なりかけ

「すっごいニヤついてるね。どうしたの」

 あの雑誌を返しに2駅離れたガラス張りの図書館にやってきて、受付に座っている緑色のエプロン姿で待っていたレンさんにそれを手渡すとそう言われてしまった。

「そんなに……? 別に何かあるわけじゃないけど」

 僕がそう返すと、口元を緩ませニヤニヤとした顔を浮かべる。

「結構オシャレしてるじゃん。これからデートとか? 雰囲気がこの前とは違うし、何かあるのかなーって、からかいも含めて聞いちゃった」

 確かに僕の今日の格好はジャージっぽい服装ではなく、黒のパンツにジャケットを着て普段着ないものを着ている。これから朱莉と会いに行くから自分なりにオシャレをしたしあながち彼女の言うことは間違っていない。

「まあ、そうだね。デートというか、そんなんじゃないけど女の子の元に出かけるのは間違ってないかな」

 落ち着いて淡々と答えると、目を見開いて彼女は机越しに僕に顔を近づけ詰め寄る。

「それデートじゃん!」

 まくしたてられ僕は若干引く。

「いや、そんなもんじゃないよ。だって僕より年下だし小さい子だし、デートなんて言わなくないか?」

「えっ」

 急にレンさんの顔が強張った。どうしたんだろう、引きつっているように見える。

「ねえ、佐伯くん。……犯罪は犯してはいないよね。小さい子とデート、ロリコンだし犯罪だよ……」

「いやいや、誤解だよ! 普通の子だよ!」

「それでその子は可愛いの?」

「まあそれなりには、幸の薄い感じで……、ほら、スマホを耳から離してね。誤解されるようなことは本当してないから」

「小学生、中学生、高校生同士ならまだしも、大学生がそれ以下の学年に手を出しただけでもう犯罪なの、分かってる?」

「分かってるよ、だから落ち着いて、ね?」

 レンさんは僕の方をジトッと見ながらスマホをしまう。ため息をつく。なんだかいたたまれない気持ちでいっぱいだ。

「まあ、最初に話した時からそういうことするような人には見えなかったから一応信じてあげるよ」

 そうしてくれ、と呟くと彼女は息をつく。

「それで、その子はどんな子なの?」

「あ、結局聞くんだ」

「気になるからね。ロリコンの佐伯くんがどんな小さい子を好きになるか」

「なんか警戒されてるなぁ」

 朱莉のことを誤解ないようにどう説明しようかと考えているが、容姿のことを言うと完璧に勘違いするだろう。でも彼女の複雑な事情を説明しても理解してもらえない。

 うーん、と悩んでいるとやっぱりそうなんだ、とニヤついた笑みを浮かべてくる。違うよ、と慌てて否定したのち言葉を続ける。

「その子は、絵が好きかな」

「絵?」

「そう。けどさ、その子不思議な絵を描いてたから気になって放っておけないな、って感じちゃったんだ」

「どんな絵だったの? そこまで興味が出るんなんてよっぽどすごい絵画なんだ」

「いや、そうじゃないんだ」

 首を傾げている。どう表現しようか言葉を探す。僕が最初に見た絵は、独特すぎて表現がすごく難しい。素直に話すべきかどうか。

「その子の絵はすごく悩んでたんだ」

「悩む……。抽象的だね」

「何描いていいのかわからない状態で絵を描いてて、でもそれがすごく心に響いたんだ」

 ふんふん、と相槌を打ちながら聞いてくれている。

「その時見た絵というのは、キャンバスが黒く塗りつぶされていて、乱雑に赤が散りばめられていたものなんだけどね」

 そういうとレンさんは先ほどとは違い、少し眉間に眉を寄せ訝しげな表情になっていた。

「……ちゃん?」

 彼女は誰かの名前を呟いた。

「ねえ、その子は朱莉ちゃんのこと、なの?」

 その瞬間、僕の刻が少しだけ止まった気がした。

「朱莉ちゃんと顔見知りなの、佐伯くん!」

 ここが図書館だということを忘れて彼女は大声を出した。ページをめくる音、ペンを走らせる音がさわさわと小気味よく聞こえていた静かな空間が、急に崩壊してそれらさえ聞こえなくなった。

