第37話 「原因は私にある。全部、私が悪い」」

 込み上げてくる怒りを必死で抑えれば抑えるほど、彩音の瞳からは自然と涙が溢れだしてくる。

 顎の震えを抑えようと力むと、今度は肩が震え出した。

 そんな彩音をみて、湊心の顔つきが次第に変わっていく。


 ***


 ──『所詮、女は泣けばいい』


 彩音は決してそんな風には考えていないし、誰だって怒りのあまりに涙が出てくるのは仕方ない。

 しかし湊心には『泣く』意味が全然理解できなかった。

 怒りのあまり涙が出てくることは理解できても、それを我慢できないこと、堪えられないことが理解できない。


 湊心は『泣く女』に無性に腹が立つ。

 それは彼女の育った家庭環境が関係している。

 湊心の母親は気に入らないことがある度に夫に当たり散らし、湊心の父親はそれにじっと耐えていた。

 そして母親は気が収まると、いつも泣いて父親に謝った。

 その繰り返しの中で育った湊心は、母を憎み、母のように『泣く女』が気に障って仕方ない。


「泣けば許される?ふざけんな!私は絶対にそんな女にはならない」


 物心ついたときにはそう考えるようになっていた。


 また父親がじっと耐えていたのは、湊心の情操教育にとって逆効果だった。

 湊心に被害が及ばないようにとの思いから彼女の父親は我慢していたのだが、彼女の目にはそうは映らなかった。


「自分が犠牲になって黙って我慢してればいいなんて……自分は絶対にそんな大人にならない」


 そういった家庭環境で育った湊心は、独特の価値観と正義感を持った人間へと成長していった。


 これまで彩音も千夏も、他の従業員も湊心の熱のこもった指導に幾度となく泣かされ、その度に頭ごなしに怒られた。

 特に彩音はしょっちゅう悔し涙を浮かべ、その度によく怒られていた。

 だが、それでも高寿湊心のことを悪く言う者は不思議といない。

 それは彼女に歯向かうのが怖いからではなく、何かヘマをしたとしても結局彼女がおしりを拭いてくれたり影で庇ってくれているとみんな知っていたからだ。

 しかし、それを彼女に聞いてもとぼけるだけ。

 感謝や見返りを求めようともしない。

 それも彼女の魅力の一つだった。


 ***


「彩音。言いたいことはそれだけ?」


 そう言いながら湊心は次第に距離を詰める。

 目に見えないプレッシャーが彩音を押し潰すかのように襲いかかった。


「彩音さ、私になんか言いたいことあるやろ?」


「いえ……ありま、せん」


「そーやって毎回毎回泣きべそかきながら黙りこむんやめろや」


 押し黙り堪える彩音と納得行くまで気持ちをぶつけたい湊心。

 意見を言い合うにも、そもそも両者の口論のやり方が違う。

 湊心には何も言い返さない彩音がムカついて仕方ない。

 自分が我慢すればそれでいいと思っているその態度が心底気に入らない。


「彩音。はっきりさせへん?」


 湊心は彩音の前で腕を組み仁王立ちで対峙する。


「お互い意見もぶつけんとモヤモヤしてんの嫌やねん」


 それでも言い返すことなく、彩音は唇をぎゅっと噛みしめ涙を堪えながら湊心を見据えた。


「私は彩音がかわいいし守りたかった。けど、彩音は私を拒否してあの男と付き合うことに決めた。だから彩音は悪くない。私があの男と彩音を引き合わせたんやから原因は私にある。全部、私が悪い」


