3章 夕霧

第1話

 117番は戦災孤児だった。

 物心がついたころには、既に家族は亡く、孤児収容施設にいた。

 コンクリートが武骨に露わにされたままの意匠、照明が等間隔に天井に並ぶ長い廊下に囲まれた中庭を持つ管理棟、400メートルのトラックが二つ並んだ広大なグラウンド、1000人が一度に座る事の出来る食堂、300人収容の収容棟が5棟、そしてそれを囲む10メートルの高さの壁。

それが117番の原風景。


「テメェ!いい加減にしろ!」

 怒号が飛ぶ。収容される人間は0~18歳。人語を介するようになった収容者は、皆怒鳴られる。5歳の117番もそれは例外ではなかった。そして、飛んでくるのが怒号だけならどれだけよかったことか。

「お前はそこで寝てろ!!!」

 強烈な前蹴りが117番の腹部を襲う。管理棟の廊下で、117番は40歳台の男に蹴飛ばされ、嘔吐していた。内臓が混ぜられる感覚。ぽっかりとお腹に穴が開いたような感覚。両手を床に置き、吐瀉物を口の周りにつけたまま、117番は顔をあげた。

「いいか、テメェは捨てられたんだ!!テメェの行くところなんてねえんだよ!!『ココを出たい』だ?出てどうするつもりだ?体でも売るつもりか?ハハハッ、そりゃいいな、売れるもんなら売ってみやがれ!生憎だがここがテメェのスウィートホームでな、出ることは叶わねえんだけどな!!ありがたく思えクソが!」

 必要以上に怒鳴りつける。言う必要のない言葉が並べられた罵り。117番は口許を袖で拭って立ち上がった。

「テメェのそのシャツを誰が洗うんだ?あ?その床を誰が綺麗にするんだ?ああ?」

「お前じゃないだろ」

 117番の反論。身長が腰の高さにも満たない117番を、男はまた蹴飛ばした。

「うるせえ!部屋から抜け出して管理棟に忍び込むバカの相手をしてる暇はねえんだよ!」

 管理棟の廊下だけは清掃システムがピカピカに磨き上げており、117番の衣服は一切汚れなかった。117番がまき散らした吐瀉物も、床のスリットにいつのまにか吸収されている。革命的最新技術と謳われた、壁面ディスプレイに煌びやかな映像が映し出されている。今度公開する映像作品の広告だった。主人公が拳銃片手に広大な世界を孤独に旅をする話。文明の傘の下に暮らす街住人インナーは、それこそ『外』には目もくれない。117番たちのような外地人アウターに、娯楽を享受する権利は一切ない。

 顔色を悪くしたまま食堂に向かった117番は、自分の座席に座る。【117】と刻印された金属質な椅子は、深く座るとひざ裏が痛いほど角ばっている。椅子と同じ材質のテーブルは、真冬には直に触れると手が貼り付くほど冷たくなる。

 目前の、栄養価が整えられたゼリーのはいったチューブ1本が、収容施設の住人が全員等しく与えられた昼食だった。117番はそれを、そっとポケットにしまいこむ。

「またそれか」

 向かいに座る16歳の少年が117番に言った。

「食わねえのはいいけどな。それでお前、死んだりするんじゃねえぞ。お前の死体を片づけんの、俺たちなんだからな」

 チューブを味わうようにゆっくりと吸う少年の目に、生気は感じられない。少年だけではない。皆一様に生命力に乏しい。生きた目を持つ人間はいなかった。

「………わかって、る……」

 117番は返事した。絞り出すような声。顔色が悪い。ぼんやりとした視界に映る目の前の少年の名前も知らないが、【116】という番号が振られていることだけは知っている。昼間に何の仕事を割り振られているのかは、口ぶりからなんとなくわかった。施設内での過酷な生活に落伍した人間の世話、あるいは処理をする仕事だ。誰かが病気になれば看病する。誰かが死ねば死体を燃やす。

 117番の仕事はファーマーだった。グラウンドに作物を植え、それを管理する仕事。芋などは六日もあれば収穫できる。本来機械が行うはずの仕事を、この収容施設では人間に行わせていた。それはつまり、人間の体力をギリギリに保つことで、管理を行いやすくするというメリットのためだった。収穫された作物は捨てられるか、『街』の人間に売られて施設管理人の小遣いになる。本人たちの口に入る分は無い。

 116番の少年の仕事も、故意に毒物を盛られ容体を悪化させられた仲間を看病することの方が多かった。栄養面は完璧な生活のため、健康被害はほとんど起きない。衛生状態も良好な施設だ。収容棟の清掃も116番のグループが受け持っている。

