終点(Seattle) 4

【北アメリカ西海岸 シアトル港】

 1945年3月25日 昼

 

 シアトルが世界史上で記録されたのは、18世紀のことだった。英国海軍HMSのジョージ・クーバ―艦長が、同市周辺の海域を調査したのが始まりだった。彼は自分の部下の名前にちなんで、その海域にピュージットの名を冠した。ピュージット湾の由来である。ちなみに同様の経緯を辿り、19世紀に同海域南部はエリオット湾と名付けられた。


 北米おける植民地の反乱が独立戦争へ拡大し、西部開拓を乗り越えた頃には林業がシアトルの主要産業となっていた。やがて、南北戦争から本格的な産業革命を迎え、20世紀に入ったとき転機が訪れた。


 合衆国の主幹産業となる航空会社が設立されたのだ。後のボーイングである。同社は最初の世界大戦における航空機の需要増加により、急成長し、シアトルの雇用と税収の拡大に貢献した。その後、ボーイングは戦間期において合衆国陸海軍御用達の軍事企業へと変貌していく。


 20世紀中盤におけるシアトルは神の祝福に満ちた都市となっていた。

 それは1941年において、ある種の絶頂を迎えたとも言える。北米のみならず、世界中の主要都市が黒き月と魔獣の災厄に見舞われる中で、シアトルは奇跡的に無傷で済んでいた。同市周辺に現われたBMは皆無だったのである。合衆国の各都市で地獄絵図が展開される中、シアトルは戦禍から忘れ去られていた。


 あくまでも相対的な評価だが、それでも幸運であったことに違いない。


 人類にとって、全く有り難いことに、かの市の幸運は未だに継続していた。

 同市の工業生産能力は健在で、また地勢的にもシアトルは防衛に適していた。具体的には、内陸へ入り組んで大陸氷河で形成された海峡に囲まれ、大火力を有する海軍艦艇が活躍できる環境である。万が一BMが現われたとしても、戦艦の主砲で歓迎ウェルカムすることが可能であった。


 第二次世界大戦において、シアトルは連合国にとって反攻拠点のひとつに位置づけられた。連合国はシアトルの港湾部を拡大し、日本や豪州から送られてくる兵站物資の備蓄基地として活用していた。


 各国の兵員と魔獣の戦禍から逃れた東部の難民を吸収し、同市の人口は今や百万を越えていた。



 シアトルの軍港部は各国によって管轄区が分かれている。その一角には旭日旗ライジングサンがはためいていた。


 大日本帝国海軍が管轄する区画内、その検問所で三人が待ちぼうけを食らっていた。うち二人は陸軍士官だった。ともに目新しい肩章と襟章をつけていた。帝国陸軍の規定では、片方が中佐もう片方が中尉相当が付けるものとされている。


 彼等は検問所を出入りする水兵や海軍士官の視線を引きつけていた。確かに海軍の縄張りテリトリーにおいて、陸軍士官の存在は異質だったが、もの珍しいわけではない。海兵たちの視線を釘付けにしていたのは、彼等三人の中でも最後の一人だった。


 中佐の陸軍士官に抱きかかえられた幼女である。欧風の顔立ちで、大きめのベレー帽から銀色の髪がはみ出ていた。出入りする将兵にとって、あまりにも現実戦争からかけ離れた家庭的な光景だった。


「慣れてますねえ。完全に熟睡してますよ」


 中村中尉・・がいかにも感心したように言った。寝息をたてるユナモを抱きかかえながら、本郷中佐・・は苦笑した。

 本郷も中村も、ボッティンオーでの戦いが評価され、野戦昇進していた。正直なところ、本郷は素直に喜ぶことができなかった。例え戦果をあげようと、彼の部隊が壊滅した事実は変わらないからだ。


「まあ、僕は一人目の娘のときに練習したからねえ。夜泣きが酷かったんだ。妻も参るほどにね」

「なるほど」

「君も所帯を持てば、必然的に上手くなるよ」


 中村は肩をすくませた。「そうしたいのは、やまやまなんですがね」と返す。つい先日、故郷の許嫁から「いつ帰るのか」と便りが来たところだった。中村は話題を変えることにした。


「それにしても、海軍さんってのはうち陸軍よりも時間に厳正って聞いたんですがねえ」


 先ほどから奇異な視線を向けてくる海兵をにらみ返す。わずかに眉をひそめながら、誰もが足早に立ち去っていく。

 定刻に来たのにも関わらず、もう30分近く検問所で待たされていた。


「まあ、何事にも例外があるということだよ。我ら陸軍とて、かつて反乱を企てた輩がいただろう?」


 本郷はのんびりとした口調で諫めた。


「ええ、それは――」


 中村はバツの悪い顔で肯いた。本郷のことは、上官としても、人間としても尊敬している。唯一、この手の諧謔ユーモアだけが苦手だった。あるいは、生粋の陸軍士官と予備士官上がりとの乖離とも言うべきかもしれない。中村にとって、陸軍は自身を形成する自我の一部となっていたため、批判的な思考を持つことができなかった。


 中村がさらに話題を変えようと苦心する時間は長く続かなかった。基地内から一台のセダンが向ってくるのが見えた。やがて、セダンは検問所の近くで止まり、助手席から一人の海軍士官が降りてきた。士官は、そのまま小走りで駆けてきた。


 第一種軍装クロフクに身を包んだ中年士官は、長身痩躯で目の下に不健康なくまをつくっていた。士官は海軍式の敬礼を行った。中村は陸軍式で答え、本郷はユナモと抱きかかえていたので軽く一礼した。


「本郷中佐と中村中尉ですね。自分は矢澤と申します。お待たせしてしまい、誠に申しわけございません」


 深々と矢澤幸一中佐は頭を垂れた。


「どうぞ、お気になさらず。こちらこそわざわざ迎えに来ていただき、有り難く思っております」

「そう言っていただけると助かります。さあ、どうぞこちらへ」


 矢澤はセダンへ二人を案内しながら、時差ボケで緩んだ意識に鞭を入れていた。内心では上官に対する罵倒を量産している。致し方がないことだった。


 彼はつい24時間ほど前まで、日本の築地にいたのだ。それがどいういうわけか、今や北米のシアトルにいる。全ては彼の上官に起因していた。30時間ほど前に、急な北米出張を告げてきたのだ。

『ちょっとシアトルへ行くことにした。矢澤君、君も付いてこい』

 まるで散歩へ繰り出すような口調だったが、聞かされた方はたまったものではなかった。寝耳に水どころではない。熱湯を流された気分だった。おかげで矢澤は押っ取り刀で出張の準備を行う羽目になった。呪詛の念を込めて、矢澤は上官の名を口にした。


「六反田少将のところまで、案内致します」


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次回2/9(土)投稿予定

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