風邪の彩音にDV疑惑!?
第8話 「早くしないとこの子死んじゃうよ」
平日の朝から賑わいをみせる店内。
床掃除にトイレ掃除。
かつての後輩に認めてもらうため、ひたすら清掃活動に励む青年がいる。
孝太郎である。
大袈裟なタイピングでパソコンとにらめっこしては防犯カメラをチラチラ確認し適時内線で指示を出す女性がいる。
彩音である。
今日の『エディシャン』は、ことのほか静かであった。
普段よりも客数が少ないわけではない。
千夏が休みだからである。
そして普段と違う点がもうひとつ。
彩音が風邪である。
******
クッシュンッ!
「朝倉さん、大丈夫?今日は早退したら?」
「いえ、大丈夫です」
クッシュンッ!
「朝倉さん、次の企画なんですけど」
「ごめんなさい、ちょっと頭ぼーっとしてて。今度聞きますね」
クシュンッ!
「朝倉さん、先週の苦情のお客様ですが」
「さっき連絡して解決しました。報告書は今日書けそうにないので後日に」
休みたいけど休めない。
それが彩音の現状だった。
女子トイレの洗面台の鏡に映った自分の顔を見る。
「しんどっ」とボソッと一言、心の声が漏れる。
マスクの跡がくっきりと鼻の上についていた。
鏡を見ながら口元を少し気にしながら触り、決して長くはない前髪でおでこを隠してマスクをつけなおす。
再び事務所へ向かおうとするが、その足元はよろめき壁にもたれながら進むのでやっとだった。
「朝倉さん、大丈夫ですか!」
いい加減聞き飽きたその問いかけにイラッとするが、振り返った先から孝太郎が心配そうに駆け寄ってきた。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ」
そう言って孝太郎は彩音を優しく抱き寄せながら、休憩室へ連れていった。
椅子にちょこんと鎮座させられた彩音。
その姿は、まるで等身大のフランス人形が現れたかのようで、病弱なマスク姿がさらに可愛さを増幅させていた。
千夏と似たような体型だが千夏と違い、彩音はかわいいか美人かと言われると前者だ。
品のよい顔立ちとくりったした目にぱっちり二重。
毛先に少しパーマのかかった黒髪が彼女の魅力をより強固なものとしていた。
仕事中は口紅しかしていないが、それでもその可愛らしさに男性客数人がすれ違い際に振り向くほどだ。
明美からも「有村架純の上位種」と言われたことがあるが、そもそも彩音は上位種がどうゆう意味の単語なのかわかっていない。
そんな可愛らしい女性が火照り、苦しげな息づかいで弱っている。
孝太郎が男として介抱したくなるのは当然のように思われた。
「早退して医者行った方がいいって。俺今日午前中だけだし、付き添うから」
「大丈夫です。ほんとに大丈夫だから」
赤いシュシュを外されたポニーテールだった黒髪は、纏まりを無くし両肩にのしかかっていた。
「熱は?測った?」
「いえ。まだ……」
「あそこに置いてあったよね?体温計」
孝太郎が休憩室にあった体温計を彩音に差し出すと、素直にそれを腋へ挟む。
孝太郎は差し出したその手で彩音の体温を感じようと、おでこに触ろうとした。
その時だった。
「やめて!」
孝太郎の指先が彼女のおでこに触れた瞬間、怯えるようにびくっと体を震わせ、反射的にその手を払いのけた。
「あ、朝倉さん、ごめん」
「いえ、すいません」
「ちょっと触っていい?」
「え?」
「おでこの熱を……ごめん。ちゃんと言えばよかった。ごめん」
「どうぞ」
そう言って孝太郎は恐る恐るおでこの髪をかき分ける。
前髪の奥から小さな青アザが見えた。
「怪我?」
「ち、違うんです。これは、その……」
青アザに気づかれたのを知るや、急にあたふたしだした。
「昨日、くらくらってして転んじゃって……そ、その時に……」
「頭打ったのか!」
「大丈夫!大丈夫だから」
いつになく声を荒らげる彩音の瞳は、心なしか潤んでいた。
ピピッピピッ
体温計が測量完了を知らせると、腋からすっと取り出し孝太郎に渡す。
同時に素早く前髪を整え、おでこのアザを見えないように隠した。
「三十九度……」
ゴンッ
無機質な衝撃音が辺りに響く。
彩音は体温を読み上げられるより先に鎮座したまま机に倒れこみ、勢いよく頭を打った。
予想以上の高温にショックで気が抜けたのだ。
その音にびっくりして駆けつけた他の従業員が「明美さんに連絡しないと」とどこかへ連絡しだした。
孝太郎は彩音に寄り添う形でしゃがみこみ、彼女を励まし続ける。
******
「朝倉チーフは?」
しばらくした後、一人の女性が事務所に入ってきた。
その足音とその声を聞くや否や、とっさに顔を見られまいと机に倒れたまま下を向いて顔を隠す。
しかしその女性は彩音のそばに立つと、苦しがる彼女の両肩を持ち上げ無理矢理体を起こしあげた。
そのまま彩音の顎をぐいっと強引に持ち上げ自分の方へ向ける。
彩音のおでこの青アザが露になり、その瞳には涙が浮かんでいた。
その女性はお構い無しに別の手で彩音のマスクを無造作におろす。
彩音の口元を見て、孝太郎は驚いた。
彩音の口唇にはおでこと同じ青アザが出来ていて、少し切れているのがはっきりわかる。
「昨日こけちゃって……それで……」
震えながら必死で訴える彩音にその女性は明らかに不服そうな顔をし、冷たく言い放った。
「またやられたの?ほんと学習しないわね」
おでこと口唇のアザ。
その女性には彩音の転んだと言う嘘が通じなかった。
転けてできた傷か、誰かに殴られてできた傷か、誰が見てもその傷は後者で間違い。
転んだという彩音の嘘を信じていた孝太郎はショックを隠せず、胸の奥にムカムカとする何かが、彩音ではない誰かに対して沸き上がって来るのを感じていた。
その女性はしばらく彩音を冷酷に見下した後、ため息をつく。
「今日はもう帰りなさい。あとは私がするから」
今にも泣き出しそうな顔で必死に涙を堪えているが、堪えれば堪えるほど、肩は震え嗚咽が漏れる。
溢れだした涙が一筋、頬を伝い流れ落ちた。
するとその女性はこぼれた涙をそっと拭き取り、優しく彩音の頭を撫でる。
さっきまでの態度とは一変し「大丈夫」と小さく囁くと、彩音を守るように彼女をぎゅっと抱擁した。
孝太郎の目には、必死で泣くまいとする我が子を優しく包み込む母親のように映る。
しかし、彩音から離れると再び怪訝そうな表情に戻った。
「千夏はなにやってるの?早くしないとこの子死んじゃうよ」
その一言だけ残して、その女性は休憩室から出ていった。
───泣いちゃいけない。私!泣くな!
無言でうつむいたままの彩音。
マスクをおろされ露になった下唇をぎゅっと噛みしめ、潤んだ瞳からは数滴の涙がこぼれ落ちていた。
止まることのない涙。
静まった部屋に胸を裂くような彩音の嗚咽が響く。
今の自分と、今の環境を作ってしまった自分。
その環境から逃げ出すことができない自分。
その自分を否定できず肯定してしまっている自分。
そういった自分自身への怒りと悔しさが彩音の心を苦しめていた。
彩音がなにかに苦しみ悶えている間、孝太郎が彼女のそばを離れることは一切なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます