~ヒーロー~ 2
ええ、何から話せばいいですかね。とりあえず、彼女との出会いから順を追ってお話ししていきましょうか。
実は私は北陸の片田舎出身でして。高校を卒業したらずっと憧れていた東京の大学に行くことにしました。その時はどうしても田舎に留まる気にはなれなかったんです。
今、待っているのは、その進学した大学で出会った、ある女性です。彼女と初めて会ったのは大学二年生の時でした。私は今でこそ運動不足ですが、当時はその大学の硬式野球部のエースとして、そこそこ活躍していたんですよ。まあ、自分で言うのもなんですがね。
二年生になった時に、マネージャーとして入部してきたのが彼女だったんです。彼女は入学したばかりの一年生でした。彼女はすらっとした長身で、顔立ちもとても綺麗で。それなのに、あまりしゃべらない、おとなしい子だったんですよね。だから、最初はほとんど会話をする事もなく、選手とマネージャーとしての付き合いが続いていました。
あれは、そうだな、秋季リーグ戦が始まる直前の九月だったと思います。彼女が熱を出して寝込んだ日があって。たまたま、彼女とは家が近くて、私が部を代表して、練習前に見舞いに行くことになりました。最初は「何で俺が?」と反論したんですが、チームメートからは「逆に訊くが、何で遠い奴がわざわざ行く必要があるのか」と丸め込まれました。実は、私はそれまでにも女性と付き合った経験が無くて、そういう場面に出くわす事もなかったんですよ。しかも、彼女はほとんどしゃべらないから、二人きりになっても、たぶん話は弾まないんじゃないかとも思いましたし。
私は、とりあえずドリンク剤と風邪薬、あとフルーツなんかを適当に買ってから、彼女の家に向かいました。まあ、それを置いてから「すぐに練習に行くから」とか何とか言って、早めに帰れば良いか、と思っていました。
彼女の家に着いてインターホンを押すと、寝間着にマスクをした彼女が顔を出しました。これまでに大学で見ていた姿とは百八十度違う、おばさんのような格好でした。いつもきれいめな服に身をまとっていた子でしたから。ただ、それでも綺麗だと感じるんですよね。その時に気付きました。この人は目がとても透き通っている、目が美しいのだと。
とにかく、その時に、彼女の目に見とれてしまったんですよね。もちろん、相手はきょとんとして、こっちを無言で見つめていました。それまで、ずっとグラウンドではずっと傍に居たはずなのにその時、初めて彼女の魅力に気付いたのだと思います。基本的に私は野球バカでしたからそれまで女性への興味もあまりなかったもので。
私が、我に返って見舞いに来た事情を話し、手に持っていた見舞いの品が入った袋を手渡すと、おそらく身体がしんどかったのもあったのでしょう、ほんの少しだけ微笑んで「ありがとう」と頭を下げました。すぐさま、私は「それじゃ」と言って帰ろうとしたのですが、彼女は慌てた様子で私を引き留めました。「ちょっと待って。私も渡したい物があるの」と。
彼女に手招きをされ、玄関口まで進むと、そこはワンルームのアパートで、目の前にすぐ彼女の部屋が広がっていました。女性の部屋を見たのは初めてだったので、とても緊張していたのを覚えています。部屋の中は白色で統一されていて、清潔感があり、綺麗好きなんだなというのが、とても伝わってきました。
彼女はしばらく部屋の中を物色すると、ある物を手に持って玄関口まで戻ってきました。それは一冊のノートでした。最初に言っておきますが、彼女はマネージャーになるまで、野球とは無縁の生活を送っていたらしいんです。そんな子が、初めてうちの練習を見に来た時に、マネージャーをやってみたいと思ったんですって。何やら野球をする選手たちに青春を感じたと。
まあ、そんな感じで知識が一切無い子だったんで、そのノートを開いたときにはびっくりしましたよ。そこにはチーム全員、もちろん控えの選手まで全員の打撃や守備の直すべき部分がびっしり書かれてたんですから。しかも、かなり的確でした。本当に驚きましたよ。「いつ勉強したんだ?」って訊いたら「そんなの毎日見てたら分かるよ」ですって。そんなの絶対無理なんです。野球って結構、難しい専門用語とか技術とかがあるから、見てるだけじゃ絶対に分からないですから。だから、すぐに気付きました。陰で、自分でいろいろ調べて、野球の知識を仕入れてたんだなって。「お前、やるなあ」って言ったら「たいしたことないよ」って謙虚にしてましたが、ちょっと照れくさそうだったのも覚えています。
