なりかけ-2

 徐々に色濃く茜色に世界を染め上げる夕日は大きく影を伸ばした。途切れ途切れの雲が怖いぐらい赤く染まり、周りの建物は逆光で影絵のように黒くなる。

 木々が風で揺れる。さわさわと静けさを切り裂く葉音が耳に残って余韻に響く。徐々に冷たくなり肌をこする風、空気のせいで背筋がピンと張ってしまう。人工的な明かりが点灯し夕陽と重なってはさらなるオレンジがカオスに混ざり合う。

「本当に、いた」

 僕はレンさんを連れてあの公園に着いた。そして目線の向こう側に、いつものようにキャンバスを広げつまらなそうな顔を浮かべながら筆を動かしていた。今日も自分じゃない絵を描かされているのだろうか。

「近くにいたんだ、ずっと見つからなかったのに」

 うっすらと半分夢を見ているかのように落ち着いた声がレンさんの口から自然に飛び出した。彼女はフラフラと前に前に、足を運んでいく。しかしその足は戸惑い、止まる。後ろを振り向いて一途に思い詰める顔を浮かべた。

 僕は背中を押すように頷く。もう言葉はいらないと思った。掛ける言葉は僕からはいらない、朱莉から言葉を紡いでもらえれば本望だろうから。

 足が止まって動いて。でも決心したかのように視線を目の前に定める。その先にはもちろんずっと想っていた人がいる。

 息をついて見送る。不安定に揺れる背中は徐々にスピードを出し駆けていく。

 それに気づいた想われ人は虚を衝かれた表情をしながら立ち上がり、それを迎えるように距離を詰めるようにフラフラと足を進める。

 そして向かい合って軽く抱きしめ合う。

 どんな話をしているだろうか。それを考えるのが無粋なほど、その空間は誰にも邪魔できない聖域が張り巡らされていた。


「私、前より絵を描けるようになったんだ」

 いつもの公園で絵を描きながら嬉しそうに声を弾ませていた。

「今日も私の絵を描いているわけじゃないんだけどね」

 続けて朱莉は言う。そうであれ、筆は踊るように優雅に滑っていて機嫌がいいのがよくわかる。

「昨日、レンちゃんと遊んだからかな。その夜に描いてみたら鮮やかになっていたの。黒が少なくていろんな色があって、見てて楽しかった」

 本人たちが意図せずに引き剥がされた友達同士の2人が再会して以降、その空白の時間を埋めようとするように連れて回る。

 それからか僕とこの公園で会う時間が少なくなっているが、気心の知れた人と過ごしたほうが心が豊かになる。もともと僕は部外者だからこれでいいと思っている。

 彼女は、充実しているようだ。最初会った時よりもずっと感情豊かで、素の笑顔が僕の眼前に飛び込んでくる。

 寂しい気もした。でもこれでいい、彼女に関わったのは僕のエゴだから。それを押し付けることなんかできない。

「今日は遊びに行くことなく、ここにいるんだ」

 僕がそう聞くとうーん、と彼女は筆を止め人差し指を下唇に添えて言葉を選ぶかのように悩む。

「まあ、『彼』の絵が完成されていないから『彼』のために描いてあげたかったのもあるし」

 手を胸の前に組み、気を鎮めようと目をつぶりながらもじもじしている。言葉を続けようと何度口を開いては紡ぐ。でも喉からその言葉が出てこようとしないのか、誤魔化すように笑う。

 どうした? と催促すると僕から顔を背ける。

「ええっと、そういえば私とレンちゃんと逢わせてくれた時、頭が真っ白になってただ嬉しいという感情が昂ぶっちゃって。そういうことをしてくれたあなたに、何もお礼を言えてなかったな、と思ったんだ」

「ああ、そういうこ」とならいいのに。

「ありがとう」

 僕の言葉を遮って、背けた顔を向け僕の瞳の奥まで真っ直ぐ真っ直ぐ見据えながら言うもんだから、その言葉に込めた感情全てを受け入れなければならなくなった。

「私ね、独りになってから自分のことなんか誰も見てくれないと思ってた。父も私に近づいてくる専門家も、目当てなのは私の中に侵入している存在」

 瞳の海は綺麗に輝きなから揺れている。

「でも旅人のようなあなたは、私の絵を見つけてくれた。偶然とは言えその事実は変わらないんだ。すごく暖かかった、だからお礼を言いたかった。私の大切なだったものを見つけてもらったから、ありがとうって」