「あ、ごめんなさい……」

 慌てて謝り、深呼吸して落ち着かせた。

 彼女は、朱莉のことを知っていた。そういえば、と記憶を巡らせる。

 レンさんは昔の友達がどこにいるのか、という手がかりを探すために僕に接触した。連絡もなしに居なくなってしまった年下の絵が好きな子。思い返せば、共通点は確かに存在する。

「朱莉ちゃんのこと、知っているんだ」

 止まっていた何もかもがすべて動き出す予感がした。


「さっきはごめんね。そしてちゃんと教えてほしいかな」

 レンさんは笑いながら手を胸の位置で合わせて謝る。

 彼女のバイト休憩時間を利用してカフェにやってきた。ファミレスの時と同じように向き合う形になる。

「そっか……近くにいたんだ、朱莉ちゃん」

 コーヒーカップを手で包みながら感嘆の声を漏らす。そことなく嬉しそうに微笑んでいる。

「この間のことは……ごめん。その、朱莉のことだなんて気がつかなくて」

「そんなことはいいの。具体的に言わなかった私が悪いんだし」

 責め立てたつもりはないが、申し訳なさそうに視線をコーヒーカップの方に向け俯く。

「それより、よく僕の言葉で分かったね」

「私も君が言っていたような絵を見せてもらったからね。……苦しそうだったよね、彼女」

「いつ、見せてもらったの?」

「4、5年前……だったと思う。ずっとあのまんまなんだ」

 僕が想像していた以上長い期間、深刻で苦しんでいる。あの精神状態のままそれだけの時間が流れたなんて、僕だったら狂ってしまう。

「急にね、泣きついてきたんだ。描けない、怖い、嫌だって。あの子それまですんごいいい絵描いてたんだよ。色使いが巧みで本物とは違う、新しい風景を見せてくれた」

 コーヒーを注文した時に付属したスプーンで中をかき混ぜる。

「でも泣く朱莉ちゃんを見て、その子が描いた黒い絵を見て私は何も言えなかった。私自身もショックで言葉が出なくて、慰めることなんてできっこなかった。大丈夫、ってやっと言葉が出たけど、彼女は大丈夫なわけない。求めてるのはそんな言葉じゃない、無責任に言葉を放ったことを後悔した」

 水面が揺れる。ゆらゆらと揺れる波紋は彼女の不安定な心情を表しているように見える。

「そのあとタイミングよく引っ越して、もしかして私、あの時の言葉を間違えたから……、と思って罪悪感でいっぱいいっぱいで、謝りたいんだ。だから、ずっと探してた」

 少し目元には涙が見えた。けど、彼女の真っ直ぐに僕を見据える瞳は純粋に透き通っている。

 レンさんの独白に僕は胸が痛くなる。僕はどうしようもない理由で朱莉と関わろうしていて、彼女のように昔の罪を背負いそれを洗おうとするために会おうとする、そんな正当な理由ではない。完全なエゴであることを思い知った。

「でも、おそらく朱莉はそんな理由で引っ越したわけではない、はずだよ」

「それは気休め? それとも気を使ってくれたの? 君は何を知っているの?」

 言葉の選択を間違えたと思った。語気が強まった彼女の言葉に僕は怖じ気付いてしまう。彼女は複雑な事情で離れざるを得なかったのは間違いない。でもそれをどう伝えればいいんだ。

 信じてもらえるだろうか、いや普通だったら無理だ。レンさんは複雑に絡み合った闇を理解してもらえるのだろうか。分からない、だって僕でも時間がかかった。理屈はどうであれ結局は信じるしかない。朱莉のために信じてもらえるように僕が話するしかないかもしれない。

