰤大根が食卓に置かれたとき、竹川は思いがけず圧倒された。鼻腔を刺激する甘い香りと仲睦まじい一家の組み合わせが、忘れていた事実を思い起こさせた。独り身が長かった彼にとって、食卓を囲う行為自体、あまりに久しいことだった。


 夕飯が終わり、夜も更けた頃、居間に本郷と竹川の二人が残っていた。綾子は史朗とユナモを部屋まで連れていき、寝かしつけている。本郷の妻は台所で片付けを行っていた。


 生活音を背景に、二人はそれぞれの近況を話し始めた。場所も立場も違えど、お互い似たような経験を積んできていた。戦争に慣らされた数年間だった。


「お互い、煉獄を巡ったようだね」


 後輩の猪口に熱燗を注ぎながら、本郷は言った。竹川は恐縮な心持ちで受け取った。彼は学生時代から、本郷が下戸であることを知っていた。それは今も変わらず、本郷家にとって酒は調味料以上の意味をもたなかった。本郷は最初の一杯に口をつけただけで、銚子の大半は竹川が消費している。


「ええ、身に覚えのない咎で罰を受けているようです」


「確かに、その通りだ」


「なかなか納得できません……」


 竹川は猪口を一気に空にした。酒精が喉を焼きながら、臓腑へ降りていく。本郷は再び銚子を傾けた。


「聞いたよ。君のところに来るはずの部下が気の毒なことになったらしいね」


「ええ、三人とも良い奴でした」


「君の後輩だろう? 僕も知っているかな?」


「どうでしょう。三人とも本郷さんが卒業された後に入ってきましたから。もしかしたら、顔を合わせたことぐらいはあるかもしれませんねえ。一人は山形の酒蔵の跡取りで、実家から新酒を持ってきてくれましたよ。毎年、花見の盛りは小金井で飲みました。もう一人は呉服屋の倅で、そいつはどういうわけか、ぼくに掻い巻きをくれました。たぶん、ぼくが貧乏でみすぼらしく見えたんだと思います。有り難かったですよ。最後の一人は──」


 猪口を空けて、竹川は続けた。


「そいつは惜しいことに中退してしまったんです。学費が尽きたみたいで、可哀想でした。ぼくよりも苦学していて、実家から口減らしで親戚の問屋に養子に出されたそうです。丁稚のようにこき使われながらも、勉学に励んで養子先から援助までしてもらうくらい優秀でした。ただ、恐慌のあおりで問屋が潰れてしまったらしく、本当に無念そうでしたよ。そいつはぼくと同じ研究室にいたんで、もし生きていたら色々と助かったのですが、まあ、今更どうにもならないですね」


「──ああ、ままならない世だね」


 本郷は酒をつぎ足そうとしたが、銚子から二、三滴ほど垂れただけだった。自身の妻を呼ぼうと振り返り、襖が僅かに開いていることに気がつく。隙間から、小さな紅い瞳が覗いているのが見えた。


◇========◇

次回3月29日(日)投稿予定

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弐進座

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