~奇跡のターフ~ 8

「さあ、東京競馬場は大観衆です。今年の日本ダービーは群雄割拠。皐月賞馬のエタニティー、トライアルレースの一つ、GⅡ青葉賞を6馬身差で完勝したスノードライブ、四連勝中のサムライハートが上位人気となっています。今年のダービーの頂点に立つのはどの馬でしょうか」

 イヤホンから聞こえてくる実況中継をよそに、真樹の視線はただ一人に注がれている。

「いよいよか」

 進士がブレンドコーヒーを運んでくる。

「お待たせしました」

 特別室の観戦席で真樹はそのレースの行く末を見守っていた。

「どうなると思う?」

 真樹が問い掛けると、進士は隣に座って、どうなるかという予想については触れずに「楽しみでございます」とだけ言った。

「ああ、俺もだ」

 

 実況が祭典の幕開けを告げる。

「さあ、三歳馬の頂点を懸けた戦い、日本ダービーがいよいよ、スタートです」

各馬がゲートインを終え、一斉にスタートした。


 



 スタートは絶好。幸先の良い滑り出しだったが、馬上の山城は戸惑っていた。前走までの、この馬、イチジンノカゼのレースは、何度も繰り返し見た。印象としてはおとなしい馬で、騎手の指示には素直に従っている印象だった。しかし、今日はとにかく前に行きたがる。これまで追い込みの戦法で勝ってきているだけに、ここで前に行ってスタミナを使ってしまえば、ラストの瞬発力が鈍る可能性がある。

「どうしたらいい」

 このまま、馬が行きたがるのをとにかく抑えるか、それとも、好きに走らせるか。

 ただ、このまま抑えつづけても、馬が反抗すれば無駄にスタミナを消費することも考えられる。

 山城はしばらく―と言っても実際の時間では数秒だが―考えた後、手綱を緩めた。

「どうせ、俺も最後のダービーだ。三歳馬のお前にとっても最初で最後のダービーだからな。お互い、気持ちよく走ろう」

 そんな思いが山城の手を緩めさせた。だが、その瞬間、思いがけない衝撃が山城の身体を貫いた。四番手の好位に着けていたが、それまで我慢していたものが爆発したかのように、馬が一気にギアを上げたのだった。

 その衝撃を山城は過去にも体験していた。そう、これはウインドブラストのスピードだ。ただ、あれはウインドブラストだからこその速さだ。この馬が、この調子で走って、本当に最後までもつのだろうか。

「しょうがない。もつかどうかは分からないが、やるだけやろうじゃないか」

 馬の上に乗る怖さはいつの間にか消えていた。夢の中とはいえ、ウインドブラストの背中は気持ちよかった。怖さなど一ミリも感じなかった。そして、懐かしい顔も見ることができた。牧村もソウタもウインドブラストも、案外、すぐそばに居てくれるのかもしれない。あの夢があったから、俺はこうして昔のように馬に乗ることが出来ているのかもしれない。

山城を乗せた馬は、残り八百メートル過ぎた地点で、二番手にまで位置を上げていた。スピードはまだ衰えない。

第四コーナーを抜けた時点で、とうとう先頭の馬に並んでいた。

東京競馬場の長い直線。

「あと、もう少しだ。あそこまで頑張れ」

 目の前に姿を現してきたゴールを見ながら、山城はそう馬に囁いた。




「さあ、第四コーナーを回り、先頭はエタニティー、それにほぼ並んでイチジンノカゼ!ここから長い東京競馬場の直線です!」

実況席ではアナウンサーがそう叫びながら、レースの行く末を見ている。そして、東京競馬場は大歓声に包まれていた。

「ここから後続が襲いかかってくる!」

 先頭の二頭と三番手との差は依然として四馬身ほどあったが、後続馬がスピードを上げて猛烈に追い上げてきた。

山城はすでに鞭を入れ、必死で馬を追い出した。案の定、イチジンノカゼは疲れてきている。だが、それは並走するエタニティーも同じようだった。差は広がることこそないが、追い抜けそうでもない。後ろから足音が迫ってくる。

