第26話 「ずっと好きだよ。千夏」

 午後七時を過ぎると、家族連れが徐々に増えてくる。

 夕方まで岩盤浴を楽しんだお客様が浴場へ向かうのと同時に、そこへ家族連れがやってくると、一気に浴場が活気づく。

 一階の浴場が活気に溢れると、反対に二階にある岩盤浴は徐々に落ち着きを取り戻す。


 孝太郎は彩音と別れたあと、一通りの清掃作業を終え事務所に戻った。

 彩音と千夏の指導のおかげか、一人でなんの問題なく作業をこなせるまでに成長し、七月からは千夏と共に岩盤浴関連を取り仕切ることが決まっていた。


 一足先に事務所に戻った彩音は、パソコンと睨み合って例のごとくガチャガチャとキーボードを叩いている。


 二人きりになった彩音と孝太郎。

 店内にいた時は周りの騒音で気にならなかったが、今となっては二人の間に言い様のない空気が流れていた。

 こういう場合、千夏がいればなんとかなるのかもしれないが、今日は大事な用事があると言って珍しく休んでいる。

 千夏が休みを希望するのは本当に珍しいことだった。


 千夏から与えられた課題をこなすため、孝太郎は足早に事務所から立ち去ろうとする。


「あの、先輩」


 彩音はドアノブに手をかけた孝太郎を呼び止める。


「はい」


 彩音の方へ向きを変え、足早に彼女のデスクへと向かう。

 孝太郎が横に立つと、彩音はもじもじし始め横に立った彼を上目遣いで見上げる。


「さっきの直海ちゃん。なんだったんでしょうね?」


「そうですね。僕にはさっぱり……」


 確かに孝太郎がことの流れを把握できていないのは事実である。

 そうは言いつつも、彩音の口調は少し浮かれているような印象を感じていた。

 今も仕事中に「伊藤」ではなく「先輩」と言って呼び止めたことに、なにか違和感を感じ始める。


「あ、あの。少し込み入ったこと聞いてもいいですか?」


「はい」


「先輩が答えにくいなら、その、別に答えなくてもいいんですけど」


「聞かせてください」


 部下ではなく一人の男性として孝太郎と接する彩音と、あくまでも上司として彩音と接する孝太郎。


「千夏と……」


 彩音がそう言いかけた時、孝太郎の体に気持ち悪い電気が走った。

 その『千夏』という固有名詞からはよくないことしか連想されないからだ。


「千夏とトイレに籠ってたのって……なんだったんですか?」


「へ?」


 予想外の質問に気の抜けた返事しかできない。

 彩音は、千夏と孝太郎が相次いで同じトイレから出てきたことがずっと気になっていたのだ。

 意味もなく、ただ気になっていたわけではない。

 孝太郎の後から出てきた千夏の服が異様に乱れていたことと、何より千夏の顔が今まで数回しか見たことのない『女』の顔だったからだ。


 彩音は熊のぬいぐるみを胸元でぎゅっと抱きしめる。

 頬を赤らめながら拗ねたように口を尖らせ、うつ向きながら何かもごもご喋っていた。


「千夏が言ったんです。直海ちゃんのことは私が変に意識してるだけだから気にすんなって。でも、千夏と先輩の間に何があったのかは、何度聞いても急に恥ずかしがってはぐらかすし」


 さらに熊のぬいぐるみはきつく抱きしめられ、苦しそうな顔で遠くを見ている。


「いや、待って。何にもないから」


「嘘つかないでください」


「彩音の誤解だって」


「ほんとですか?」


「ほんとに」


「……ほんとですか?」


 嫉妬ではないにしろ、相変わらず上目遣いの甘え口調に聞いてくる。

 自信がないときの彩音が無意識によくする行動だ。

 孝太郎も多少テンパったのか口調がタメ口になっていた。

 彩音はいきなり立ち上がり、孝太郎の顔を覗きこむ。

 その顔は恥ずかしさから真っ赤に染まり、その瞳は孝太郎を直視していたが、うっすらと潤んで輝いていた。


「ち、違うんです!私、先輩と千夏がそうゆう関係でもなんとも思ってませんから!応援してますから!」


「へ?」


「先輩と千夏って……その、一線越えたってゆーか……」


「……ないから!断じてないから!」


「え!でも。付き合って……」


「ないから!!」


 ──あいつ、その誤解は解いてないのか!!


