ひまわりは誰の方にも向かない-3
それにしても、と彼女の言葉で話は切り替わる。
「あんまり他人が借りる本の用途とか詮索しないんだけど、佐伯くんは大学では美術を専攻しているのかな? 全然そうは見えないけど」
レンさんとは連絡先を交換した後、閉館の締めを行うため図書館から追い出されたのだが、帰りの駅に向かう途中で後ろから追いかけてきたようで、これから少しご飯でもどう? と誘われた。逆ナン? とさっきのからかいの仕返しをしたら違うよ、と大きな声で拒否された。そこまで否定しなくてもよくない? と若干へこんだ。
ファミレスに入ってドリンクバーのジュース2つとフライドポテトを2人で向き合って囲んでいた時に、彼女にいきなりそう言われた。
「美術は専攻してないよ。むしろ苦手というか。単位が簡単に取れる講義のレポートの参考資料ってやつだよ」
「あー、そうなんだね」
彼女が相槌を打つと急に目の前にいるレンさんが縮こまったように見えた。
「なんかね、君が借りた雑誌の表紙見て懐かしいなーと思って」
「懐かしい?」
彼女の言葉を反芻すると小さく頷いた。
「うん、昔ね。絵が好きでしかもすごく上手い女の子と友達だったんだよね。私が中学生の時だったかな、近所の小学校の子」
急にしおらしい態度になる。
「けど急にいなくなっちゃったんだ。当時のクラスメイトに対する別れの挨拶もなし、そして私にまで内緒。おかしいなぁと思ってその子の家族に電話したんだけど、何もなし。繋がらなかった」
彼女のコップの中にはドリンクがなくなり氷しか入ってない状況で、それに気づかずストローでズズッと吸う。それに気づいたレンさんは恥ずかしそうにはにかむ。
「だからね、もしかしたら美術繋がりで知っているかな、と思って。あの絵の上手さだったらプロの画家にもなっていそうだしね」
そして手で顔を覆いながら後ろの方へ背伸びをする。
「ああ〜、そうか〜。そうなると知らないってことなんだよね。そういう専門の学生だと思って声かけちゃったんだ」
「力になれなくて……」
「あ、そういうのは求めていないよ。勘違いした私が悪いから。でも、やっぱり会いたいなぁ、会えるかなぁと思っちゃったのは事実な訳で、気持ちが思わず先行しちゃってた」
「そこまで想っているってことはよっぽど仲良かったんだね」
中身が氷だけのコップの中をストローでカランカランとかき混ぜる。小気味好い音が鼓膜まで届いて響く。
「そうだね、うん。そうだったはず」
少し言葉が詰まっていた。大きく息を吐いたのち、目を伏せる。
彼女の言う、友達。彼女の人生において大きな転換を与えてくれた人なのだろうか。ここまで必死になって探そうという意識も理解できる。
「端的に言うと、私が好きだったもの、彼女が好きだったもの。厳密に言えば違うものだったんだけど、価値観がすごい似てて。その時私の価値観は周りからは肯定されなくて、けどその子はね。唯一の理解者だったんだ」
レンさんはそれを最後に、立ち上がる。そしてテーブルの隅にある伝票を手に持つ。
「まだ君とは仲良くないからこれ以上は言えないかな。でも勘違いとは言え付き合わせちゃったからこの場は私が払ってあげる」
「ちょっ」と待って。最後まで言わせてもらえなかった。
「いいから。男が払うべきとかいうステレオタイプ、嫌いなの。誰が決めたんだが……」
僕を視線で抑制する。そして僕に背中を向けレジの方へ数歩歩いて、振り返り再び僕を見据える。
「じゃあ返却の連絡はちょーだいね。私は帰るから。また会えるといーね」
口元を緩ませ視線を正面に戻した。右手を上げ手を振りながらレジへ再び歩みを進める。