「僕は、確かに君ほど付き合いは長くはないし彼女の好きな物を聞かれれば答えられない。でも、僕から彼女に関して伝えられることなら伝える」

「やっぱり変なことに巻き込んで」

「違う、それだけは言える」

 彼女は僕の言葉に口をつぐむ。

「僕の口から出ても信じられるとは到底思えない。だけど友達なら、信じてくれると彼女も思っている」

 だから、と付け足す。

「朱莉を信じる意味で、僕の言うことを信じてほしい。これが朱莉を助けるための最初の一歩になるはずだから」



 当たり前だけど、最初は困惑していた。死んだはずの偉人が能力として司っていて、それが呪縛として自分の表現を邪魔しているなんて、ファンタジーに近い。説明しても僕自身が何言っているのか分からないほど。

 これはファンタジーじゃない、現実だ。

 だけどレンさんはうんうん頷いて聞いてくれた。非現実的な話であろうに。

「話してくれてありがとう。信じられない話だけど信じるしか、ないんだよね」

 カフェから出て図書館から戻る途中にそんな言葉を呟いた。

 そう、信じられないのが普通。そして信じるしかない。そう思い込んでしまうのを怖いと思うのは当然だ。

「これからバイトに戻るけど、なんだか集中できなさそう。頭の中でずっと違和感でしかない真実がぐるぐる回るって考えるとパンクしそうだね」

 力なく笑う。レンさんにはキツイ話だったとは思う。知らぬ間に別れた親友が底知れない力に取り憑かれ、もしかしたら危険なことに巻き込まれている、そんな予感がよぎるのも致し方ない。

「僕もおんなじ気持ちだよ。受け入れるしかなかったんだ」

 僕の言葉に彼女は黙ってしまう。また言葉の選択を間違えてしまったか、と慌てた。

「……私と会ってくれるかな、朱莉ちゃん」

 はつらつとした第1印象を受けたレンさんから出た弱気な言葉に何も言えずに僕も黙ってしまう。

 朱莉がレンさんを受け入れてくれるかどうか、結論から言うならば絶対に問題なく受け入れてくれる。だけどその言葉がどうしても出なくてそんな自分が情けない。

「会いに行ってもいいと思うよ」

 他人事のように「思う」を使う自分に嫌気がさす。この2人が引き合わせられるのは僕しかいない、合わせなきゃならない。

「いや、会いに行こう」

 そう思ったから言い直した。するとレンさんは顔を上げ、僕の目を見据えては泣きそうな顔をする。

「絶対朱莉も会いたいと思ってくれている。だから会いに行こう」

「本当に、大丈夫なのかな。直接的な理由が私じゃなくても根底にあるんじゃないかなって。そう思うだけで会う資格ないんじゃないかって思うんだ」

「大丈夫」

 不安を僕の言葉で無くしてあげないと。

 不可思議な話を信じてもらえたように、僕自身が言葉を再び紡いであげるんだ。

「彼女を信じて。朱莉は変わりたいと思っているし、そこにはレンさんの存在も必要だから。会えないと尚更悲しむだろうから。会いに行ってあげてほしい」

 僕はやっぱり口下手で、説得できるほど強く言えないあたり弱い人間だ。あとはレンさんの意思に、決断に、身を任せるしかない。

「本当にそう思う?」「うん」「私のこと覚えてるかな」「忘れるわけがない」「……私のこと待ってるかな」「ずっと待ってたよ」

 レンさんの問答に朱莉の気持ちになって代弁する。彼女は絶対にそう思ってくれているから、これらの言葉は本物だ。妙な確信だけど絶対にそうだ。

「すごい自信だね」

「本当だから」

 目を閉じながら息を吸って長く息を吐いた。彼女なりのリラックス方法だろうか。

「……じゃあ、行ってみる」

 目の前を見据えた。僕もつられて同じ方向を眺めてみた。その先には何かあるわけではないが、光の道筋がキラッと見えた気がした。

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