 かくして、千夏がわざとやり残した『彩音の誤解を解く』という大仕事に、必死の思いで対処する孝太郎であった。



 後日談

 結局のところ、千夏が解いたのは直海への誤解だけらしく、そのことを孝太郎が問い詰めると「彩音の勘違いが面白そうだからほっといた」とのことだった。

 トイレの件以降、彩音には直海が「親友の千夏の彼氏に手を出す女子」として映っていたのだ。

 孝太郎にとっても直海にとっても甚だ迷惑な話だった。

 トイレで何があったかは、千夏に口止めされているため二人の間の秘密である。

 直海はというと、度々孝太郎を見かけては話し込んでいるが、以前のようにベタベタという感じではなく、ごく普通の会話という感じだった。

 彼女なりの次の恋でも見つけたのだろう。

 

 こうしてじめじめとした六月はようやく終わり、清々しい初夏の陽気を迎えるのだった。


 ******


 時を同じくして

 リゾート内の宿泊施設

『ホテル・デ・エディシャン』


「うっぷ……ん、オェーー」


 女子トイレの個室から聞こえる嘔吐に苦しむ女性のうめき。


「あかん、しんどい。吐き気止まらん」


 仕事中にも関わらず、二日酔いを理由にトイレの個室に籠る女性。


「頭くらくらするし最悪や」


「いるんですかー?高寿さーん」


「んーー」


 個室から呻き声が聞こえる。


「だから高寿さんは毎回飲み過ぎなんですって」


「したかなかったんよー。千夏おらんし、明美は先に帰るし。てか、まぢでしつこかったー、あの男」


「で、断れなくて飲みすぎたと?」


「私ってさ、意外とポーカーフェイス?ババ抜きで言ったらジョーカー?みたいな高カード?多分、男から光栄なほど声かけられやすいんよ、きっと」


「知りませんて。しかも二日酔いで最後の方、


「正解。車酔いじゃなくて二日酔い」


「四文字が三文字に減ってますよ。全然ダメじゃないですか。それより来週の研修の打ち合わせ、高寿さん覚えてます?」


「大丈夫。彩音にはもう連絡してあっから」


 ゆっくりと開くドア。

 勢いよく流れる水の調べと共に、うっすらと不敵な笑みを浮かべながら一人の女性が姿を現す。


「そんなことよりさ、彩音んとこにいい感じの男が一人いんのよね~」


 高寿と呼ばれるその女性は、肩を揺らし軽やかなビートを口ずさみながら女子トイレを後にした。


「とうとう来たなぁ~この時が~♪」



 ******



 時を同じくして

 とある腐女子の執事喫茶


 テーブルに肘をつきうなだれる女性。

 失恋の現実を受け入れられず、立ち直れない様子。

 隣に座る別の女性が、そのうなだれた女性を励ます。


「そろそろ立ち直りなって」


「無理だよ!」


「そりゃ、金品貢がされたとか、高価な物買わされたとか、まして結婚詐欺ってことでもないんだけど。もー忘れて新しい男探しなよ」


「だめだー。忘れられないのー。私の半分はあいつとの想い出でできてんのー」


「いい加減現実見なって!あの男はあんたが好意を示した途端、行方眩ましてどっか行っちゃったの!あんたはフラれたの!」


「違う!違うもん!私はフラれてなんかいない!私の『こーちゃんレーダー』は未だにピコンピコン鳴ってるの!」


 失恋女性はスマホを取り出し、撮り貯めた想い出の画像を眺める。

 そして、画面に映し出された愛しの男性に向かって愛情いっぱいにに呟く。


「どこにいたって心はつながってる。必ず見つけてあげるからね。


 ******


 時を同じくして

 とある大学の学生寮


「んんーっ」


 心地よい目覚めと共にぐーっと背伸びする女性。

 千夏である。

 白いシーツを手繰り寄せ、もう少し寝ようかなと目を擦る。


「おはよう、千夏」


 千夏に注がれる優しい声と愛しい眼差し。

 品のある白い幼い手が、そっと千夏の頬にそっと触れる。


「お誕生日おめでと。ちは」


 目を閉じ、消え細る声でむにゃむにゃと甘える千夏。

 幼い手が千夏の髪を撫で、そのまま彼女を温めるようにぐっと抱き寄せる。


「ありがとう。千夏」


 千夏は力を抜き、張りのある柔らかい胸にそっと身を預け、再び眠りについた。


 幼い彼女の囁きと胸の鼓動を子守唄に。


「ずっと好きだよ。千夏」

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