~ヒーロー~ 1
空には無数の星。南西の方角には誰かが腰かけるのをじっと待っているかのように、上向きに欠けた三日月がぽっかりと浮かんでいた。
駅から歩き出て空を眺めていた佐原良文は懐かしそうに、その月に見入った。
「なんだか、こんなにゆっくりと夜空を見るなんて、久しぶりだな」
ポケットから煙草の箱を弄り出すと、その中の一本を口にくわえて火を灯した。
この日、三月二十六日は佐原の誕生日だった。家では、妻と七歳になる息子が今か、今かと待っていることは間違いなかった。しかし、電車に乗り込んだ佐原は自宅の最寄駅ではなく、その三つ前の駅のホームに降りた。何となく「今日は寄り道して帰ろう」という考えが佐原の脳裏をよぎったからだ。
駅からしばらく大通りを進んだところに偶然見つけた公園に何となく足を踏み入れる。
十メートル四方の小さなスペースの中央で、佐原はなんとなく空を見上げた。そして、幾らかの間、若かりし頃の自分を振り返っていた。
「ねえ、佐原君」
ふと、彼の脳裏に蘇った彼女の声。何故それが聞こえたのかは分からない。が、その声は紛れもなく、彼の心の奥底に、つい今まで存在の気配を消していた歩美の声だった。
佐原は何かが弾けたように表情を変える。ほんの少しの間、その場に立ちつくして考え事をしたと思いきや、慌てて公園を飛び出した。
「まさかな」
そう呟きながら彼は、大通りを駅の反対の方向にさらに走り出した。
五分ほど走ったところで、佐原の目の前に看板が姿を現した。看板には「焼肉しちりん」の文字。
「確か・・・この奥だったような」
佐原は記憶を辿りながら、看板の奥を曲がって路地に入った。
「あった」
店の入り口右側に掲げられた、控えめな大きさの看板には「BAR Eternity」とある。
「間違いない。ここだ」
佐原はすこしためらいを見せたものの、それはほんの一瞬で、次の瞬間にはドアをゆっくりと押し開けていた。
それほど広くない店内にはカウンターと円形のテーブルが二つ。
店内を見渡すと、カウンター席の一番奥に、客が一人だけ座り、グラスを傾けている。
その客は、灰色のスーツの内側には赤いシャツが覗くような派手な服装に反して、顔は整った顔立ちで、短めの顎髭もきちんと整えられている。
「いらっしゃいませ」
佐原が視線をカウンターの向こう側にやると、その店のバーテンダーは穏やかに微笑み、走ったことによって少し息を切らしていた目の前の客を、悠然と歓迎した。
バーテンダーは意外にも女性だった。歳は二十代中盤と言ったところだろうか。細身の体に白いシャツと黒のベストを纏い、その一つ一つの動作には、言葉では表現し難いほどの気品が溢れていた。胸の名札には「進士」と書かれている。
佐原もその名前に興味を持ったのか、カウンターの中央付近に着席するなり、バーテンダーに質問した。
「あっ、あの、その名前は何とお読みすれば?」
「私の名前のことでしょうか?これは、しんし、と呼びます」
「へえ~。珍しい苗字ですね。それなら、客にすぐに名前を覚えてもらえそうだ。あっ、バーテンダーさんは進士さんだけなんですか?」
「はい、私だけです。一応、オーナーは別に居るんですが、基本的に自身でカクテルを作られる事は、ほとんどありませんので」
その言葉が耳に入ったのか、カウンター席の一番奥の客が、チラっとバーテンダーの方を見やる。が、それも一瞬、視線を向けただけで、以降も変わらずに一人でウイスキーのようなものを嗜んでいる。
「なるほど」
佐原は、そう言いながら脱いだコートを隣のカウンター席の背もたれに掛けた。
「ご注文は何になさいますか?」
「あ、ごめんなさい、注文の前に一つ確認したいんですが」
「はい、なんでございましょうか」
佐原はオーダーの前に、気がかりになっていたことを一つ、尋ねた。
「今日来た客って、俺で二人目ですか?」
通常であれば店が暇であることを指摘されているようで、店員からすれば嫌味を含んだ質問に聞こえたかもしれない。だが、バーテンダーは嫌悪感を一切見せず、むしろ自然な笑顔で答えた。
「そうでございます」