なんだがペースをずっと握られていた気分だ。分からないうちに彼女の世界へのめり込んだようなそんな感覚に陥った。たまたま声をかけられて、初対面で食事に行くだなんて思いもしなかった。
……行方が分からない友達に対する執念。これが彼女の不思議な世界を作り上げた入り口なのだろうか。
まあこのような邂逅も悪くはない。僕は鞄に先ほど借りた雑誌が入ってるかを確認したのち、あとを追うようにファミレスから抜け出した。
ーー美術史における最高の瞬間。
貸本の表紙にはそのような売り文句がデカデカと記載されていた。そしてその中身は、【ひまわり】の8枚目が日本国内で発見され、それが正式にゴッホの作品だと認識された。簡潔に言うとこんな感じだ。巽教授の言っていたことはあながち間違いではなかった。でもやはり、違和感があるのだ。
その8枚目のそれは脳裏にこびりついた絵と一致していた。まるで現代に偉人の彼が生きていたら同じような画法でこう描くだろう、と主張しているようだ。
なんでゴッホの絵が日本国内で見つかったのかはよく分からない。でも世紀の大発見だ、150年越しに発見された彼の新作だ、と世間は気がつけば賑わっていた。メディアはこれらについての特集、そして胡散臭い専門家が持論を展開する。久しぶりにテレビを見て幻滅してしまう。しかしこれらのことをあの図書館でこの雑誌を見つけるまで分からなかった自分の不勉学を猛省せざるを得ないのも事実で。いくら僕自身が美術に興味ないとはいえ、知らなすぎである。
となると、だ。これが事実であるなら「ゴッホ」と巽教授の言葉の意図を読み取ることが困難になってしまった。
いいや、困難というわけではない。ある程度無茶苦茶な持論を展開しなければならなくなってしまったのだ。
僕は、彼女と初めて会った公園に赴いた。アパート前の、大きな大樹があるあの公園。彼女が真っ暗と絵に描いた、不思議な場所だ。会える、会いたいと思ってしまったから、意識的に赴いた。
そんな欲望はすぐに果たされる。大きなキャンバスを抱えて歩いてくる小さな影は、ゴッホだった。そして僕に気づいたのか大樹と公園の入り口を結ぶ対角線上の中間で立ち止まった。僕を見て口角を上げ、目尻を下げた。笑っているのかないのか分からない表情だ。
そしてそのまま近づいてくる。
「こんにちは、佐伯くん。また会ったね」
昼がある程度過ぎていたが、明るい下で彼女を見るのは初めてな気がする。美術館の展覧会で会った時は薄暗かったし、初めての邂逅の時は夜だった。晴天に晒されると彼女の不健康そうな黄色い肌は余計に目立ってしまっていた。
そして僕の存在を意に介さず、最初に会ったように大樹の前に画材立てを置き、キャンバスを立てる。それにはまだ彩りは加えられていなかった。
「どうしたの、今日は。連絡先も知らないだろうに、よく会うよね。もしかしてストーカーしてる?」
ふふっ、と冗談っぽく笑う。
「まあここに来たのはたまたまだよ。僕の住んでいるアパートは近くにあるし、ここにいると会える気がして」
なるほどね、と興味なさそうに答えては画材を詰めているだろう鞄から筆とパレットを取り出しては絵を描き始める準備をしていた。僕はそれを眺めながら、話を切り出す覚悟を心の中に溜め込んだ。
吐き出すのは今なんだ。
「僕は美術館で君と会ってから色々と調べたんだよ。そしたらさ、どう考えても不可解なことがあるんだ」
キャンバスに向いていた視線を僕の方へよこす。その表情は驚きというか戸惑いというか複雑だ。
「そっか」
そしてその表情から出た言葉は、簡単な一言。真逆な反応だ。
「それから? あなたの考えを教えてよ」
小さい彼女から出るとは思わなかった妖艶な笑みに心臓が少し跳ね上がる。
