第7話 「彩音ー。今日のパンツ何色?」

 千夏に手を握られていたことに気づき、胸の高鳴りを意識して硬直している男性がいる。

 孝太郎である。

 無表情のまま、目線だけ出勤してきた彩音の背中を追う女性がいる。

 千夏である。


「彩音ー」


 いつものように慌てている彩音に千夏がちょっかいをかける。

 さっきまでの艶かしい大人の女性の声とはまるっきり違う、いつもの明るい千夏の声だった。


「彩音ー。今日のパンツ何色?」


「え?いつも黒だけど?」


「じゃなくてさ。下着だよ、下着」


「そっちも黒。今日はTじゃなくて……って、ちょ!千夏!!うわぁーもーああーー!時間ないのに!!」


 時間がないのはいつもギリギリに来る彩音本人のせいである。


 ガタガタッゴゴッ


 せわしなくロッカーを開けては閉め、開けては閉めが繰り返される。

 そんなやかましいBGMとガールズトークをよそに孝太郎はじっと時計を睨み、早く仕事の時間にならないかと、それしか考えてなかった。

 よくよく考えると、研修はほとんど千夏の元で進められると昨日教えられたことを思い出す。

 孝太郎には千夏の行動が理解できなかったし、この先のことを考えると警戒心や恐怖心が芽生えた。

 考えれば考えるほど心臓の鼓動が彼の中で高らかに鳴り響き、彩音の演奏するロッカーのガタガタとが彼の鼓膜で共鳴する。

 それ故に、隣にいる千夏にしきりに呼び掛けられていることになかなか気づかなかった。


「ねえ孝太郎。聞こえてる?」


「なんですか?」


 ふいに我に帰り、千夏を警戒するように身をずらす。


「もー。なにぼーっとしてんの?彩音はいつもあーだから」


 と、千夏は自慢げな顔でニヤリと笑みを浮かべていた。

 千夏はさっきよりもさらに孝太郎と距離を詰め、体を密着させる。

 ひそひそ話をする様に孝太郎の耳元に両手を添え、吐息混じりに囁く。


「もしさ、彩音が黒じゃなくて赤ならどーする?」


「へ?黒って言ってましたよ」


 千夏は体を密着させたまま耳元から両手を離さない。


「もしさ、赤っぽいものつけてたら……」


「へ?」


「それって孝太郎に気があるってことだよね?」


「まさか」


 そんなことないでしょと言いたげに笑うのを見て、再び千夏はニヤリとする。


「言ってたの、あのヤブがさ。『ただ赤いものを持つだけではダメです。その相手に見えるよう身に付けないと』って。じゃあ赤いブラとパンツ履いててもそいつが目の前にいなかったらどーすんだよって思わない?」


 千夏がそう言い終わるや否や、彩音が髪を結いながら出てきた。

 とっさに離れる二人だったが、同時に二人の視線は彩音の片手に注がれる。

 トレードマークのポニーテールを作らんとする彩音の片手には、明らかに新品のシュシュが握られていた。

 それもこれ以上ないほど真っ赤という色を主張する真っ赤なシュシュ。

 その真っ赤なシュシュを凝視する二人の訝しげな視線に彩音が気づいた。


「ん?せんぱ……伊藤さん、どうかしました?」


「あ、いや、なんでも」


 そう言って千夏の方へ向き直った孝太郎だったが、彼女は口を半開きにぽかんと開けていた。


「なに、千夏。どーしたの?」


「……うん。彩音は今日もかわいいね」


 ニンマリとして彩音の可愛さを褒め称える。

 千夏は「ンンッ」と咳払いをし、わざとらしく真っ赤なシュシュから視線をそらした。

 その咳払いは孝太郎に向けてされたものだったが、その仕草に彩音は何かを察する。

 彩音の頬がみるみるうちに赤くなっていき、勢いよく千夏のところへ駆け寄ると、彼女の腕をぐいっと引っ張った。


「待って待って!こけるって」


 強引に引っ張られたので、千夏は椅子から転げ落ちそうになる。

 が、そのまま彩音にロッカーへと連れていかれた。


 僅かに女子のひそひそ声が聞こえる。

 耳を済ませばはっきり聞こえそうなものだったが、孝太郎は聞き耳をたてるようなことはしなかった。


「(千夏!ちょっと!なに!)」


「(なにが!)」


「(先輩の目線が気になるの!)」


「(へ?)」


「(なんか言った?ねぇ!なんか先輩に言った?)」


「(なんも言ってないって。彩音の気のせいだって)」


「(ほんとに?)」


「(いつもこの時間は千夏らだけだしさ。いつもと雰囲気違うから気になるだけだって)」


「(そっか。ならいいけど……)」


 それでも何か不満があるのか、下を向いてぶつぶつ呟く。


「(ほんとに?)」


 すこし目を潤ませながら甘えた声で聞いてくる彩音の姿が、千夏にはかわいくて堪らない。


「(ほんとだって)」


 ───ほんとだって。かわいいよ。


 結局、彩音が気になったのは孝太郎の視線だけであり、孝太郎が昨夜の占い師のことを知ってるとは露とも思っていなかった。

 千夏は彩音を落ち着かせながらも、心の中では大爆笑している。

 笑いを堪えて肩が震えているのを彩音に悟られないように必死だった。


 千夏と彩音は仲良くロッカールームから出てくる。


「そーだ、孝太郎。彩音と孝太郎が知り合いっての、千夏知ってるから」


「そうなんです。昨日言っちゃいました。……ダメでしたか?」


 彩音はこういう時、困ったときや心配なとき、決まって甘えた声になる。

 彩音にとっては無意識なことだが、甘えた声のかつての後輩に孝太郎は首を横に振るだけだった。


「彩音、そろそろ行くよ」


 千夏が歩きだし、その横を彩音が陣取る。


「そー言えばさ、明美ちゃんが千夏に用事あるって言ってたよ」


「明美が?」


「そーそー。1週間ぐらい前かな?ごめん、忘れてた」


 胸元でごめんと手を合わせ、首を傾けてニコッと笑った。


「明美って、あのくっそばばぁが?」


「ちょっと!そんな風に言っちゃダメ!」


 ふと彩音が立ち止まり、上半身だけで振り返る。


「あ、先輩」


 赤いシュシュを見せつけるかのように、振り向き様にポニーテールがフワリと宙を舞う。

 完全に振り返るわけではなく、赤いシュシュが孝太郎の視野に入っているのを確認しつつ、横目でちらっと孝太郎を見た。


「昨日連絡してないですよね!みんな心配してたんですから!」


「ごめんごめん。家帰ったらそのまま寝ちゃってさ。ほら、朝も早かったし」


「それならしかたないですね。気を付けてくださいよ」


「おぅ。彩音の逆鱗に触れぬように気ぃつけるわ」


「そっちじゃないですって。とにかく今日からはびしばし鍛えていきますから。覚悟してください」


「はい。彩音ちゃん」


「そこまでです、伊藤さん。そろそろ仕事です」


「よし、今日も1日がんばるぞー!おー!」


 千夏がそう言って片手を天につき立てる。

 彩音も一緒に片手を突き立て、二人仲良く事務所へと歩みだした。

 そのあとを孝太郎がついて行く。

 ボソッと吐息混じりに皮肉を言いながら。


「()」


「ん?孝太郎、なんか言った?」


「いえいえ。今日も一日お願いします。朝倉先輩、桝屋先輩」

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