「すいません、変な事を訊いて」
佐原は、少しホッとした。だが、心の反対側では少し残念な思いも抱いたのも事実だった。そんな自身の気持ちを落ち着けつつ、バーに行くと必ず最初に注文するカクテルをバーテンダーに伝えた。
「それじゃ、マティーニを」
その時、パチンと何かが弾けたような音が、バーカウンターに響いた。木の実を割ったような、乾いた、小さい音だった。目の前のバーテンダーは、その音には気付いていないのか、気にする様子も無く、佐原の注文を快く引き受ける。
「かしこまりました」
進士は早速、ミキシンググラスを取り出すと、棚に置かれていたジンとドライベルモットを滑らかな手つきで入れ、手際よくステアしていく。その動作はやはり、どこか気品があり、神々しいとも、一つの芸術作品を見ているとも言えるような、そんな手つきだった。カクテルは、あっという間に完成した。
佐原の前に差し出された、冷やされて白く曇ったカクテルグラスに、極々薄く黄色に色づいた液体が、穏やかな川の流れのように静かに注がれた。その間、ピンに刺されたオリーブは、天女が衣を纏うかのように、美しく映え、最初は適度に激しい水流に身を委ねていたが、次第にその勢いは落ち着いていった。
「お待たせいたしました。マティーニでございます」
目の前に差し出されたカクテルグラスは何も語りかけてこない。そんなことは当たり前なのだが、佐原が何故そのような期待をしたかと言えば、そのカクテルが何処か生きているかのような不思議な感覚を覚えたからだった。
しばらくグラスを眺めた後、カクテルからの挨拶を諦めた佐原は、マティーニの最初の一口をじっくりと味わう。
何と表現すれば良いのだろう。口に含んだ瞬間にふわっと広がり、鼻腔に抜けていく花のような鮮やかな香り。
「これは、本当にマティーニですか?」
もちろん、使われている材料は見ての通り、ジンとドライベルモットだけ。そんな決まり切った質問は、普段ならしないはずだった。ただ、それほどそのカクテルは驚きに満ちていた。これまでに味わったどのマティーニよりも、美味かった。
「はい、そうでございます」
バーテンダーは穏やかな笑みのまま、軽くお辞儀をして、そう答えた。
「これは、何というか・・・。そう、これまでに飲んだことの無い味です。すべてがこのグラスの中で一つになっているというか」
佐原が自身の中に沸き上がった、嬉しさとも、期待感とも取れる感情に浸っていると、カウンターの奥から先ほどのダンディーな男性が、グラスを持ったまま、佐原の方を向いた。
「そんなはずはありません」
佐原はきょとんとして、その男性に視線をやる。
「いえ、確かに、これほどまで美味しいマティーニを飲んだことはありません」
男性は席を立つと、つかつかと佐原に近づいてきた。立ち上がると、その長身が目立った。おそらく百八十センチ前後だろうか。
その男性は胸ポケットからカードケースを抜き取り、その中から名刺を一枚取り出すと、佐原に向けて差し出した。
名刺には「BAR Eternity オーナー 真樹 真」とある。
「オ、オーナーさんだったんですが?」
オーナーであるという真樹はぽりぽりと頭を掻きながら弁解する。
「隠すつもりは無かったんですがね。読み方は『まきまこと』です」
「上から読んでも、下から読んでも真樹真なんですね」
佐原は自らそう言いながら、思わず吹き出す。真樹は嫌な顔せず、むしろ子供のような無邪気な表情で「よく言われるんですよ」と、相槌を打つ。
「それで先ほどの、そんなはずはない、というのは、どういうことですか?」
真樹は佐原の隣の席に移り、グラスに口を一度つけると、その質問に応答する。
「あなたは過去に一度、ここに来たことがあり、そのマティーニを飲んでいるということですよ」
佐原は内心で慌てた。確かにもう十数年も前に、ここに訪れたことは覚えている。ただ、その時にマティーニを飲んだかどうかなど、佐原にも自信が無い。
「もしかして、その時にあなたはバーカウンターの向こう側でまだカクテルを作っていて、私にマティーニを作ってくれたのを覚えていてくれた。そういうことですか?」