そこからですね。うちの野球部が強くなったのは。まあ、そんなに劇的に変わったわけではなく、リーグ戦ごとに勝ち星が一つずつ増えていくぐらいの感じでしたが、それでも着実に強くなってるのは実感できました。
もちろん、それも彼女のノートのおかげです。何というか、私たちが見るのとは視点が違うんですよね。とにかく指摘が詳細で。私は投手でしたが、自分ではいつも通りに投げてるつもりでも、「振り抜く腕の角度が微妙に違う」とか、「プレートの立ち位置がいつもより少しずれている」とか。でも、言われたとおりに直すと、何故かしっくりくるんですよ。不思議だったなあ、少し大げさですけど、あれは魔法を使われているような、または催眠術をかけられていると言った方がいいですかね。とにかく、そんな感覚だったんです。
月日が経つにつれ、彼女も少しずつチームに打ち解けてきました。弱小野球部で元々マネージャーが少なく、どうしても話さなければならない場面が多かった事も、功を奏したのかもしれませんね。
入部してから一年半ぐらい経った頃には、彼女もかなり口数が多くなっていて、最初に比べて、部内がとても明るくなりました。そうしたら、こんな表現はおかしいかもしれませんが、やはり彼女を好きになる選手たちもどんどん増えていきました。元々、容姿端麗でしたから、これで気立ても良いとなれば、そりゃ男たちは黙っていないでしょう。
一方の私も同じです。ただ、私が彼女に好意を抱いたスタート地点は、そこからずっと前ですが。そう、彼女の家を訪れ、ノートを渡された時です。その時から、私は彼女を好きになっていたんです。
ただ私は元々、女性と話した経験も少なかったので、思いを伝える事はなかなかできませんでした。さらに言えば、彼女の家へ訪問した後も会話を交わす事はほとんど無かった。今思えば、告白して振られるのが怖かったんでしょうね。その後で後悔が待っているとも知らずに。
私が四年生に進級し、彼女も三年生になった時でした。チームメートから、彼女にとうとう彼氏ができたと聞いたんです。それまで、確かにいろんな男たちが彼女に告白していたのは知っていました。それも部内だけでなく、部外の人からも好意を寄せられていた事は、風の噂で聞いて知っていました。
ただ、それらの告白を彼女はすべて断り続けていたんです。何故でしょうね、私はどこかで安心していたのだと思います。「これだけ告白を断っているのなら、これからも、よっぽどの男が現れない限り、彼女がオーケーする事はない」と。さらに言えば、もしかしたら彼女が好きなのは自分なのではないかと。心のどこかで勝手に思い込んでいました。
思えば、それが浅はかだった。だから、初めて彼女に彼氏ができたと聞いたとき、私の感情は驚きと悲嘆で一杯になりました。まあ、私だけではなく、それまでに振られてきたチームメートたちも同じ気持ちだったんでしょうが。
部内では話が広まるのも早くて、どんな男と付き合ってるのかも自然と耳に入ってきました。その男は、どうやら他の有名な私立の大学で、法学部に入るほど頭も良かった。こちらは偏差値ギリギリで、ようやく入学できた経済学部です。頭脳では太刀打ちできません。かと言えば、育ちも違いました。父親は、関西で貿易商社の社長をやっていて、大阪ではかなり有名な会社だったようです。
そして、極めつけには性格すらも良かった。誰に対しても優しく、後輩からも慕われる。さらには父親の援助をほとんど受けずに、自分でバイトをして生計を立て、大学在学中にIT関連の会社を起業してしまうほどの人物だったんです。
その彼の話を聞く度に、顔では笑っていましたが、内心では何とも言えない悔しさというか、怒りというか、そんな感情を抱きました。
もちろん、怒りというのは彼に対してではありません。彼のどの部分をとっても敵わないという、自分への怒りですよ。