僕は持論を彼女に吐いて一体どうするんだ? この一言が彼女の闇をさらに深めることになるんじゃないか、突きつけなければならないことなのか? と自問自答をする。
でも、と帰結する。これが闇を晴らす可能性になり得ることもあるんじゃないか。だから吐き出すしかないんだ。心に溜まった覚悟が、喉に詰まった言葉を吐き出させるように後押しする。
そしてあり得ないと何度も思った持論を吐露する。
「もしかして、あの8枚目は君が描いたものなのか……?」
「見つけてくれたんだ」
返答が早かった。その意味深長な言葉ではっきりとした。
「そうだよ」
僕の持論が真相への道筋を辿ろうとしているだなんて思いもしていなかった。そしてその返答はあまりにも軽くてあまりにも拍子抜けを感じてしまう。
「私が描いたの」
その一言は僕にとても重くのしかかる。メディアは、美術館は、少女の描いた絵をフィンセント・ファン・ゴッホという偉人が描いたものだと吹聴していたのか。そして‘嘘’は世間に広まろうとしている。誰もそのおかしさに指摘できていない現実が、おかしい。
「勘違いしてる気がする」
呆然と立ち尽くした僕の頬を小さい手が触れる。小さいけれど、指の先はタコで固くなっていて不思議な感覚が撫でる。
「この間も言ったけど、あれは本物なの。描いた私、専門家、世間がそういうんだから……そうなの」
本物。もしかして本物という言葉の定義を間違って覚えているんじゃないかと錯覚する。どうしても彼女のいう「本物」と僕が今まで使ってきた「本物」。噛み合ってない。
「ねえ、私の手は、どう感じる?」
混乱のさなか、彼女は僕の頬をその手で何度も何度も撫でる。……やっぱり不思議な感覚がある。手全体がタコで固くなっていて、でもそれほどの温もりや体温を感じなくて。そういう意味で不思議だと思ったのだ。
「私は《本物》を描く能力がこの手にあるんだ」
僕が何も言えずにいると頬から手を離し、自分の右手を触っては見つめる。そうしながら語ったセリフは童話やおとぎ話に出てくるような言葉だった。
「例えば私。私はね、《フィンセント・ファン・ゴッホ》の本物の絵を描けるんだ。違うなぁ、うまい言い方すると……現代に彼の作品を生み落せる能力、かな。そして私みたいに祝福を受けた人が、たくさんいるんだ。多くはないけどね」
彼女はそういうとキャンバスの前に立ち、パレットを持ってその上に絵の具を付け足す。パレットがさまざまな色で彩られる。そして先を水に浸けた筆を持っては絵の具となじませた。
最初の一手は大胆に。キャンバスの中央に若干濁った黄色をベターっと貼り付ける。
筆をスケートのように優雅に滑らせる。
初めて見た彼女の絵とは全然違う。キャンバスの絵は、あの絵へと変貌した。
「これは、【ひまわり】の9枚目。これは水彩で描いた絵だけど、公表すれば初めて水彩で描いた【ひまわり】として崇められる」
赤の壁画背景に、中央に置かれた水色の花瓶。そこから扇状に広がる茎。先端にはライオンのたてがみのように円状に開いた花びら。だいぶ8枚目とは趣向が違う。でも、これは。
「『もしゴッホが現代に生きていたら、こんな絵を描くだろう』。そんな妄想を現実にできるのが私なんだ。多分これは能力だと思うし、専門家たちは祝福だ! と言って私を崇めているの」
「即席で書いたその絵が9枚目だなんて、あり得ない。そんなの誰が!」
「現実にあり得ない力だから、祝福なんだよ。私の能力は」
斜め方向へ。話はとんちんかんな方向へとふわふわと浮き上がっている。理解できているだろうが、理解しがたい。
「でも、それはただゴッホの画法を使っているだけで、似ている絵を描いただけなんじゃ」
「ううん。私は確かに描いている。ゴッホに似た画法じゃなくて、ゴッホの画法で」
それが彼女の能力。理解が追いついてきた。