 朱莉は真っ直ぐ真っ直ぐ見つめてくるものだから今度は僕から目をそらしてしまう。気恥ずかしさがこみ上げてきてまともに目を見られない。

 朱莉はそんなことを言うが、僕自身は何にもしていないと思っている。関わったのも偶然で、関わろうとした目的もどうしようもない理由だ。

 そうだと自分でも思っていたのに、真摯にそう言われるとそうだったんだろう、と錯覚する。

「……ちょっと恥ずかしいかな」

 リンゴのように真っ赤に染めた頬を隠すように両手で覆い、それでもこぼれる笑みは、目もくらむほどの輝きがあった。

「改めて言うとやっぱりすごく恥ずかしいよ、私の体内が熱い」

 えへへ、と朗らかに笑う。

「私、考えたんだ。私自身の絵は描けるようになっている。でも私の中で『彼』は消えない」

 そっと胸をなでおろした手は前みたく震えることがなかった。

「それでも私の絵を見てくれる人、評価してくれる人、認めてくれる人が2人、私のそばにいてくれている。ならこの能力に操られるのも良いかな、と思えたんだ」

「今も、今までも苦しんでいる元凶なのに」

「うん。そうだったんだけど、自分の絵が色が表現ができるようになったから、あんまり気にならなくなったと言うのもあるんだけどね」

 それとね。彼女のトーンが露骨に落ちたのがわかる。若干目を伏せて神妙そうな面持ちをしている。先ほどの嬉しさ全開の彼女の姿は一瞬でいなくなった。

「これが、私たちの家族を繋ぐ唯一のものだから」

 そう言ってすぐ彼女の表情はさっきのような笑顔に戻る。何も悩みなんてなさそうな屈託のない表情だ。

「お父さんが褒めてくれるからね、ゴッホの絵を描くと」

 意味深長に呟いては筆を持って再び描き始める。そして朱莉が描いている『彼』の絵は徐々に異様な雰囲気を放ちながら色づき始め、キャンバスの中の世界は混沌でグルグルと渦巻いている。その中に描かれているさまざまな物者が形を捻じ曲げられて彼女によってうねりが出来上がる。

 これがゴッホの表現技法なのだろうか。見ていると自分の精神状態に不合理が押し付けられている気持ちになる。平然と描く彼女はそんな気持ちにならないのだろうか。

「そうだ、佐伯くん」

 久しぶりに彼女に呼ばれた気がする。

「また遊ぼうよ。映画でもいい、カフェでもいい。佐伯くんがあの時誘ってくれたから私は一歩を踏み出せた。じゃなかったらずっと私の大切な自分の色を見つけられなかった」

 再び真っ直ぐに見つめられて、逆に僕は目を伏せた。

 眩しすぎて、目が眩んでしまうんだ。

「……考えておくよ。また遊ぼう」

 あえて僕は言葉を濁した。彼女はそんな僕を不思議そうに僕を見つめている。でも気のせいとばかりに視線を再び絵の方へ向ける。

 日が沈むのが早くなってきた。肌寒い風が全身を撫でて過ぎ去っていく。茜色にすべてを染めていた赤いガラス玉のような夕陽はだんだんとビルの奥へと隙間を縫いながら堕ちていく。眩しいと思えるものが闇に隠れゆく。

 僕は少し安心して初めて目を大きく見開く。そして立ち上がり、朱莉に言葉を投げる。

「僕はそろそろ行かないとだから、遊びは今度行こう」

「もう行っちゃうんだ、少し寂しくなるね」

 そんなにしんとした声で言わないでほしい。揺らいでしまう。

「寒くなってきたから風邪に気をつけて」「うん、大丈夫だよブランケットあるから」「そうか、じゃあまた」「うん、またね」

 投げられたらすぐ投げ返す、そつのないキャッチボールのような会話を繰り返して僕は踵を返す。

 薄い雲々に隠れた欠けた黄色いガラス玉が目に飛び込んでくる。そしてその隙間を縫って流れているビーズは遠い彼方から光をまぶす。朱莉と別れて帰路を歩みながら息を吐く。口の中が冷たくてたまらない。

 僕は何を嫉妬しているのだろう。心臓がキュッと締め付けたり、暴発しようと膨張したり不安定な爆弾が僕の体内に内在している。いつ爆発してもおかしくない状態なのかもしれない。

 朱莉はあんなに笑顔だ、常に感情豊かだ。前までの常時暗い表情を見てきた僕としては、もちろん嬉しいという感情が湧くのは当たり前だ。

 だけども僕自身が何とも煮えきれない感情が湧き上がってしまっているのも事実として存在している。

 関わってしまった。彼女と似た境遇を感じてしまって放っておかないという感情が湧いてしまった。

 彼女は僕の助けがあったとはいえ、輝きを取り戻しつつある。

 自分の色を表現を世界を模索し続ける朱莉は美しいとさえ思えてしまう。

 でも、僕はそんな彼女と関わって何か成長したか?

 僕は自分の過去に囚われていた。意識していなくても、憎たらしくてたまらない過去への感情が腹の奥でぐつぐつと喚いている。

 僕はそんな過去を克服したかった。親が才能あふれる人でも、僕がそれを引き継ぐことが許されなかった。神様が許してくれなかった。

 だから僕は僕よりも深い業にある朱莉に出会って克服できるかと思った。彼女に比べたら僕のトラウマなんかちっぽけで、何か見つけられるかと思った。

 思っただけで現実は甘くない、そんなことはわかっていたはずなのに中で膨らみ続けた希望は破裂することなくしぼんでいった。

 結論、彼女は才能あふれる人だった。ただあんな不可思議な能力に操られていただけで素材はダイヤモンドのように輝いていた。だからこそ、彼女は笑っていられる。どうあれば自分が未来で一番輝けるのかを自力で見つけられている。

 僕に才能がない。そんな現実を押し付けられた、そんな瞬間でもあった。

 僕は一生、過去の因果に囚われ続ける。そんな予感がキュッと心臓を締め付ける。

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