第24話 「……やっぱり気になりますか?千夏のこと」

 浴場への入り方は、まず脱衣場へ行くことからはじまる。

 脱衣場への行き方は、ロビーから見て突き当たりの『大浴場』の壁を目指す。

 やや登りのスロープを登りきった先にあるT字路の壁には『大浴場』と書かれており、左右に延びてた通路の先に『男湯』『女湯』の暖簾が掛かっている。

 その暖簾をくぐり少し行くと、更に九十度の曲がり角になっている。

 暖簾の手前からの奥を覗かれないためだ。

 曲がり角を曲がって奥に進むと脱衣場が見える。

 ちなみに、『男湯』と『女湯』では、若干内装が異なる。

 別段、男女を意識したものではないが、それぞれを楽しんでもらうため毎週日曜日の開店と共にそれぞれ入れ替わる。

 それ故、土曜の閉店後は意外と忙しくなる。

 実質的には暖簾を入れ替えれば終わりなのだが、この時忘れ物を見逃すと大惨事になる。

『女湯→男湯』ならば仮に女子の下着等の忘れ物があっても、大概穏便に済まされる。

 落とし物として届けられるか、変態さんが持って帰って終るのだ。

 変態さんが持って帰った場合は、犯人が捕まらない限り、忘れ物があったことすら誰も気づかない。

 しかし『男湯→女湯』の場合は厄介だ。

 小汚ないおっさんのパンツなどあった場合は、女子の悲鳴が響き渡り、その度に彩音が謝罪する羽目になる。

 しかし『男湯→女湯』が厄介なのは忘れ物だけではない。

 盗聴器や盗撮カメラの仕込みなどに気を配って点検しなければならないのだ。

 確信犯や愉快犯がいないとも限らない。

 こんなものが発見されたなら、彩音一人の対応ではどうしようもできない。

 ごく稀に『女湯→男湯』を知らず『男湯』でカメラが発見されることもある。

 間違ったのか、敢えての『男湯盗撮』なのか……

 こんな時代なので『男湯盗撮』があっても不思議ではないが、これが後に発見され彩音と孝太郎の関係を絶望的なものとする『男湯の怪談』と呼ばれる事件が起こるのはまだまだ先の話である……



 ******



 仕方なく一人で集合場所に向かう彩音。

 女子脱衣場の出入口からの通路を曲がり角に差し掛かった時だった。


 ドンッ


「んうごっっぱっ」


「きゃ!あ!あ、だ、大丈夫ですか!お客様」


 心ここに在らず、というような様だったのか。

 彩音は直角に曲がった通路で出合い頭に女性客とぶつかってしまったのだ。


「いってぇーっ!どこに目ぇつけとんねん!」


「申し訳ありません!」


 しかし、女性客は謝る彩音の顔を見るなり急に態度を変えた。


「いえいえ、大丈夫っす。こっちもちゃんと前見てなかったんで」


 急に低姿勢になった女性客にきょとんとする彩音だったが、その女性客の顔を見て、瞬時に驚嘆の顔になった。


「あ!もしかして、私先日もお客様にご迷惑お掛けしていませんか!」


 ──やっべぇ!なんでよりによって覚えてんだよ!こうなったら話合わすしかないか……


「あ!あのときの!」


「先日は本当にすいませんでした。お怪我等ありませんでしたでしょうか?」


「いやいや、大丈夫。大丈夫っす」


「それならよかったです」


「じゃぁ、ちょっとそこを……脱衣場に行きたいっす……」


「あ、これは失礼しました」


「いえいえ、ではでは~」


「はい、ごゆっくりとお過ごしくださいませ。申し訳ありませんでした」


 ──焦った&やっちまった!絶対顔バレして覚えられてるし!!孝太郎君に怒られる!!


