第38話 「早くしないと二人来ちゃうから」

 バッチィーーン


 彩音のスナップの効いたビンタが孝太郎の頬にきれいに決まり、乾いた破裂音が浴場に響き渡った。

 完璧に振り切ったその腕と同じ方向へ、孝太郎の顔が首から大きく曲がる。

 ラッキースケベで孝太郎がビンタされただけなら問題はなかったのだが、この時とんでもないことが起こった。

 彩音のビンタで脳ミソが揺れた孝太郎は、そのまま白眼をむき天を仰いだのだ。

 よろめいた足がぐにゃりと絡まり、そのまま崩れるように倒れる。

 その場にいた三人ともが孝太郎から魂が抜けたように意識が薄れ倒れていく様子がはっきりとわかった。


 孝太郎は倒れた勢いのまま床に頭を打ち付ける。

 が、幸いにも倒れた箇所には足拭きマットが敷いてあり、頭部に致命傷を負うことはなかった。



 一方、孝太郎を一発KOした彩音はじんじんする右手を握り、顔面蒼白になっていた。

 大変なことをしてしまったことへの後悔と罪悪感が体中を駆け巡り、思わずその場にしゃがみこむ。

 また、それとは別に心のどこかでいつも自分が受けていることを、憎んでいることを他人にやってしまったという悲痛な感覚を抱いていた。


 そんな彩音とは対照的に、湊心は真っ先に孝太郎の元へ駆けよる。

 すぐさま孝太郎の口元に耳を当て、呼吸を確かめた。

 まるで人命救助のお手本のように心拍や気道確保を行い、孝太郎を呼び続ける。


「孝太郎!孝太郎聞こえる!」


「う、う」


「意識もある。呼吸もしてる。大丈夫や」


 湊心はしゃがみこんで動揺している彩音の背中をバシッっと叩き、しっかりしろと檄を飛ばした。


 明らかにふざけていても、常に冷静に対処しその判断に迷いはない。

 湊心のすごさと慕われる理由はそこにもあった。


 我に返った彩音は湊心と共に孝太郎の名前を必死に呼び続けた。



 だが、緊迫したこの状況下でわくわくと胸踊る不謹慎な人間が一人だけいた。

 千夏である。


 千夏は何度も落ち着けと自分に言い聞かし、深呼吸する。

 が、彩音のビンタに孝太郎が倒れたことが面白くて、どう頑張ってもにやにやが止まらない。


 とりあえず三人の元に駆け寄り孝太郎の顔を覗き混むが、笑うのを堪えてそれどころではなかった。


 孝太郎の意識が朦朧としているのをいいことに、千夏はちょっとした悪ふざけを思い付く。


「こーゆーときはあれだ。お姫様のキスでお目覚めだな!」


 千夏がぶちこんで来たメルヘンな展開に二人は固まったが、一瞬湊心の方が早く口を開いた。


「あー、それもありやな。よし!とりあえずハズいからお前ら向こう向いとけ」


「おいおい、湊心。なんでお前がやるんだよ!」


「は?こーゆーのは年長者の私の役目だろうが!」


「なんだよその言い分」


「考えてもみろ!孝太郎がキスで目覚めた時、相手が彩音か千夏やったらどう思う?」


「おねだりする?」


「ちゃうわ!そのあと微妙な関係になったら仕事がやりづれぇだろって話や!」


「なんで?」


 相変わらず話の通じない千夏に、湊心と彩音は目を合わせる。


「あ!千夏はヒヨコ掃除しなきゃ!ちりとりちりとり~」


 千夏は彩音を横目でちらっと確認し、にんまりしてその場を去った。


「で、彩音はどうなん?」


「へ?」


「キスすんのは私で問題ないやんな?」


『人工呼吸』すること自体が問題だと彩音は思ったに違いないが、湊心の中ではすでに『人工呼吸』は確定事項で、誰がするのかということが重要な問題だった。


「嫌です」


 珍しく彩音が自分の意見をぶつける。

 湊心にとっては、彩音のその行為が嬉しかった。


「そもそも人工呼吸する必要ないです。私が責任もって休憩室へ連れていきます」


 その時、孝太郎が絞り出すように声を発した。


「だ、大丈夫です、から」


「どっちがいい?孝太郎!」


「伊藤さん!大丈夫ですか!」


「だ、大丈夫です」


 孝太郎は体を起こし、起き上がろうと彩音の腕を掴む。

 意識はだいぶはっきりしているようで、湊心の質問を完全にスルーしていた。


「伊藤さん、一緒に休憩室で休みましょう!私が肩を貸します」


 孝太郎に対して必要以上に優しく接する彩音。

 確かに孝太郎が倒れた原因は彩音にあるが、それでも目に余るものがある、と湊心は疑念を感じていた。

 それがなんなのかはわからなかったが、特に何をいうわけでもなく孝太郎が立ち上がるのを手伝い、そのまま二人を見送った。


 ──あの二人、なんか怪しい