「おい」

 116番が飲み切ったチューブをテーブルに投げる。吸い込まれるように消えたチューブから目線を上げると、机に突っ伏す117番が見えた。

「おい!」

 勢いよく立ち上がり、116番はテーブルに飛び乗った。回り込むにはテーブルは長すぎたからだ。肩を掴んで顔を上げさせると、土気色の顔と口から溢れる泡混じりの血が見えた。驚きのあまり一瞬硬直する116番だが、この117番の症状には見覚えがあった。

「429番が死んだときと同じだ…」

 116番は117番を抱き上げると、振動を与えぬように『医務室』へ歩き出した。


 

 食堂で117番が意識を失ってから数時間後。「医務室」と看板が掲げられた大部屋。ここには100年以上前に作られた、鉄パイプで組まれたベッドが100基ほど並べられている。それ以外には80年前に作られた事務机の上に、50年前に置かれてから一度も使われていない救急箱が置かれている。

 ベッドの群れのなかで、一番出入り口に近いものの上で117番は目覚めた。体中あちこちが手当てされていた。起き上がり、ベッドから抜け出す。サイドテーブルに117番のものではないシャツとパンツが置かれているのを見て、初めて自分が肌着と下着でいることに気付いた。

(手当されてる。それに、お腹も痛くない)

 食堂では激烈な腹痛におそわれていた。普段から時折食事を摂らずに懐にしまいこむことが多かったおかげで、すぐに異変に気付いてもらえなかった。管理者たちに見つかればリンチに遭って二度と戻ってこられない。この場所で体調不良を訴え出ることは死に直結している。このことがストレスになり逆に体調を崩す人間も多くある。

 服を着て、自室に戻る。すでに時刻は17時を回っていた。17時から18時の間は収容者に自由時間が与えられている。といっても、娯楽の無いこの場所ではそんなものは睡眠時間に他ならない。18時からの食事時間に寝過ごすものも毎日ちらほらいる。

 自室に戻り、扉を閉めた。その後すぐ、タヌキは隣の部屋を尋ねた。

「ああ、なんだオマエか」

 116番がぶっきらぼうに応対する。

「え、と、あの、ありがとう」

 117番は116番が助けてくれたのだと思っている。だが、確信がない。とりあえず、礼を言った。

「あー、まぁ、気にするな」

 116番はプロセッサーだった。多くの物ごとの後処理をする仕事。片づけと言ってもいい。その過程で彼が手に入れた知識は117番の命を救った。117番を医務室のベッドに寝かせた後、窓から抜け出した。医務室の裏手には実験棟があり、プロセッサーはそこでの作業の清掃も行う。ここの端末には収容者の生体ログがとってあり、毎朝食堂の入り口8カ所でスキャニングされデータが更新されている。つまり、毎日収容者の肉体がどんな動きで、どんな作用をして、どうなっているのかがわかる。管理者はセーフティロックを面倒がってかけていないため、116番はそこから今日の朝の117番の生体ログデータを呼び出した。

 次に、生体座標復元カプセルを取り出す。これは管理棟の清掃時に2粒だけ見つけたのをくすねていたもので、生体ログをダウンロードしておくと「そのダウンロードされた生体に今の肉体を戻す」という効能のあるものだ。効果はひと粒で臓器1~2つ程度。筋細胞には作用が大きいが神経細胞にはほとんど効果はない。大変便利な代物だが、その金額はとてつもなく高価で、ひと粒あれば『街』に住むための上納金を支払うことができるだろう。

 そんな金額とは知らない116番は、端末から伸びるカプセルポートに生体座標復元カプセルをセットし、117番の胃、十二指腸、小腸、大腸とその周りの部位の座標をダウンロードした。幸い、117番は5歳の子供であったため、すべてのデータを2粒に収めることが出来た。

 それを注入器に装填し、117番のみぞおちあたりに射出した。

「ううう……、――――」

 呻いていた117番が、突然静かになった。破れていた内臓が元の位置に戻り、体内に零れていた血液が近くの細胞から吸収され、血管に戻った。眉間のしわが緩み、粗かった呼吸が落ち着いた。

「……」

 それを見届け、116番は自分の役割に戻った。

 死んだ妹にそっくりな、その女の子を助けた116番の口許には、達成感が浮かんでいた。


 18時を回っても、117番は自室にいた。食事の時間になったというのに。

 蓄えこんだ大量のゼリーチューブを始めとした自分の荷物を、支給されたシャツを結んでつくった袋に詰め込んでいる。

 この収容施設で、

 117番の姿を見た者は、

 この日を境にしてひとりもいない。

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