第71話 「いつから女の敵みたいなことできるようになったの?」

 エレベーターから出るとつかつかと勢いよく通路のど真ん中を歩く女性。

 青海川千秋である。

 苛ついた表情を崩すことなく、亜弥華の病室へと向かう。

 その後を孝太郎が追いかけるが、青海川の雰囲気に圧倒され声がかけられなかった。


 青海川は亜弥華の病室の前に立つと、深呼吸しつつ勢いに任せにドアを開ける。

 が、そこにはやはり誰もいなかった。


 静まり返った病室。

 亜弥華にしていたであろう点滴の針が何故か綺麗に抜き取られ、ベッドの上に散乱していた。


 青海川は窓を開け、身を乗り出し辺りを見渡すが、やはりどこにも亜弥華の形跡はない。


「……どこにもいない」


 ぽそっと青海川が呟いた魂の抜けたようなその声に、孝太郎は再びかける言葉が見つからなかった。


「ねぇ、彩音ちゃんに連絡して。絶対一緒にいるに違いないわよ」


 青海川は振り返りながら孝太郎に詰め寄るが、孝太郎は首を横にふるだけ。


「落ち着け、青海川。もしかしたら彩音も探しに行ってるかもしれないだろ」


「そんなことないわ!絶対一緒よ!あの子が亜弥華をたぶらかしてここから逃げ出したんだわ」


「いい加減にしろ。彩音がそんなことするわけないじゃないか。一体どうしたんだ、青海川らしくないぞ」


 その瞬間、青海川はびっくりしたような顔で孝太郎を見つめ、嘲笑うかのように口を曲げた。


「青海川らしくないぞ?へ?笑わせないでよ。彩音ちゃんのこと、よほど信頼してるのね。全く演技がお上手だこと」


 孝太郎に詰め寄った青海川だったが、今度は不敵な笑みを浮かべ後退りしだす。


「誰のせいでこうなったと思ってるの?」


「誰のせいでもないだろ。心配しなくても見つかるって」


 そうは言ったものの、彩音がいないのは事実であり、孝太郎は自分が病室にいればこんなことにはならなかったと責任を感じていた。


「違うわ……こうなったっていうのは亜弥華のことじゃない」


 孝太郎の前向きな意見を青海川が一蹴する。


「私が言いたいのは、私が私らしくなくなったってことよ」


「青海川……いったい何を言ってるんだ?」


 孝太郎の顔をじっと見つめながらますます不敵な笑みを浮かべる青海川だったが、何か合点が言ったようでクスクスと笑い始めた。


「心配しなくても見つかる……か。ふふふ、ええ、そうよね。亜弥華はちゃんと見つけたものね、あなたのことを」


「俺のことを見つけた?青海川、一体何を?」


「一体何を?笑わせないで。とぼけた演技はもうやめてくれない?」


 不敵な笑みから一転し眉を細目ながら孝太郎を睨み付ける。


「私に隠してることがあるでしょ?ねぇ、あるはよね?彩音ちゃんにはもう話したの?あなたが亜弥華にしたこと」


 そう言うと青海川は亜弥華のベッドに腰掛け、勝ち誇ったように語りだした。


「私は亜弥華のマネージャーよ。亜弥華は見ての通り色々と手がかかるのよ。それはプライベートでも同じよ。でね、前担当が亜弥華に寄ってくる男共を追い払うのにあれこれ手を焼いたって色々聞いてるの。で、一番効果があったのが……もうわかるわよね?」


 足を組み直し、大声で下品に笑う青海川。

 その笑い声が病室にこだまする。


「いやぁ、まさか前担当が男払いに依頼した別れさせ屋が伊藤だったなんてほんとびっくり!亜弥華をその気にさせて他の男と縁を切らせるなんてね。ねぇ、いつから女の敵みたいなことできるようになったの?」


「青海川……お前……」


「私はなんでも知ってるわけ。伊藤が亜弥華に何をしたか。で、彩音ちゃんに何をしてるか」


 孝太郎の顔色がみるみるうちに雲って行く。


「もちろん亜弥華は何にも知らないはずよ。あの子、伊藤によっぽど惚れてたそうね。それで会いたいって祈り続けてほんとに会えるなんて笑える。おかげで私も伊藤と再会できた訳なんだけど。いや、私がこうなるように仕事選んで亜弥華を誘導したからか……ま、そんなことより伊藤さ、犯罪まがいなことして何が楽しいの?」


「青海川、なんの冗談だ」


 青海川にぶつけた声が少し震える。


「冗談だ?ふざけてるつもりはないんだけれど。否定しないってことはやっぱり伊藤だったのね」


「青海川、これには色々と事情があるんだ」


「事情ねぇ。ねぇ、二人に自分の正体バラされたくないでしょ?そりゃそうよね。じゃあ黙っててあげるから、代わりに私ともう一度やり直さない?」


 恐れていたことが青海川の口から飛び出した。

 青海川が彩音に全てを話せば、これまでの計画が全て水の泡になってしまう。

 水の泡どころか、これまで築き上げた信頼関係も全て失ってしまいかねない。


「ねぇ、私は真剣よ。私じゃダメな理由なんてないでしょ?」


 孝太郎をまっすぐに見つめながら青海川はベッドから降り、一歩一歩軽やかに孝太郎に近づく。


「脅しか?」


「脅しだなんて!私がそんなことする女じゃないって知ってるでしょ?」


「青海川、お前はもう俺の知ってる青海川千秋じゃない。全くの別人だ」


「だから言ったじゃない。誰のせいでこうなったんだって」


 青海川は孝太郎に近づき、正面から彼にもたれ掛かると、ありったけの力でぎゅっと抱き締めた。


「どうしてこんなに震えてるの?しかもこんなにドキドキして。それに顔色もちょっと悪いみたい」


 孝太郎の胸に顔を埋めながら、青海川は意地悪な声色で語りかける。


「ねぇ。どちらが主導権を握ってるのか、ちゃんとわかってる?わかってないなら教えてあげる。伊藤は私には逆らえないの。だから私の言うことを聞くしかない」


 孝太郎は何も言い返すことができず、気を抜けば乱れそうになる呼吸を整えるのに必死だった。


「時間をあげるわ、いい?明日の撮影までに亜弥華を連れて来て。じゃないと彩音ちゃんにバラしちゃうから、伊藤の正体」


 青海川は孝太郎を見上げシャツをの首元を引っ張り、孝太郎の顔を引き寄せた。

 同時にできるだけ高く背伸びをする。


 瞳を閉じた青海川の唇に孝太郎が覆い被さるように唇を重ねた。


「唇……乾いてるね。なんか懐かしい」


 未知なる恐怖で乾いた孝太郎の唇。

 その唇を絶対的な優越感に浸った青海川の唇が激しく潤す。

 必要以上に求める青海川に、孝太郎は身を委ねるしかできなかった。


 絡んだら舌をそっと忍ばせ、青海川は満足気に微笑む。


「この際、バレてもいいんじゃない?私が心の傷を全部埋めてあげるから。だってあの頃みたいに愛し合えばいいだけじゃない」


 放心状態の孝太郎に青海川が投げ掛けた言葉は、脅し以外の何でもなかった。


「連絡先聞きそびれちゃったけど……ふふ。いい結果を待ってるわ」


 それだけ言い残して、青海川は上機嫌で病室を去る。







 孝太郎が胸を抑え倒れたのは、青海川が去った数分後のことだった。

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