第9話 「ちゃんと寝つくまで居てくれますか?」
彩音をタクシーに乗せ、自身も彩音の帰宅に付き添う男性がいる。
孝太郎である。
彩音の早退確定後、営業上必要な事項はその女性の指示で着々と問題なく進行していく。
午前シフトで帰宅前の孝太郎が「側にいたから」と言う理由で彩音を家まで送るように命じられたのだが、彩音が帰宅先に指定したのは同棲中の方ではなく彩音が一人で借りているというアパートだった。
「彼がね、その、たまに一人になりたいときがあるらしくて。嫌なことあって機嫌が悪いときとか……だから家に居づらいとき用にここを借りたんです。寝て、起きて。あ、ちゃんとシャワーも出るんですよ」
彩音はすっかり落ち着きを取り戻し、時折安堵の笑みを浮かべるようになっていた。
二人を乗せたタクシーは彩音の案内で指定された場所にたどり着く。
着いた場所は見た目からしておおよそ若い女性が一人で住むようなところでは無い、古いハイツだった。
孝太郎に肩を貸りながら、狭い階段をゆっくりと昇る。
孝太郎としては彩音が家に入るのを見届け帰るつもりだったが、彩音に促されるがまま部屋に入った。
その部屋の光景に孝太郎は驚く。
想像とは全く別世界が広がっていた。
ほんとに必要以上の物以外なにもない仮住まいの部屋。
テレビも冷蔵庫もなく「ただ寝て起きる」だけの部屋だった。
「これでもちゃんと生活してるんですよ?掃除もしてますから」
きれいに敷かれた布団の上に彩音を寝かせると、孝太郎もその横に座った。
「なにかしてほしいことは?」
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫じゃないだろ」
「寝たら治ります」
「ちゃんと病院いけよ!」
「うぅ、ごめんなさい」
彩音のことを思い、ついムキになってしまったが、怯えた彩音と彼女のアザを見ると、それ以上なにも言えなかった。
「心配だし寝るまでここいるから」
「え!そんな、悪いです」
「いいから、寝ろ」
「でも、着替えたいので……」
「あ、ごめん」
「あ、いえ、こちらこそ……その……送っていただいてありがとうございました」
「ごめん……帰るわ。なにも言うな。寝てろ」
そう言って孝太郎は立ち上がり、部屋を見渡した。
そして確信する。
ここは仮住まいで借りたんじゃない。
ここは彩音にとって避難所なんだ、と。
******
孝太郎が帰ったのを雰囲気で察知すると、よたよたと布団から這い出し、お気に入りのパジャマに着替える。
再び入った布団の中でさっきまで孝太郎がそばにいたことを思い出すと、なぜか胸が温かくなった。
───先輩が彼氏だったらなぁ……
そしてしばらく後、彩音は睡魔に身を任せた。
******
どれくらいの時間が経っただろうか。
微かに聞こえる物音で目覚めると、ぼんやりとした意識の中でなにかの恐怖を察知し、悲鳴と共に布団から飛び出した。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
狭い炊事場に孝太郎の姿が見える。
机にコンビニの袋が置いてあるので、どうやら一度買い出しに行って戻ってきたようだった。
「もうすぐできるし、そこ座ってて」
もはや二人の頭から上司と部下の概念は消え去り、代わりにかつての気さくで優しい先輩とその先輩に甘える可愛らしい後輩の姿がそこにはあった。
───先輩が彼氏だったらなぁ……
気がつけばお互いすっかり当時の口調に戻っていた。
孝太郎の手料理が彩音の前に並ぶ。
明らかにコンビニで買った即席なものを創意工夫で調えたものであったが、今の彩音には十分すぎた。
しかし彼女の目線は孝太郎の手料理より隅に置かれたエクレアに注がれる。
それを察知した孝太郎はおもむろにエクレアを手に取り袋から取り出すと彩音の口元に持っていった。
「ほら、口あけて」
「え!自分で食べれますから」
「病人だろ?」
「いや、その、骨折って箸持てないとかじゃないですし、なんてゆーか」
「ハズイの?」
「ひぇ!そ、そんな」
「俺と彩音ちゃんの仲だろ?」
「……はぃ」
もじもじとなにか考え事をしてるようで中々口を開けようとしない。
「ほら、口あけて」
孝太郎が少しムスッとする。
「先輩、もし骨折ったとかなら、同じことしてくれるんですか?」
少し強い口調で孝太郎に投げ掛ける。
「するから。口開けて」
「ほんとに?ほんとですか?」
自身の身に降り注ぐかもしれない災難を予見したかのような彩音の発言を孝太郎は敢えて聞き流した。
「喋らない。口あける。じっとする。できるだろ?」
「あーーー」
恥ずかしさから視線を完全に外す。
口に押し込まれたエクレアは、普段から食べているなんの変哲もないエクレアだったが、今日は一段と甘く美味しく感じられた。
少し寝たのもあって彩音の体調はだいぶ落ち着いていた。
しかしもう夜も遅かったので、彩音は孝太郎に明日の休みに病院いくと約束すると、さらに彼氏に「風邪移すといけないから今日は帰らない」と連絡を入れた。
それを見届けた孝太郎は、部屋の電気を消す。
真っ暗な部屋で男女が二人きり。
こんなシチュエーションで寝れるわけがなかった。
なるべく意識しないようにと布団を顔までかぶり寝よう寝ようとするが、余計に目が覚めてしまう。
───むりーー!寝るとかむりー!
そう思った瞬間、温かいなにかが自分の頭に優しく触れた。
孝太郎の手が優しく頭を撫でている。
「なんも考えんと寝ろ」
孝太郎のぶっきらぼうなその言葉に、彩音の心は溶けていく。
顔まで被っていた布団からひょっこりと鼻あたりまで顔を出す。
孝太郎がいるのを確認すると、いつもの甘えた声で弱々しく話しかけた。
「先輩、私が寝つくまでここに居てもらってもいいですか?」
「うん」
「ちゃんと寝つくまで居てくれますか?」
「うん」
「ほんとに居てくれますか?」
「はやく寝ろって」
「一応私、先輩の上司なんですけど?」
「……」
少し困った顔の孝太郎を見て、ドクンと一つ大きな鼓動が胸に響き、次第にそのリズムは速くなっていく。
「ふふ。おやすみなさい」
「おやすみ」
恥ずかしい気持ちがいっぱいで、再び布団を顔までかぶる。
が、最後の孝太郎とのやりとりを思い出しては寝つくまでニヤけっぱなしだった。
******
すやすやと彩音の寝息が聞こえる。
孝太郎は帰宅する為、静かに立ち上がろうとしたができなかった。
彩音が彼の服の裾を握ったまま寝てることに気づいたからだ。
彩音のその行為はまるで、孝太郎に恋をしているかのようだった。
布団からちょこんと飛び出した彩音の手とその仕草を静かに見つめる。
「……しかたないか」
その手を優しく握りしめ、孝太郎も眠りについた。
******
翌朝
チュンチュンという可愛らしいBGMと容赦ない朝の日差しがカーテンの隙間から差し込む。
ふと目が覚めた孝太郎はそっと彩音の様子をうかがうが、その気持ち良さそうな寝顔に頬が弛む。
「……これも、仕事のうち……か……」
瞼をこすりながらポツリと愚痴をもらし、再び眠りについた。
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