 ***


「先輩!!ごめんなさい!!!」


「いいって。ほんと大丈夫」


「ほんとですか?」


 休憩室の椅子に座った孝太郎は、すでに意識も回復し落ち着き払っている。

 孝太郎の隣に立って頭を深々と下げる彩音は、自責の念に押されていた。


「ほんとにほんと」


 彩音の口癖に被せるようにわざと『ほんと』と返す。


「よかったです!じゃあ、私は片付け手伝ってきますので先輩は少し休んでいてください。早く帰りましょう」


 彩音はそう言って孝太郎に背を向けた。

 その時だった。

 なにかが彩音の手首をがっちりと掴んだ。


「えっ!」


 振り返ると孝太郎がいつになく真剣な眼差しで見上げている。

 吸い込まれそうなその瞳に胸がざわめきだす。

 孝太郎は握った腕をグッと引き寄せ、彩音を引き戻した。


 彩音は引っ張られた反動でよろめき、孝太郎の足に躓いてそのまま彼に覆い被さる形で抱きついてしまう。


「ごめんなさい!」


「彩音」


 慌てて体を起こそうとするが、気持ちと頭が反比例し思うように動いてくれない。

 そうしている間に孝太郎の腕がするすると腰と背中に這ってきた。

 いきなり抱きしめられ頭が真っ白になる。


「彩音」


 孝太郎が自分の名前を呼ぶ度に、鼓動はますます速くなる。

 顔が熱なくなる。

 胸が苦しくなる。


「彩音、もう少しここにいてくれないか?」


「え、ど、どうしたんですか」


「強引な俺は、嫌か?」


「い、いきなりどうしたんですか?やっぱり頭打って……」


 孝太郎の顔が近い。

 急に積極的になった孝太郎に、どぎまぎして目のやり場に困る。


「ち、近いです。先輩」


 孝太郎はその反応を見てクスッと笑って返した。


「彩音、俺に触られるの……嫌?」


「嫌じゃないです、けど……」


「なら問題ないだろ」


 優しくそう言うと、孝太郎は彩音の頭に手を置きそっと撫でた。

 気持ちが騒いでどうしようもない彩音は孝太郎の肩に手を置き、ぎゅっと掴むと少し体を持ち上げた。


 彩音が孝太郎の顔を見下ろす。

 目と目が合い、言葉に出さなくてもお互いの気持ちが通じるような雰囲気に包まれながら、彩音の方からだんだんとその距離を詰め始めた。


 ──いいよね?そういう雰囲気だもんね?


 お互いの息が絡み合い、湿気た空気が鼻にかかる。

 雰囲気に身を任せそっと目を閉じた彩音の顔に、孝太郎がそっと手を添えた。

 お互いの鼻先が擦れ、彩音の体に緊張が走った。


 その時。



「彩音~♪孝太郎~♪」


 事務所から聞こえてくるその声に慌てて孝太郎から離れる彩音。


「お、ここにいたか。孝太郎、気分はどぉ?」


「大丈夫です。ご心配お掛けしました」


「なんともないならええねん。今、千夏がこっちに向かってるから早く帰ろうぜ」


「あ、私、千夏見てきます!」


 何を慌てているのか、彩音は顔を真っ赤にしながら一目散に走っていった。


「あいつの顔、真っ赤やん!どうかしたん?」


「いえ、早く帰りたいんだと思います」


 孝太郎もさすがにテンパったのか、検討違いな返事をしてしまった。


「孝太郎、ほんまになんともないん?顔が真っ赤で早く帰りたいて意味わからんねんけど」


 まだ意識が錯乱しているのかと、やりとりの不鮮明さを湊心が訝る。


「確かに変なことを言いましたね。顔が赤いのはよく見えませんでしたが、早く帰りたいと言ってました」


 とりあえず孝太郎は無難に返し、適当に相手をしてその場をしのごうとした。


「気がついたときは少しくらくらしましたが、今は大丈夫です」


「そう。じゃぁ」


 そういって湊心が孝太郎に近づく。

 そして孝太郎の頭を躊躇いもなく急に撫で始めた。


「私がもう一回くらくらさせてあげよっか?」


 なにかが違う。

 いつもの関西弁訛りの口調ではない。

 どこか甘えるような、弄ぶような豊潤な声色。

 妖艶な目付きにいやらしい手つき。


 と、湊心の右手が孝太郎の顎を掴もうと頬に触れた。

 とっさに顔を避け湊心の手から逃げる。

 湊心はその反応を面白がるかのように不敵な笑みを浮かべ、今度はがっちりと孝太郎の顎を掴んだ。

 そのまま顎をくいっと上に持ち上げ、体全体を孝太郎に預けるように顔を近づける。



「じっとして。早くしないと二人来ちゃうから」





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