一方、彼女は、その彼氏について訊かれる事を極端に嫌がりました。私は本当の事がどうしても知りたくなり、同じチームの友人に訊いてもらおうと思ったんですが、はっきりとした答えはもらえなかったそうです。もう、付き合ってるのは間違いなかったんです。ただ、本人の口から言われていないということに僅かな希望を持っていたんです。
それもまた、浅はかでした。
確か、噂を聞いた一ヶ月後くらいだから五月の初旬だったと思います。授業が終わり、大学の正門を出ようとしたときでした。彼女がその彼らしき人物と一緒にいるところにバッタリと出くわしたんです。最初、私は気付かれないようにその場から離れようとしました。でも、気付くのが遅すぎた。こっそりとその場を立ち去る前に、彼女に見つかってしまったんです。彼女は手を振ってこちらに近寄ってきました。そして、少し遅れてその彼が着いてきました。
私の前で立ち止まった彼女は、「佐原くん、この人が私の彼氏の田辺たなべ昇しょう平へいくん。まだ、言ってなかったよね。実はちょっと前に彼氏が出来たの。あ、昇平くん、この人がうちのエースの佐原くん」とお互いを紹介しました。今でも彼女の言葉は、はっきり覚えています。それまで生きてきて、あんなにも胸が苦しくなった事はありませんでしたから。あの時は、生きていながらも地獄で拷問を受けているかのような、そんな感じでした。
でも、そこで納得した事もあったんです。その彼は、身長も高く、顔も目鼻立ちがはっきりとした、まあ、わかりやすく言うと格好いい男だったんです。それで、笑った顔がまた、とっても人懐っこくて。それでいて、頭の良さや自身の裕福さをひけらかすような感じでもなかったから。「これなら、彼女が好きになってもしょうがない。むしろ彼女には彼のような人がふさわしいのだろう」と、そう思いました。
一つ疑問だったのは、私の友人がいくら彼女に彼氏の事を訊いても答えなかったのに、私には、あんなにあっさりと、彼氏を紹介してくれた事です。その理由は未だに分かりません。
彼女に彼を紹介されてからというもの、私は野球に没頭するようになりました。そうです。やはり、彼女を好きであるという気持ちを、自分でごまかそうとしていたんだと思います。でも、人に好意を寄せるということは、やはり、自分の無意識下で進んでいるんですね。どんなに野球に打ち込んでも、チームメートと過ごしていても、やはり、彼女の笑顔を見る度に辛くなったんです。「あの笑顔が向けられているのは自分じゃなく、彼なんだな」ってね。
もしかしたら、彼女の部屋を訪れた後、勇気を出して食事にでも誘っていれば良かったのかもしれない。この思いをきちんと伝えておけば、結果は違っていたかもしれない。そう後悔したことも一度や二度ではありませんでした。
彼を紹介されてから一週間後くらいでしょうか。その日の練習を終えて自宅のアパートに帰ると、部屋に入るなり、私の携帯電話が鳴りました。
それは、彼女からでした。
ええ、驚きましたよ。相変わらず、私と彼女はほとんど会話を交わしていなかったので、何かあったのかと思いました。電話に出ると「私だけど、今から時間ある?渡したい物があるの」と言われました。「渡したい物がある」と言われたときに、あの日の事を、ふと、思い出しました。「また、あの時みたいな野球のノートか」と言うと「違うよ」とだけ。口調は本当にそっけなかったなあ。彼女は私のアパートに行くから、と言って電話を切りました。
しばらく、彼女が来るのを待っていました。人を待つ時っていうのは、時間が遅く流れますよね。それが、自分の片思いの相手だと尚更。「何を話そう」「渡したい物って何だろう」って考えながら、そわそわしていました。
幾ばくかの時間の後、玄関のチャイムが鳴りました。ドアを開けると、白いシャツとデニムのスカートを履いた彼女が立っていました。彼女は「今日も練習、お疲れ様でした」とぺこりと頭を下げると、バッグから小さな紙袋を取り出しました。
「これ、お守り。ほら、高校野球なんかだとマネージャーが選手に作ったりするんでしょ?」と、その紙袋を私に押しつけるように渡しました。少し戸惑いながら紙袋を開けると、小さなユニフォーム型のマスコットが入っていました。背番号は十八。私の背番号でした。