 湊心が凛とした顔で核心を突く。


「これ以上彩音が傷つくのをみたくない。さっさと別れろ」


 その簡単な一言が彩音の心に突き刺さった。

 ぶっきらぼうながら優しさのこもった一言に、なぜか涙が溢れてくる。

 彩音の受けているDVが全て自分のせいだと言う湊心を彩音は認めたくなかった。

 そんな湊心を見たくなかった。

 鼻をすすり、渾身の力で言葉を吐き出す。


「私は高寿さんのことを尊敬してます。頼りにもしてます。でも、仕事とプライベートは関係ないと思います」


「そのプライベートのせいで周りが迷惑してんねん!誰もアザだらけのおまえの顔なんか見たかねぇんだよ!」


「私だって!……私、だって……」


 彩音は震える拳を握りしめ必死に涙を我慢するが、涙のほうが勝手に頬を伝っていく。


 みんなが気をつかって言わないことを湊心は躊躇なく言ってくる。

 その言葉に怒りは沸かない。

 代わりに悔しさが沸いてくる。

 自分の惨めさを痛感させられる。


 彩音だってアザを隠して仕事に行きたいなど思っていない。

 でも、そうせざるおえない。

 そこを指摘されて彩音はなにも言えない。


「で?私だって……なに?」


 湊心の圧が重くのしかかり、もはや息ができない。

 何を言い返しても、全て自分の惨めさを肯定することになる。

 彩音は最後の気力を振り絞り、息を吸い込んだ。


 その時だった。



「彩音!湊心!」


 千夏の叫び声が浴場に響く。

 呼ばれた二人が振り返ると、二匹のヒヨコが飛んできた。


 ポテッ ポテッ


 彩音の華奢な体と湊心の豊満な体に当たって力尽きて落ちたヒヨコが、地面のタイルにポヨンと小さくバウンドする。


「彩音!悔しかったら投げて来い!千夏が全部受けてあげるから!湊心にも言い返せ!千夏が守ってあげるから!」


 千夏の叫び声が再び浴場に響きわたる。


「湊心!文句あんなら千夏に言え!彩音は関係ないだろ!もっと彩音の意思を尊重しろ!」


 彩音は展開に付いていけない顔をしていたが、湊心は何かを察し、とっさに落ちたヒヨコを拾いあげ投球モーションに入る。


「言われなくてもそうさせてもらうわ!」


 勢いよく湊心の手からヒヨコが投げ出される。


「彩音!お前も投げろ!」


「え、でも」


「いいから投げろ!」


 湊心はあわあわとする彩音の手にヒヨコを押し込むとそのまま千夏に見えない角度で彼女の胸ぐらを掴む。


「おい、千夏の想いを踏みにじんなや。あいつはあいつなりにうちらの間を取り持とうとしてくれてんのわからんのか?」


「来い、彩音!やんなきゃこっちから投げるぞ!」


 千夏は次々に彩音に向かってヒヨコを投げつけた。

 が、ヒヨコは何匹も湊心の背中に当たって落ちる。

 ヒヨコから彩音を守る湊心。

 千夏にはそう見てた。


「もー!いい加減にしろ!千夏!」


 彩音も手にしたヒヨコを思いっきり投げつけた。


 が、千夏に届く前に落ちる。


「しっかり投げろ!ひ弱か!」


 湊心は笑って腹を抱えながら、ヒヨコを投げ続ける。


「そんなこと言ったって!高寿さんみたいに剛腕じゃないんです」


「は?傲慢の間違いちゃう?」


「豪胆でも剛胆でも狂乱でも私はそんな高寿さんが好きだったんです!」


「その告白は称賛に値するけど、勝算のない恋愛はせーへん主義ねん」


 韻で会話する二人の間に、不思議な空気が流れる。



「こらーー!千夏のわかんない話するな!!」


 幾度となく千夏の叫び声が浴場に響き、その度に何匹ものヒヨコが水を撒き散らしながら飛び交った。


 ほんの一時だったが、三人の心が通った瞬間だった。

 頼りになる姉御肌の湊心。

 慌てん坊で泣き虫の彩音。

 人一倍気を使うお調子者の千夏。

 出会った時は毎日が楽しい日々だった。

 彩音が湊心の反対を押しきって、彼氏と付き合うまでは……。

 三人とも口には出さないが、こんな日が来るのを心のどこかで願っていたのかもしれない。






 ******




「とりあえずドライヤーで乾かしたら大丈夫や。なんとかなるやろ」


 湊心と千夏はびしょ濡れになったシャツを脱ぎ、硬く絞った。


 彩音も同じく出入口付近で脱ごうとシャツの裾を握る。

 が、その時。

 ちょうど引き戸が開き一人の男性が現れた。

 孝太郎である。

 男子側の作業が終わったと報告しに来たのだ。

 そうとは知らない彩音は脱ごうと腕をクロスさせシャツを持ち上げているので、ちょうど顔が隠れて周りが見えていない。

 孝太郎の目の前で、色っぽく体をくねらせながらシャツを脱ぎ、柔肌と渋目の黒ブラのコントラストを露出させている。

 その光景を見て、千夏はニタニタと笑みを浮かべ、湊心はしゃがみこんで笑いを堪えている。


「ちょっと、千夏!そんなまじまじ見ないでよ」


 脱ぎ終えた彩音は千夏に文句を言うが、ふと後ろから視線を感じ振り向くと、そこには孝太郎が唖然として立っていた。


「キャァーーーーッ!」


 バッチィーーン


 彩音の腰の入ったビンタが孝太郎の脳ミソを揺らした。

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