彼女には怨霊みたいな存在としてのゴッホが宿っているというのだろうか。それが絵を描く時宿る? なんとなく筋道が通ってきた。
分からないことだらけだけど、やっぱり嘘を言っているようにも見えないんだ。その感覚は最初に会った頃からある。この不可思議な現状を受け入れて話を進めるしかない。
「じゃあ、美術館で飾られていたアレはどういう……」
「ん、8枚目のことだね。私は、アレを描くことが初めての仕事だったんだ。そして誰も違和感を持つことなく受け入れられれば私の能力が本物だと認められる。緊張しなかったけど、私の上の人は緊迫してたよ」
少し目を伏せて、顔が若干強張る。
「そうなると私が描いたのは、『ゴッホの本物の絵画』になっちゃうから、価値がついちゃうんだ。上の人は、お金がたくさんなんだよ」
彼女を取り巻く闇の中身がだんだんと分かってきた。そしてそれは深すぎることも分かってしまった。
「……とすれば、これは一種の金儲け、ってことになってしまうんじゃ」
首を振る。
「そういう側面ももちろん存在する、でも1番はそうじゃないの。さっきも言ったはず、偉人たちが現代にいたら? という妄想の具現化。だから祝福と呼ぶ」
……なんだか無性に腹が立つ話だ。そのような能力を宿した人を、自分たちの欲望を果たす道具。モノ扱いしているようにしか思えない。
僕には目の前にいる娘を人間としてしか認識できない。道具として見る人間は、果たして僕と同じ種族なのだろうか。
「あの展覧会では、私の他にも同じ能力を持つ人が、同じ目的で同じように作品を展示していたの。ゴッホとは違う画家さんの能力だけどね。気付いた?」
目を細め、口元を無理やり吊り上げた笑顔が、なんとも息苦しく思えて。だからそれを見たくなくて僕は目を少し逸らした。
僕は、何ができるんだろう。そして、彼女の話を聞いて、今1番聞きたいことを恐る恐る口に出す。
「じゃあ、最初に僕が見た君の絵は」
「あれは」
彼女は今までで1番動揺したように見えた。自分の能力を淡々と話した中、明らかに動揺していた。僕の言葉に素早く食いついた。そして1番声が大きかった。
「……、あれはゴッホの絵じゃない、私の絵」
そうだと言っていた。見せるのは嫌だったけど、僕がどんな反応するか気になったから、と。だから、僕はあの絵に彼女の感情がすべて詰め込まれていると思っていたし、それを知りたくてここまでたどり着いた。真相は僕が思っていた以上に不可思議で、理解され難い超力だったのだが。
「なにもない、唯一の抵抗なのかな」
深い闇に囚われた少女が、ポツリポツリと呟いては口を紡ぐ。
「急にね描けなくなったんだ。自分の画法で絵が表現できなくなって。めちゃくちゃに描くしかなくて。でも、なぜか分からないまま頭が急に冴えてイメージが浮かんで手が勝手に動いて、ゴッホの7枚目とまったく同じ【ひまわり】が目の前のキャンバスに描かれていたの」
「祝福が、宿った瞬間ってことだよね」
頷く。相変わらず表情は固い。
「自分がどんな絵を描いていたなんて思い出せなくて、でも描きたい感情はあっても、描けやしない。毎回、あのような絵でもないような絵が出来上がっちゃうんだ」
自分を表現できないほど悔しいことはない、それはどんな芸術家にも言えることで圧倒的に苦しい出来事だ。彼女にはそれを克服する権利が奪われた状態で幾千もの間、苦しみ続けている。
「だいぶ狂った話だね」
おどけた。でもあげた顔の目元にはうっすらと涙が見えた気がした。
「嘘だったらいいのに」
狂った現実が存在してしまう事実が僕の心を締めつけた。
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