私たちの大学では、春季のリーグ戦で四年生は引退し、それぞれ就職活動などに精を出す事になります。その日はちょうど最後のリーグ戦の三日前だったんですよ。
たぶん、彼女は最後のリーグ戦だということで、それを作ってくれたんだと思います。「時間が大分、かかっちゃったからギリギリになったけどね」と、はにかんでいました。
東京の大学の硬式野球についてはご存じですか?リーグと言っても、一部から四部まで分かれていて、私たちが所属していたのは一番下の四部のリーグでした。その中でもさらに最下位争いをしていたような弱小チームだったんですが、先ほども言ったとおり、チームの成績は右肩上がりでして。その春季リーグ戦の目標は一位になって、三部との入れ替え戦に勝ち、昇格する事でした。
もし、三部昇格を果たす事ができれば、創部以来の快挙で、私達はそこを目指してかなり過密な練習をしていました。彼女は「私はグラウンドに立つ事は出来ないから。頑張ってる皆のために、何かできることがあれば」と、部員全員分のマスコット作りを思い立ったそうです。
私も思いがけない贈り物にあまり言葉が浮かばず「ありがとう」と一言だけ。それを聞き届けると、彼女も「頑張って」と一言だけ告げて、帰っていきました。
思えば、その時も自分の思いを伝えるチャンスだったんですよね。彼女が帰ってから暫くして、ようやくその事に気付き、また後悔する羽目になりました。駄目ですね。今振り返れば、自分のふがいなさに涙が出そうになりますよ。
そして、春季リーグ戦が始まりました。四部のリーグ戦は五つの大学とそれぞれ二戦ずつ行い、勝敗で順位付けをします。私達のチームは初戦から白星を重ねて、最終戦は八勝一敗ずつで並んでいた、それまで四部の優勝常連の大学との対戦でした。
初回からうちのチームは波に乗りました。攻撃が上手く噛み合って、いきなり3点を先制すると、その後もこちらがリードする形で終盤を迎えました。あれは確か、八回の表、スコアは5―3で勝っていました。
ただ、その回に突然、私の右肩が悲鳴を上げたんです。それまで、肩や肘を壊した事は無く、最初は何が起きたのか分かりませんでした。投球練習の途中で、右肩にものすごい激痛が走ったんです。私はマウンドにうずくまりながら、今何が起きているのかを必死で整理しようとしました。暫くして、といっても、実際にはほんの数分でしょうか、痛みが少しずつ引いていったので、私はもう一度ボールを投げようと試みました。ですが、もう、ボールが投げられないんですよ。投げようと腕を上げると、肩に電気のような「ビリッ」っとした感覚と痛みがあって、やはり、投げられない。
私としては「あと二回、抑えれば勝てるのだから、投げられるのならば投げたい」と思いましたよ。今後、野球が出来なくても、元々、野球は大学で辞めるつもりでいましたから。
ベンチに戻ってとりあえず気休め程度のテーピングを肩に巻いているときでした。近くにいた彼女が言ったんです。「お疲れ様。あとは皆に任せよう」って。私も少し、パニックになっていたんだと思います。「嫌だ。俺が投げる」と意地を張りました。「俺はここでつぶれても良い」と。でもね、よく考えたら、それはチームのためではなかったんですよね。肩を痛めた投手が投げても、ストライクが入るかどうかも分からない。チームとしての選択は投手交代で良かったと思います。
私たちみたいな弱小の大学には、監督が一応居たものの、登録しているだけの名前だけのもので、選手の交代なんかはすべて主将に任されていました。
その主将が私の症状を見ながら、投手交代を迷っている隙に、彼女がグラウンドに出て行ったんです。そして、「投手交代!」って叫んだんですよ。本当に驚きましたね。あんなに必死な表情の彼女は見たことなかったですから。あと、意外と度胸もあるんだなあ、なんて呑気に考えてましたね。
ベンチに帰ってきた彼女はすぐさまこちらへ向かってきて、言いました。「佐原君にはこれからもずっと野球をしてほしい。ここで無理をしても、きっと佐原君は後悔する。だから、私の権限で交代します」。
私ももう、何も言いませんでした。いえ、言えませんでした。だって、好きな人に野球をずっとしてほしいと言われたんですよ。そして、無理をするなとも。顔には出しませんでしたが、嬉しかった。