真樹は首を横に数回振って、その推測を否定する。
「いえ、私はその時に店には居なかったはずです。そして、先ほど進士も言っていたように、カクテルも私はあまり作りませんから」
「それなら、何故、何故分かるんですか?」
佐原は狼狽した。ここに、この人は居なかった。カクテルも作っていない。それなのに、店に来たことも、その時に飲んだカクテルも知っている。もし、それが本当なら、この人は超能力者か、幽霊か。
「それは、ここがそういうバーだからですよ」
「言っていることが全然分からないんですが」
首をかしげる佐原の様子を、真樹はにやにやと見つめる。
「昔から伝わる言葉に、私がよく使う名言があります。『百聞は一見にしかず』」
「一見っていうのは、何を見れば?」
真樹は両手の手のひらを下に向けて「まあまあ」と佐原を宥める。
「それは、これからですから。どうぞ、今はそのマティーニをごゆっくり、味わってください」
佐原は、真樹に促され、再び目の前のカクテルグラスに意識を持ってきた。ただ、頭の中は真樹の言葉で埋め尽くされている。
「あなたは過去に一度、ここに来たことがあり、そのマティーニを飲んでいるということですよ」
佐原は頭が微妙に混乱しながらも、真樹が「これから」と言ったその「一見」をゆっくりと待つことにした。
佐原がマティーニを注文して三十分ほど経った。灰皿にはすでに五本の煙草の吸い殻が溜まっている。
だが、一向に新たな客は入ってこない。このバーの経営は大丈夫なのだろうか。たまたま今日が暇なだけかもしれないが、それにしても静かすぎるんじゃないのか。佐原は、店の心配をしながらマティーニを少しずつ味わっていた。
そして、オーナーの言う一見とは一体何なのだろうか。
カクテルグラスのマティーニが残り僅かとなった時だった。
「あの、差し障りがなければ教えていただきたいんですが・・・」
それまでじっと酒を嗜んでいた真樹が佐原に声を掛けた。
「何でしょう?」
「あなたはどなたをお待ちなんですか?」
それを耳にした佐原の心臓は、急激に鼓動を打ち鳴らし始めた。平静を装いながら聞き返す。
「真樹さんは何故、それを?」
真樹は少し困ったような表情で軽く頭を下げた。
「申し訳ありません。実は私達はあなたが誰かを待っているのを知っているのです。ただ、何故知っているのか、それはお教えできません。ここがそういうバーだからだとしか」
「あの、さっきから一体全体、何がどうなってるのか、私にはさっぱり分かりません。何かの嫌がらせですか?」
佐原は気味の悪さを覚え、一定の反論をした。だが、真樹の口からは事情説明がされそうな雰囲気はない。
「あ、お気を悪くされたら申し訳ありません。無理にとは言いませんので。もちろん、ここでお帰りいただいても構いません」
真樹は慌てた様子で弁解した。
「ただね、ここで帰ったら、あなたは一生後悔しながら生きていく事になるかもしれません。その人が現れるかどうかは分かりません。でも、ここにいれば、少なくともその人に逢える可能性は消えない」
佐原は無言でカクテルグラスに視線を落とすと、残っていたマティーニを飲み干す。グラスを置くと同時に、佐原の口元からは何かを諦めたかのように「くっくっく」と噛み殺したような笑いが漏れた。
「もう、全く、私には訳が分かりません。あなたたちが一体何者なのか、それも教えてもらえない。でも、私が人を待っている事を知っている。これはもう、何というか、奇妙な巡り合わせとしか言いようがない」
佐原はグラスから視線を外して真樹へと移すと、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。お話ししましょう」
佐原が「同じものを」と進士に告げると、手際よくマティーニが作られた。佐原の前に再びカクテルグラスが置かれると、佐原はそれに手をつけることなく、待ち人について語り始めた。
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