第32話 「先輩、話変えませんか?」
「そうそう思い出した。みんなやりたがらなくってさ、あのソロ。結局俺がじゃんけんで負けてやることになったんだった」
彩音の行きたがっていた店に到着した二人。
孝太郎はオーダーした商品が来る間、苦い過去を思い出しては、がくっと頭を垂れる。
そんな孝太郎を見て、彩音がにこにこと話しかける。
「『ヘルメスベルガー』の時の先輩もかっこよかったです」
「エルメス……なに?」
「『ヘルメスベルガー』」
「へ?」
「ヘルメ……違いましたっけ?」
「『ヘルメスベルガー二世』のこと?ヨハンの方の」
「……だと思います」
「それ、曲の名前じゃないよ。作曲家の名前だよ」
「あれ?『ヘルメスベルガー』って曲、ありませんでしたっけ?」
「わかんないけど、もはや『ヘルメスベルガー』って言いたいだけになってない?」
「ち、違いますよ」
「俺、『ヘルメスベルガー』の曲なんてやった記憶ないよ」
「先輩こそ、『ヘルメスベルガー』って言いたいだけでしょ」
記憶があっちこっちと結び付いてうろ覚えの作曲家の名前を連呼する。
そんな他愛ない冗談でさえ、今の二人には新鮮だった。
「あれです。最初眠くて、途中からバンバン太鼓たたいて不協和音でバギャァーーッてやって、最後にピリャハリャホリャハリャリャ♪みたいな連符のやつです」
「ごめん、さっぱりわからん」
和気あいあいと思い出話に花を咲かせる二人だが、再会してからこんな風に会話をするのはほとんど初めてのことだ。
故に二人とも普段とは比べ物にならないほど饒舌だった。
しかし、彩音の饒舌には別の意味があった。
いざ席に座りオーダーをしたあと、彼女は間違いを二つ犯したことに気付く。
そのテンパりと動揺を悟られまいと終始饒舌だったのだ。
まず真っ先に考えたのは『なぜ、もっと女子らしい店をチョイスしなかったのか』である。
客観的に見てこれはある種のデートであるし、本人も孝太郎にデートと言ってしまっている。
が、店に関しては孝太郎はなにも思ってないようなので特に問題ないのだろう。
彩音の気づいたもう一つの間違い。
『なぜあのメニューを選択したのか』
適度に冷房の聞いた店内のはずが、彩音一人だけじわっと汗をかいている。
そこへチャイナドレスを来たスタッフが現れた。
今さら取り消すことなどできない出来立ての商品を持ってくる。
孝太郎には『あんかけ天津飯』
彩音には……
『キムチラーメン(キムチ増量)』
眼前に置かれた『キムチラーメン(キムチ増量)』を見つめ再び思い悩む。
なぜ、このチョイスをしてしまったのか。
ただメニューの写真が美味しそうと思ってオーダーしたに過ぎないのだが、あえてここで選択すべき商品ではない。
「ラーメンは頼まない」と言ったのに頼んでしまった。
しかし、ラーメンはまぁなんとかなるが問題はキムチだ。
キムチで口臭が多少なりとも確実に臭くなる。
なのになんの口臭対策も持っていない。
食後、孝太郎と話す度に臭いと思われないか!
そんなこと気にしたらなにも話せない。
むしろ孝太郎に「彩音にとって俺はその程度の存在なのか……」と思われはしないだろうか。
頭の中を食欲と後悔がかけ合わさった葛藤というサラブレッドが嘶く。
ラーメンの上にこんもり彩られたキムチに視線を落としながら、自らのラーメン好きを自らに恨んだ。
おもむろにキムチの侵食を受けていない箇所から麺を引っ張り出す。
麺をすする音が……等、そんな悩みはキムチに比べればどうでもよかった。
キムチとの葛藤が続く。
しかし、あまりにもぎこちない食べ方に孝太郎が気がつくのも時間の問題だった。
孝太郎は最初、彩音はキムチを後から食べる派なのかな、と思っていた。
が、なにかおかしい。
レンゲで上手にキムチを避けながら麺を掬い上げている。
まるで麺がキムチと接触することを回避するかのようだった。
彩音のおかしな食べ方を観察し、何かに気づくと、おもむろにスタッフへ声を掛け、メニュー表を指差しなにかをオーダーする。
しばらくして、スタッフがオーダー商品を孝太郎の目の前に置いた。
『キムチの盛り合わせ』
孝太郎はそれを惜しげもなくガツガツ食べ始める。
その光景を唖然として見つめる彩音をよそに全部食べ終わると、口元を手で押さえながら、やってしまった、という顔で彩音を見た。
「あ、ごめん。俺の息、臭くなるかも」
そう言ってコップの水を飲み干す。
「彩音のキムチ見てたら無性に食べたくなっちゃって」
確信犯なのかうっかりなのかわからない孝太郎の声色と表情。
無邪気なその顔になんて返したら良いのかわからない。
「やめてくださいよー」が正解かもしれない。