もちろん、私は彼氏ではありませんでした。でも、その時に気付いたんですよ。僅かかもしれないですが、彼女が私の事を考えていてくれたんだと。
そうそう、気になるのは試合の行方ですね。私がマウンドを降りた後、皆も必死に戦ってくれました。それは皆の表情を見れば分かります。だって、あと二回抑えれば自分たちの目標に手が届くんですから。明らかに外野に抜けそうな内野ゴロも全部飛びつくし、私と代わった投手も一球一球丁寧に、慎重にコースを突いていました。
交代したときは悔しさが先行していた私も、そこでハッとしました。それまで自分がチームの中心として戦っていると思っていたのに、それは違った。私がプレーできなくなっても代わりの選手が戦ってくれる、それこそがチームというものなのだと。
私は声を枯らしてグラウンドに指示を飛ばしました。確かに昇格するというのは、強豪大学からすれば埃ほどの小さい目標かもしれません。でも、私たちにとっては違いました。それは本当に高い壁だったんです。
昔から名門チームで、有望な選手たちと切磋琢磨してきたわけではありません。小学生からずっとベンチウォーマーで悔しい思いをしてきた選手もいれば、大学で野球を始めて試合に出られなくてもずっと退部せずに練習してきた選手もいる。私だってそうです。高校まではいつも二番手でその大学に入ってようやくエースを掴み取ったんです。そんな選手たちの集まりであっても一緒にプレーしていく中で「これまで勝つ事とは無縁だった自分たちが、四部とはいえ、頂点を狙えるかもしれない。これまでにない『勝つ喜び』を味わえるかもしれない」と考えられるようになったんですよ。それだけで自分たちは成長しているんだと感じる事ができました。
一方の彼女はというと、声を張り上げている私の横で、ずっと心配そうに私の様子を伺っていました。攻守交代の合間には「大丈夫?痛みはひどい?」と、私の肩の状態を終始、気にかけてくれました。
最終的に、試合は九回に相手チームに勝ち越されて、逆転負けでした。リーグ戦も結局二位。念願の昇格はできませんでした。
試合後、球場の外で皆は泣いていました。やはり、昇格できなかったのが、本当に悔しかったんだと思います。
私も泣きました。大学最後の昇格が懸かったこの大事な試合で故障し、あと少しで届いたはずの勝利がするっと逃げていったんですから。私はチームの一人一人に謝りました。「本当にすまない。俺のせいだ」と。でもね、みんなその思いは一緒なんですよね。「俺も打てなくてすまなかった」「俺もエラーしてすまん」と逆に言われました。もうその時には、試合に負けたことや、自分の故障のことなんて吹っ飛んでいて、このメンバーと野球ができた事が本当に良かったと心底、感じていました。
私は仲間たちに一人ずつ声をかけた後、彼女の姿が見えない事に気付きました。他のマネージャーに尋ねても、何処に行ったのかは「分からない」ということだったので、付近を探しに行きました。
すると、少し離れた物陰の隅で、壁に向かって彼女が蹲っているのが分かりました。こちらからは後ろ姿だけで表情は確認できませんでした。それで、彼女に声をかけようとしたんですが、その前に彼女の肩が僅かに震えていることに気付いたんです。
彼女もまた泣いているのだと。私は自分の気持ちを落ち着かせて声をかけました。
「どうしたんだ」と言って肩に手を掛けても、彼女は首を横に振るだけで、何も言おうとはしませんでした。私も不甲斐なかったですよ。彼女は何も話してくれない。悲しんでいる理由も教えてくれない。
結局、彼女は私たちが球場で解散する最後まで、口を開く事はありませんでした。私も傍でそっと見守る事しかできなかった。それが、どうしても悔しかったのを記憶しています。
野球部を引退し、私は就職活動を始めました。家庭の事情で北陸の実家に帰らなければならなかったため、北陸の企業を対象に活動しました。そして、秋にようやく就職が決まりました。自分にはありがたいほどの、北陸では有数の商社から内定をもらう事ができました。
彼女とは就職活動の間、会う事はありませんでした。彼氏がいるのに自分が会うのは駄目だろうとも思いましたし、もし、会ったとしても何を話したらいいか分からないと考えていたのもあります。