残り二百メートルを過ぎた。


「まだ、エタニティーとイチジンノカゼが粘っている。後ろからやってきたのは…、スノードライブだー!」


最後方から一気にラストスパートをかけてきたスノードライブの気配は、すでに山城の斜め後ろにまで迫ってきていた。


その時。


「頼んだぞ」


 聞こえた。山城の心に確かに響いた、牧村の声。

 山城は思い出していた。牧村と共に競馬学校で学び、お互いに騎手として無事にデビューできた。一緒にレースのビデオを見返して、意見も言い合った。銭湯に行って、競馬談義に明け暮れ、のぼせたことも数え切れない。嬉しいこと、悲しいことがあったときには、一緒に飲みに行き、馬鹿騒ぎもした。


何よりも、自分がレースに勝ったとき、一番喜んでくれたのは牧村だった。


山城の手に力が込められる。


「こんな、おっさんの騎手に期待しても無駄だと何故分からない」

 山城はそう言いながら必死で馬を追う。

「俺が日本ダービーを勝つ?そんな事、出来るわけがないだろう」

 山城の右側にスノードライブが並んだ。左側にはエタニティーが粘りながらぴったりと着けている。


「ただ、その思いは、ちゃんと届いた」


 ゴールはもうすぐそこだ。山城は最後にもう一度、ムチを入れて馬を追った。



 実況のアナウンサーはその激戦ぶりに興奮しながら声を上げる。

「三頭が突っ込んでくる!スノードライブか、エタニティーか、イチジンノカゼかー!三頭並んでゴールに飛び込んだ―!」



 今回ばかりは、さすがに分からなかった。大概、ゴールの時点で勝ったかどうかの手応えはある。だが、最後に飛び込んだとき、三頭が本当に横一線だった。掲示板には写真判定の文字が出ている。

「どの馬だ」

 競馬場内はざわつきが止まらない。ゴールの大歓声の余韻なのか、それとも写真判定の行く末に対するものなのか。

 山城は馬を流しながら、ターフの中で勝負の行く末を見守る。エタニティーとスノードライブの騎手もまた、一向に引き上げようとしない。「もし勝ったなら、大歓声の中で馬にウイニングランをさせてやりたい」。皆、思うことは同じだった。

 五分が経過したがまだ、掲示板の三着までは空白のまま。山城にとっては長い時間だった。イチジンノカゼの馬番は七番。この七という数字が何処に入るかで、意味合いは大きく違う。競馬というものは、一着になって「勝った」と言えるのだ。もし、ここで優勝すれば「ダービー馬」という称号が与えられる。だが、二着以下にそのような名誉は与えられない。競馬の世界は厳しいものだ。


大歓声が上がった。山城は何度も確認する。その表示を。掲示板の一着には「7」と記されている。

「俺がダービーを…。まさか、まさか、そんなことって」


、山城はイチジンノカゼと共に観客席を目指した。年甲斐もなく、目に熱いものがこみ上げてくる。「勝った、俺でも勝てた」。これまで欠かしたことのない筋力トレーニングは、高齢になるに従い、メニューの量を増やした。レース当日はどの騎手よりも早くターフに出て、コースの状況を確認し、いかに上の順位を狙えるか、戦略を立てた。「確かに、これまでのG1には勝てなかったかもしれない。ただ、これまでの努力は無駄にはならなかった。今、はっきりと思う。この日のために、俺は騎手の道を歩んできたのかもしれない」。


「ああ、泣いています!初のダービー制覇を成し遂げた山城騎手が涙のウイニングラン!騎手生活二十三年目目を迎えたベテラン騎手が、嬉し泣きのダービー制覇です」

 観客席の前に辿り着くと、山城は頭を下げた。涙を堪えながら何度も、何度も。ガッツポーズでもパフォーマンスでもない、それが山城なりの感謝の思いだった。

 

 ターフを後にして戻ると、調教師の田代もまた、泣いていた。山城が馬を下りると、田代が「良くやってくれた」とだけ言い、田代と抱き合って喜んだ。

山城の声は震えている。「田代さんのおかげです。もし、この馬を、この馬を任せてくれなかったら、俺はこの舞台にも立てなかったんですから」

 田代は抱擁を終えて笑みを浮かべる。

「お前以外に居なかったんだよ。こいつを任せられるのは。なんたって、名前がイチジンノカゼだぞ?」

 山城はようやく気付いた。

「もしかして、この馬は…」

「そうだ。意識すると駄目だと思って、あえて言わなかったが、ウインドブラストを和訳すると『一陣の風』だろ?そう、こいつはあのウインドブラストの甥だ」

「そんなことって、あるんですね」

「ああ、こいつはなウインドブラストの生まれ変わりだと思っている。それだけのスピードと勝負根性を持ってるよ」


 「ありがとう」。山城は何度もイチジンノカゼを撫で、そう呟いた。


 検量室に戻ると、写真判定の場面がモニターに表示されていた。あれだけ、写真判定に時間が掛かったことが納得できる。三頭はほぼ一線で、わずか数センチだろうか、イチジンノカゼが先にゴールしていた。山城はヒーローインタビューに呼ばれ、お立ち台に立った。リポーターが山城の到着を待って、放送席へ呼びかける。