「ぐへっ」


 謎の発声と共に女性客、つまり鴻野山莉歌は通路の隅っこで崩れ落ちた。


 ******


『満腹亭班』と合流した彩音。


「あれ?桝屋さんは?」


「トイレも探しに行くって」


 簡単な捜索報告をする孝太郎と彩音。

 そんな二人を見て直海は孝太郎の横で不満そうな顔をしている。


 必死で探す千夏以外のメンバー。

 母親の記憶を頼りに、最後に鍵を目撃した箇所を中心に必死に探したが見当たらない。


 だが、しかし。

 事態は急に動いた。

 どこを探してもないので、保護者が子供に本当に知らないのか問い詰めるとズボンのポケットに入っていたという『灯台もと暗し』なオチ。

 まさかの千夏の『勘』が当たっていたのだ。

 早く帰りたいので鍵を母親に渡そうと鞄から抜き取ったら母親に怒られたので、そのまま意地悪しようとズボンのポケットに入れた。

 それを忘れていたようだ。


 ***


「直海ちゃん。もう帰らないと。ちゃんとタイムカード打刻してから帰って」


 彩音はさっさと帰れと言わんばかりに指示を出した。

 直海としては、もう少し孝太郎の側に居たかったが仕方ない。

『満腹亭班』で二人になれたが結局別行動で何も話すことはできず、それが原因なのか、集合した時からどこか納得いかず拗ねた様子だった。


「はーい」


 何かしら踏ん切りがついたような直海の素直な返事。

 彩音の指示に文句を言うことなく従い、帰宅のため事務所へ向かう。


 彩音と孝太郎は、母親とその子供を見送り、自分達も帰ろうかと事務所へ歩き出した。


「先輩……じゃないですね。伊藤さん、お疲れさまでした!えと、今日の残業ありがとうございました!」


「かまいませんよ。大事なお客様です。それより桝屋さん、まだトイレ探してるんですか?」


「いえ、千夏のことなんできっとサボってます。だって、トイレ探しに行くって言ったのに、全然違う方向に行きましたから……」


「そ、そうなんですね……。まぁ、桝屋さんはもうあがってましたし、桝屋さんらしいと言えば桝屋さんらしいですね。なんだかんだ言ってもちゃんと助けてくれますし」


「千夏にもお礼言わないと」


「桝屋さんて、なんだかんだで人を振り回してそれを面白がってますけど、やっぱりいなきゃ場が締まらないって言いますか……。朝倉はよく桝屋さんに振り回されてますもんね」


 孝太郎は冗談のつもりで言ったのだが、彩音は何故かそっぽを向く。


「……気になりますか?千夏のこと」


 含みを持たせた彩音の言葉が孝太郎の耳に引っかかる。


「んー、桝屋さんて、一緒にいて楽しいですよね。何が起こるかわからないって言うか。そうゆう意味では気になります」


「……」


 彩音は、なにも返さず口を閉ざす。


 ──一緒にいて、楽しいって……やっぱり先輩と千夏は……


 あと数歩で事務所というところで、急に立ち止まる。

 孝太郎もつられて立ち止まる。


「あ、あの、先輩」


「はい」


 呼ぶだけ呼んでおいて、話が続かない。

 しかし、仕事モードの彩音に「伊藤さん」ではなく「先輩」と呼ばれたことに、孝太郎は内心びっくりしていた。


「朝倉さん、どうかしました?」


「いえ、あの……」


 明らかに何かを伝えたい雰囲気はあったが、わざと目線をそらし口ごもる。

 孝太郎はわざと「彩音」ではなく「朝倉さん」と他人行儀に返した。


「……彩音ちゃん」


 久方ぶりに呼ばれたその名前は、懐かしい響きがした。


「彩音ちゃん、どーかした?」


 気遣うような、温かく懐かしいその声に、彩音はぎゅっと拳を握りしめる。

 大きく息を吸い、詰まった言葉を精一杯吐き出す。


「あの!一つお願いしてもいいですか?お願いってゆーか、その……」


 ──ちゃんと言わなきゃ!


「今日のこともありますし、先月、風邪でお世話になったのもありますし。きちっとお礼がしたいんです」


「いーよ、そんなの。気持ちだけ受け取っとくよ」


「ダメです!ちゃんとお礼しないと!」


「いーよ、ほんとに。そんな大したことしてないし」


 孝太郎は、にこっと微笑んで歩き出すが、後ろから服をくいっと引っ張られ止められてしまう。


「じゃあどんなお礼?」


 普段見せない彩音の対応に、孝太郎はを感じていた。


「……いや、なんていうか、その」


 意を決したように顔をあげ、大きく息を吸い込む。


 ──ちゃんと言うんだ!


「あの!わ、わ、私と、お出かけしてください!!」


「はい!?(いや、それってお礼か?)」



 ******


「お疲れ、直海」


 直海が休憩室に戻ると、そこには千夏がいた。

 彩音と孝太郎は必死で探していたというのに、何故か帰る準備万端の千夏。

 直海の姿を確認すると、椅子から立ち上がり待ちくたびれたかのようにぐーっと背伸びをする。


「直海。直海に言わなきゃいけないことがある」


 千夏は直海の前に立ち、目線を合わせるように中腰の体勢になった。


「あのね直海。直海がしてるのはさ、一目惚れじゃないよ。一目惚れをした気になってるだけってゆーか、そーゆー気分に浸りたいだけ。好きになるって、もっともっと尊いことなんだよ。そんな薄っぺらいもんじゃない」


 そう言いながら千夏は直海の頭を優しく撫でる。


「あんたは誰かを好きにならなきゃいけないって勝手に思ってるだけ。無理して彼氏なんて作る必要ないの」


 それだけ言うとポンっと直海の頭を優しく叩き、通用口をすり抜けるように出ていく。


「お疲れー!またねー」


 相変わらず元気な声が遠くから聞こえる。


「……うざい」


 一人残された直海。

 静まった休憩室に、時計の針がチクタクと単調なメロディを奏でる。


「……そんなの、言われなくたってわかってるよ」


 直海がぼそっと愚痴を漏らす。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る