そして、時間は流れて、彼女から再び連絡があったのは大学の卒業式前日でした。
私は驚きました。突然でしたし、それまで全く連絡を取ってなかった彼女の名前が携帯電話に表示されたとき、どうしたら良いか分からず、電話を取ろうか躊躇いました。ですが「これはもしかしたら、緊急な事態が起こったのではないか」とも思ったんです。そして、電話を取りました。
「久しぶり」という落ち着いた、優しげな声を聞いて、何かを急いでいるのではないと即座に感じ取りました。それならば、何故電話を掛けてきたのかと考えていると、彼女はこれまでに聞いた事の無いような明るい声で私を誘ったんです。「卒業する前に、明日一日を私にちょうだい」と。
先ほどもお話ししましたが、彼女が電話で言った「明日」とは、つまり卒業式の日です。私は卒業式に出席する予定でしたが、彼女との約束を優先する事にしました。卒業式も大事だと思いましたが、「彼女と会うのはこれが最後かもしれない」と考えると、どうしても卒業式より、彼女との約束の方が大事に思ったんですね。
次の日。彼女とは渋谷駅の前で待ち合わせをしました。
久しぶりに私の目の前に現れた彼女は、いつもよりも女性らしく見えました。何故かって?それは自分にも分かりません。着ている服もキャンパスでいつも着ている服でしたし、一見しては何も変わっていないようでしたが、雰囲気ですかね。私と会っていなかった間に、大学生活を経て、大人らしさが増していたのかもしれません。
私の姿を見つけた彼女はつかつかと私の方に歩み寄り「さあ行こう」とだけ言って踵を返しました。私が声を掛ける間もなくです。しょうがなく、彼女の後を着いていきました。
最初は何処に行くのかと思いましたけどね、辿り着いた先はあの最後の試合が行われた球場でした。
球場に着くなり彼女の一言に私は驚きました。「球場を一時間、貸し切った」と言うんです。「一体何をするんだ?」と訊くと、「キャッチボール」とだけ答えて、彼女は球場の中へと向かいました。球場に足を踏み入れるのは久しぶりでした。ベンチにはグローブとボールが用意されていて、彼女は二つあるグローブのうちの一つを、私に向かって放り投げました。私がそれを受け止め「俺は肩を壊している」と言うと、「痛くなったら止めて構わないから」と彼女は言って、ホームに向かいました。私がファウルグラウンドで立ち止まっていると、「早くマウンドに行って」と促されました。もちろん、マウンドに上がるのも、ボールを投げるのも最後の試合以来でした。肩は試合後に病院に行ったときに、暫く安静にしていれば投げられるようになると言われていましたが、それからはぱったりと野球から距離を置いていましたから。約一年間ボールは握っていない事になります。その時は「もうそろそろ大丈夫かな」と自分を納得させて、マウンドに立ちました。
空を仰ぐと、真っ青な色が広がっていました。雲は不思議なほど見当たらず、青一色に染まっていました。それまで、野球をしていてそんなにじっくりとマウンドから空を眺める事は無かったもので、ついつい見とれてしまいました。
そして、「この空の色を一生忘れないでおこう」と感じました。何故かは分かりませんが、たぶん、これが彼女と過ごす最後の時間だと無意識のうちに気付いていたのかもしれません。
「時間は限られてるよ」と彼女に急かされ、私は彼女とキャッチボールを始めました。
あれは時間で言うと、多分三十分ほどでしょうか。彼女も私も、何を話すでもなく、ただ黙々とボールの投げと受けを繰り返しました。お互い、無言でしたが、私はものすごく充実した気持ちになっていました。
私の気持ちですか?もちろん、彼女が好きでしたよ、その時も。そう簡単には忘れられないくらいでした。彼女に彼氏を紹介されたときから私は自分の気持ちを押し殺し、じっと耐えていました。
そこで私はふと、思い出したんです。それまで、気持ちを伝えるチャンスがありながら、伝えられていなかった事を。
怖いものはもうありませんでした。もし、私が気持ちを伝えて何の反応も無かったとしても、しばらくすれば私は東京を去る立場でしたから。彼女と会う事も無い。それならば、思い切り告白して、砕けた方がいいのかもと。
