第5話 「……味噌ラーメン?」
先程まで、彩音の怒号が響き渡っていた店内。
静まり返ったその場所に、孝太郎はかつての部活の後輩に叱責され、過呼吸気味に倒れこんでいた。
そんな倒れ込んだ孝太郎を見て、千夏は一気に青ざめる。
「今、何が起こってるんだ……」
千夏は一瞬混乱したが、彼女のポジティブな性格が彼女を奮い立たせる。
悲壮な状況は、彼女の中で未体験への興味へと変わっていった。
一呼吸おき、うっすらと気持ちの悪い笑みを浮かべる。
普段起こらない出来事。
非日常なアクシデント。
それらは体験することは、千夏にとって大好物だった。
彼女にとってそれは心が疼く様なある種の性癖のようなものであり、周りの人間はそんな彼女の行動を『千夏のイレギュラーアドベンチャー』と揶揄する。
「千夏ちゃん!どーした!」
「彩音ちゃん、また暴走したのか!」
ガヤガヤと常連客のおじいさんおばあさんが駆け寄ってくる。
常連客の間では、彩音の乱心は一度や二度でない。
その度に人生経験豊かな老男女が、彩音の話を聞き慰めてくれた。
「明美ちゃん…」
倒れた孝太郎を見つめながら、彩音が千夏の手をぎゅっと握り返す。
「千夏……明美ちゃんに連絡して救急車呼んでもらお……」
急に頭に血が昇った為か、そう言いながら立ちくらみの様にふらつく。
だがそれでも、必死に指示を出した。
よろめきながらも社員としての、現場の責任者としての役目を果たそうとする。
だが、他の従業員に促されるようにその手をひかれ、バックヤードへと連れていかれた。
何度も振り返り、孝太郎と千夏に視線を送る彩音。
──私のせいだ。全部、私のせいだ。
彩音の足元はしっかりしていたが、その背中からは、自分のせいで孝太郎が倒れた、という自責の念が容易に感じられた。
彩音から送られる視線を感じ取れぬまま、千夏は孝太郎に寄り添うように地べたに寝そべる。
孝太郎は、呼吸を落ち着かせつつ体を起こし始めた。
「大丈夫です。すこし休めば落ち着きますから」
「でも……」
「持病とかではないんですけど、トラウマみたいな感じで……。突然ガガーーって言われると、発作というかうまく呼吸できなくなって……。もし、許してもらえるならタクシーで近くの病院に行かせてもらっても……」
孝太郎は力強く、時折吐息混じりに訴える。
壁にもたれながらゆっくりと立ち上がろうとする孝太郎の体を、千夏が懸命に支える。
「大丈夫?付き添い行くよ!救急車じゃなくて大丈夫?」
「いえ、一人で大丈夫です」
「ほんとに?」
「はい。明日はちゃんと来ますので」
「病院終わったらさ、ここにちゃんと連絡してよ」
「はい」
しばらくして明美の手配したタクシーが店舗の出入口に停車する。
千夏の肩を借りながら、ゆっくりとタクシーへ向かって歩き出す。
その間、千夏は孝太郎を励ますこともなく、珍しく無口だった。
初対面の男性と触れあうことは、千夏にとって別段なんの抵抗も違和感もない。
だが、今回は何かが違った。
肩を貸す千夏の耳元で、孝太郎の吐息が漏れる。
その度に、千夏の全身を何かが駆け巡った。
******
孝太郎の乗ったタクシーを見送った千夏は、一目散に事務所へと走り出す。
孝太郎のことを心配していたが、内心、彩音のことの方がもっと心配でならなかった。
「付き添い行くよ」と言いながらも、千夏自身は付き添いに行く気などさらさらない。
千夏が付き添いたいのは彩音だけだった。
千夏が事務所へ到着すると、普段と同じ風景がそこにあった。
ガチャガチャと大袈裟にキーボードを叩く音。
そのキーボードの傍らには、お昼に食べ損ねたデザートの残骸。
「あ、彩音……」
急いで走ってきたので息があがっている千夏は、彩音の側で呼吸を落ち着かせながら恐る恐る声をかけた。
そんな千夏をキッと横目で睨む。
「……味噌ラーメン?」
千夏の問いかけに、しばらく沈黙する彩音。
すこしムスッとした表情で千夏の方を向き、彼女の顔をまっすぐ見据える。
「豚骨醤油」
少し間をおいて、お互いクスッと笑いあった。
職場の近所のラーメン屋。
二人の仲直りの定番。
千夏の謝罪は一杯980円という形で支払われた。
******
一方の孝太郎。
近くの病院ではなく、孝太郎が指定した行き先はエディシャンからかなり離れたところにある病院だった。
診療を終え、待合室で会計を待つ孝太郎。
遠くを見つめながら自分の名前が呼ばれるのを待っているその様は、どこか哀愁に満ちていた。
「プラン、練り直しか……」
孝太郎が天井を見つめ、意味ありげに呟く。
時を同じくして、孝太郎のスマホが激しく振動し始めた。
応答ボタンを押し耳に近づけると、スマホの向こうから女性の声が聞こえる。
「……はい、はい」
「───」
「ご心配お掛けしました。職場の方へは追って連絡するつもりです」
「───」
「今回の件で二点ほど確認したい事案がありますので、後日お伺いするとお伝えください」
「───」
孝太郎は淡々とした口調で電話を後にした。
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