「いえ、あ、私も……です」が正解かもしれない。
「私のキムチも食べますか?」か「私のキムチはあげませんよ」なのかもしれない。
何を言っても孝太郎は笑って微笑んでくれそうな気がする。
覚悟と答えを決めた勇者彩音は、ラーメンの上の鎮座する魔王キムチに向かって一思いに箸を刺す。
少し戸惑いもなく、口一杯に魔王キムチを頬張った。
「これで二人とも臭っちゃいますね」
彩音の出した答えはこれだった。
それをみて、孝太郎ははにかむ。
「ありがとう、彩音」
孝太郎はそれ以上、多くを語ることはなかった。
──先輩、ありがとうございます。
辛いはずのキムチがなぜか甘い。
口の中は辛いのに。
さっきと違う汗が出てるのに。
彩音はキムチと麺を上品に口に運ぶ。
おいしそうに。
うれしそうに。
「ところでさ、ビアガーデンやるんだって?桝屋さんが言ってた」
さっきまでの警戒した食べ方はどこへいったのか。
ラーメンを勢いよく啜る彩音に、孝太郎が問いかける。
「そうなんです!去年諸事情で断念したんですけど、今年は実現できそうなんです」
「毎年やってた訳じゃないの?」
「はい。これは私が立案して本社通った企画なんで絶対成功させたいんです。一週間しかやらないんですが。それでもやる意味はあるとおもうんです。しかも今年はホテル事業の方と交換研修なんです」
「交換研修?」
聞きなれない言葉に孝太郎は首をかしげる。
「あ、うちの会社って、この時期に畑違いの部署で人材の交換行うんです。そこで、新たなイノベーションと言うか発見というか。そういうことを期待してるみたいなんです。どんな人が来るかは先方と交渉次第ですけど。で、ホテル事業では毎年ビアガーデンやってるのでそのノウハウを持ってる方を希望しようと思ってます」
好物のラーメンを完食し、自らの企画について瞳を輝かせながら話す。
今までやったことがないからできないと何度もダメ出しを受け、それでも粘り強く企画を練り上げ、ようやく実現できるところまでこぎつけた。
自らの業績をあげる目的も確かにあるのだが、それを抜きにしても賛同してくれた方々のためになんとしても成功させたいのだ。
嬉しそうに熱弁する彩音からは本物の熱意や思いが伝わってくる。
孝太郎は何度も頷きながら話を聞いていた。
自分にもそんな時があったな、と。
「お!じゃあ先方とちゃんと交渉しないとな」
「はい!しかも幸運なことに、先方のホテル事業の担当が……」
そういった瞬間、さっきまでの饒舌は息を潜め急に口ごもる。
「担当が?」
「あ、いえ、なんでもないです。その、知らない方じゃないんで、言いやすいかなって。高寿さんて方なんです」
明らかに何か言いにくそうに顔を曇らせる。
孝太郎は敢えてそこを突く。
敢えてターゲットの心の中を探る。
そのために今日は来たのだから。
「で、その高寿さんてどんな人?」
さっきまでの饒舌とは反対に、すでに食べ終わったラーメンのスープをゆっくり箸で掻き回しながら何かを思案している。
その仕草からは、あまり話したくないという雰囲気が伝わってる。
「高寿さんはですね」
ゆっくりと言葉を選びながら、話し出す。
「まず、今はスパ&ホテルのホテルを任されてる方です。役職はシニアチーフ。シニアチーフってゆーのはチーフの上の役職です。ほんとはチーフの上はマネージャーなんですけど、ホテル事業は複雑らしくてマネージャーの下にシニアチーフがいるんです。ちなみに私はチーフです。三宅支配人が「英語だと意味がわからん」ってゆーので責任者ってことで通してますが、会社としては朝倉チーフです。あ、先輩も一度会ったことありますよ?」
孝太郎が聞きたいのはそういったことではない。
そうわかっていても、あからさまに話を反らしてしまう。
顔をあげ孝太郎と目を合わすと、その瞳に吸い込まれそうになった。
再びその目から逃げるように視線を外し、静かに話を続ける。
「で、高寿さんでしたね。ホテルに行く前はうちにおられたんです。私が配属されたときの上司です。と言っても、ほとんど千夏任せでしたけど。とにかく明るくて、口が悪くて、いつも何かヒップホップ調の鼻歌歌ってて、でもすごく正義感が強くて。上司として、女性として、人間として、すごく尊敬してました」
「……してました?今は?」
彩音の言葉に違和感を感じた孝太郎はすかさず聞き返す。
彩音はなにも答えず、ただ黙って賑やかな店内の様子に顔を向けていた。
悲しげな横顔が小さく呟く。
「先輩、話変えませんか?」
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