キャッチボールが終わり、私はマウンドからホームベースへと向かいました。ゆっくり、ゆっくり。心臓は試合の時よりも断然、高鳴っていたのを覚えています。私が目の前に立っても、ただ、彼女はにこにこと笑うだけでした。
いざ、口を開こうとすると、声が出ません。あれ、おかしいな?と思いました。人生で初めての告白ですからね、緊張していて上手く頭が回りませんでした。
そこで彼女が言ったんです。
「これで最後だね」って。その言葉で、ようやく口から声が出てきました。そこから先は何を告げたか、はっきりとは覚えていません。自分が彼女を好きだということを、言葉を選ぶ余裕も無く無我夢中で告白していたのだと思います。頭に残っているのは、彼女が「うん、うん」と、私の話している言葉をちゃんと聞いていてくれたことだけです。
一通り、話し終わると、彼女は涙を流していました。そして、「ありがとう」と。
ただ、その後ではっきりと「その気持ちに応える事はできない」とも言われました。そこで私は知る事になりました。
彼女が結婚するということを。
最後に彼女は涙ながらに「最後に大事な時間を私にくれてありがとう」と告げました。
失うものがないと思っていた私は、重大な事にその時気付きました。私の中の「彼女」という存在が崩れ去った事を実感したからです。そして、それが一番失いたくなかったのだと言う事にも。私は呆然としたまま、彼女に頭だけ下げてそのまま球場を後にしました。
私の初恋はそうやって終わりを告げました。
その日の夜です。私がここを訪れたのは。私は球場を出た後、しばらく放心状態のまま、行く当てもなく街の中を歩き続けていました。彼女の笑顔、言葉、声―色んなものをただ、思い出しながらふらふらと彷徨っていました。人生で初めてあんな気持ちになりました。もう、どこに居ても何をしても面白いと感じられる気がしないんですよ。気を紛らわせるために、映画を見ようか、ゲームセンターにでも行こうかとも考えましたが、やはり自分の気持ちが行きたがらない。
そうこうしているうちに、気がつくと、日はすっかり暮れていました。「自分は何をしているんだろう」とハッとして、そこでようやく自宅のアパートに帰ろうと電車に乗りこんだんです。
でも、自分で言うのも変ですが、電車の中でも何処か抜け殻のような感じで、彼女の事ばかりが頭を駆け巡っていました。心の整理は全く付かず、そして、まっすぐ家に帰りたくなかったのもあったのでしょう。自宅から数駅離れたところで電車を降り、偶然このバーに辿り着いたんですよ。
先ほども言ったように、何を、どれだけ注文したのかまでは覚えていませんが、相当飲んだ事は間違いありません。どうやって帰ったのかも記憶にありませんが、気付いたら私は自分のアパートで寝ていました。
彼女とはその時以来、会っていません。今待っているのはその彼女なんです。
え?何故、その彼女をここで待っているのか?。そう、それが不思議なんですよ。あれは、私が大学を卒業して三ヶ月ほど経ったときのことでしたね。結局私は内定をもらっていた地元の商社に就職し、仕事にも少しずつ慣れてきたときのことでした。一通の手紙が届いたんです。それはおそらく彼女からでした。
そこには長々しい文章などはなく、「十年後の佐原君の誕生日にBAR Eternityに来てほしい」とだけ書かれていました。名前が無く、あまりにも簡潔だったんで、彼女が書いたものかどうか疑いました。私がこのバーに来たのはその一回だけですし、一人で来たんですから、このバーを指定してきたのも奇妙に感じました。もちろん、彼女と来たこともありません。ですが、その字はまぎれもなく彼女の字でした。彼女の字は、野球のノートで何度も何度も見ていましたから。ただ、返信をしようにも彼女の住所は書いていなかったので、それからも連絡は取っていません。何故、彼女がそんな手紙をよこしたのか、ここで何が起きるのかは全く分からないままなんです。ただ、もう一度、彼女に逢えるのだとしたら、逢いたいです。私の人生の中で、彼女はそれだけ、特別な存在でしたから。
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