第76話 「もう終わってるよな?」

「彩音!」


 床に落ちたプレートが粉々に砕け散る。

 千夏が慌てて駆け寄ると、彩音は既にしゃがみこみ、飛び散った破片を拾い集めていた。


「だ、大丈夫大丈夫。ちょっとビックリしただけだから」


 彩音はそう言いながら破片を集めるが、うつ向いたまま一切顔を上げようとはしない。

 そんな彩音の気持ちを察してか、千夏はそれ以上何も聞かなかった。


 が、そんな暗く重い空気の中、空気を読まずに話に割り込んできた女性が一人。

 亜弥華である。


「なんなの?なんか訳あり?」


 わざと空気を読まないのか、それともほんとに空気を読めないのか。

 亜弥華の発言に千夏は睨みつけるが、亜弥華は一向に気にしない。


「あ、その、えっとね」


 優真との出会いから優真との生活。

 そして現状に繋がるまでのあれやこれやの出来事をまるで他人のことのように淡々と事情話す。

 そうやって平常心を保とうとしている彩音の心を読み取った千夏だったが、時折震える声に千夏は彩音を抱き締めたい気持ちでいっぱいだった。


「なるほどね。で、音信不通だったのに急に電話かかってきたと」


「彩音、無理しなくていいからな。出たくなかったら出なくていいからな」


「千夏……でも、ちゃんとけじめはつけたいの」


 千夏の気づかいを嬉しく感じないわけはないが、このときばかりは彩音は覚悟を決めていた。


「違うよ!千夏が心配してるのは彩音がまた感情に流されてあいつがかわいそうって思って、あいつのとこに帰っちゃうかもって」


「だ、大丈夫……だよ。大丈夫」


 にっこり微笑んで見せるが、それも強がりだと千夏には見透かされてしまう。

 本当は泣きたい気持ちがいっぱいで、亜弥華がいなければ千夏の胸を借りていたかもしれない。


「あ、まただ。あーちゃんでる?」


 再び震え出した彩音のスマホを亜弥華は恐る恐るつまみ上げる。


「千夏。私……」


「大丈夫。千夏がここにいるから」


 彩音は千夏と見つめ合いながら頷くと、亜弥華からスマホを受けとり深く深呼吸し後、自分を見守る二人に背を向けゆっくりとスマホを耳元に近づけた。


「彩音……」


「……はい」


 スマホの向こうから聞こえる最愛だった男性の声。

 数日前まで愛していたはずの男の声が、今は赤の他人の声に聞こえ、彩音は自分でもびっくりするほど落ち着いていた。


「…………久しぶり」


「……うん」


「……」


「……」


 無意味な沈黙が流れる。

 だが、二人にはこの沈黙が大事な時間だった。

 お互い気持ちが通じあった仲だからこそわかる、無言の会話がそこには存在した。


「あのさ、彩音」


「……はい」


「俺達、もう終わってるよな?」


「……え?」


 突然の優真の言葉に自分の耳を疑ってしまう彩音。


「もう終わってるよな?」


「……」


 唐突に突きつけられたぶっきらぼうなその言葉に何も返す言葉が見つからない。


「じゃあな、彩音。家、片付けてあるから」


 事前に何度も練習したかのような冷たい台詞。

 その言葉を最後に通話は終了し、彩音はその場で立ちすくむしかできなかった。


「ちょっとなに今の!!わけわかんないんだけど」


「彩音、今のはさすがにひどいわ!」


 彩音の背後からこっそり聞いていた二人は優真の対応に腹を立て次々に騒ぎだす。


「……いいの。ゆーくんも終わったって言ってるし、私も終わったと思ってたから」


 彩音は自分に言い聞かせるように小さく呟くとその場に座り込んだ。


「それでいいの……」


 彩音の口からでた力ない言葉。

 それを聞くや否や、千夏は彩音の側に座り込みぎゅっと彼女を抱き締めた。



 なんとも言えない空虚な時間がその場を支配する。

 彩音がDV彼氏と別れることは彼女のことを想う人々の望みであった。

 そして結果としてその通りの展開になった。

 本来なら喜ばしいことなのだが、これではさすがに後味が悪すぎる。


 いきなりのことに気持ちの整理が落ち着かない彩音。

 そんな彩音に優しく寄り添う千夏。

 不条理な空気に包まれた二人だったが、その場の空気を一変させたのは、やはり亜弥華の一言だった。


「よし!それなら今から行ってみよう、あーちゃんのマンションに」


 その言葉に二人とも口をポカンと開け、亜弥華を見上げた。


「え、無理だよ!だってゆーくんいたら……その……」


「なんで?出てったって言ってんだからさ。それでもまだいたら私が『アンパンチ』お見舞いしてやるよ」


「え、いや、その。ね、やっぱり何かあったら怖いし。千夏もそう思うでしょ?」


「彩音、千夏も行ってみるべきだと思う。千夏が一緒にいてあげるから、ね?」


 同意してくれると思いきや、千夏はまっすぐ彩音を見つめ力強く頷いている。

 彩音が今の状態から立ち直るには、実際に現地を確認するのがベストだと考えたのだ。


「う、うん。千夏がそう言うんなら」


 千夏の笑顔に勇気をもらった彩音は唇をぎゅっと噛みしめ勢いよく頷いた。


「よし!それじゃあタクシー呼ばなきゃね」


 亜弥華は自身のスマホを取り出し手慣れた手つきでどこかへ連絡する。


「あ、令和です。はい、はい、そうです。タクシーお願いできますか?はい、お願いします。場所は……」


 手際よくタクシーを手配しそそくさと玄関へ向かう亜弥華。

 ポカンとする二人に亜弥華はキラキラした満面の笑みで答える。


「お金は気にしなくていいよ。タク代も経費で落とすから」

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