「放送席、放送席。日本ダービーを勝ちました、山城騎手です。おめでとうございました」

 山城は初めて立った場所に戸惑いながらも声を絞り出した。

「あ、ありがとうございます」

「もの凄い激戦でした」

 こういう時はどう答えれば良いのだろうか。レースの動画は何万回と見てきたがインタビューの様子は数えるほどしか見たことがない。

「そ、そうですね」

 リポーターも言葉が少ない山城に対し、次はどんな質問をしたら良いのかを脳内で探っているようだった。

「途中でイチジンノカゼが行きたがっているような様子でしたが、どんな判断をされたんでしょう?」

 山城はあのスピードと乗っているときの感触を思い出した。

「あ、あれはもう、馬が最後まで気持ちよく走れるようにとそれだけ考えていまして。ただ、スピードは、ウインドブラストに引けを取らないような走りでした」

 リポーターは瞬時に記憶を探ったようで、すぐに次の質問をぶつけてきた。

「確か、十二年前のダービーでしたでしょうか?」

「ええ、そうですね。あの時は辛い思いもして騎手を辞めようとも思いましたが、イチジンノカゼがウインドブラストの代わりに勝ってくれました」

「たぶん、ウインドブラストも喜んでくれてますね」

 その一言で、それまで何とか平静を保っていた、山城の目頭から再び涙が溢れた。

「はい…。ああ、すいません。多分、喜んでくれていると思います」

 その涙にもらい泣きしたリポーターが少し声を詰まらせながら問い掛ける。

「最後は写真判定になりましたが、わずか数センチのハナ差でした。まさに奇跡のような勝利でしたね?」


 山城の胸には、これまでの、さまざまな出会いが思い浮かんでいた。牧村、ウインドブラスト、ソウタ、父、母。本当にこれこそ奇跡と呼べるものかもしれない。

「私一人だったら勝てませんでした。高齢で実績もないようなこんなジョッキーでも、この舞台に立つことが出来たのは、これまでのたくさんの出会いのおかげだと思います」

 山城は頬に流れ落ちる涙を拭って言った。


「たぶんね、この数センチは、ゴールの瞬間に、ウインドブラストや私を支えてくれたみんなが、ほんのちょっと、ほんの少しだけ、背中を押してくれた分だと思います」


 牧村、ウインドブラスト、ソウタ、そして父ちゃん、母ちゃん、みんな見てるか。俺は、勝ったぞ。

 




「進士、どうだった?」

 競馬場を後にした真樹はリムジンに乗り込みながら感想を訊いた。

「はい、やはり『奇跡』というものは心に響くものがあります」

「モスコミュールとは良いチョイスだったな。人との出会いは偶然だ。そこから繋がりが深まっていくこともまた、偶然なのかもしれない。ただ、偶然が生み出す必然。仲間たちが集まったことによって、歴史が動かされる。そんな瞬間を見ることが出来た」

「私は、たまたまウオッカとジンジャーエールとライムが余っていたから、提案したまででして」

「それも、偶然なのか?」

 真樹の問い掛けに、進士は薄く笑みを浮かべるだけだ。

「うちのエタニティーは負けてしまったな」

 進士は「次は勝てるはずですよ」と思ってもいない慰めをしてくる。

 真樹が左手を差し出すと、進士が車内に設置された小さな冷凍庫から氷を取り出す。そして、足下に置かれたボックスから今度はウイスキーグラスとスコッチ・ウイスキーを探り出して、手早くグラスに球状の氷を一つ入れ、スコッチを注いで手渡す。

「まあ、今日はしょうがなかったな。何せ相手は一流の馬に、一流のジョッキーなんだから」

「それも、そうでございますね。ただ、オーナーがGⅠを取ることができるのは何年先でしょうかね」

 真樹は手に持ったスコッチ・ウイスキーを眺めながら「まあ、気長にやるさ」とだけ呟いて、軽く笑った。

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