第33話

 一方、景元(かげもと)は正衡(まさひら)の弁論…、被告人の立場にある己の弁論に聞き入り、正衡(まさひら)に感謝すると共に、その弁論に唸(うな)った。なぜなら、景元(かげもと)が予(あらかじ)め考えていた弁論と一言一句、違(たが)わなかったからだ。仮に、正衡(まさひら)の弁論がなければ景元(かげもと)は自己弁護するつもりであったが、己の代わりに正衡(まさひら)が弁護してくれたので、自己弁護する必要はなかった。将軍・家慶(いえよし)も正衡(まさひら)の弁護に聞き入り、深くうなずいているように見えた。それは決して景元(かげもと)の希望的観測ではなく、忠邦(ただくに)の目から見てもやはり、深くうなずいているように見えた。


 そして家慶(いえよし)は景元(かげもと)の顔をジッと見つめると、何かに気付いたらしく、おや、という顔をしたかと思うと、「遠山」と声をかけた。


「ははっ」


「遠山よ。その顔の疵(きず)は如何(いかが)いたしたのじゃ?」


 それは昨日、景元(かげもと)が久しぶりに弟分である正容(まさかた)と、


「じゃれあった」


 時分にできた疵(きず)であったが、しかし、景元(かげもと)は、


「されば、鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)の両名と取っ組み合った時にできた疵(きず)でござりまする」


 そう嘘をついた。当然、名を挙げられた耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)は二人共、ギョッとしたような表情となった。


「ほう…、鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)の両名と取っ組み合った時にできた疵(きず)とな?」


 家慶(いえよし)が確かめるように尋ねると、景元(かげもと)は「ははっ」と応じた。すると即座に「暫(しばら)くっ」と忠職(ただもと)より待ったがかけられた。


「何じゃ?」


 家慶(いえよし)は景元(かげもと)の横で耀蔵(ようぞう)と並んで座る忠職(ただもと)に冷たい一瞥(いちべつ)をくれた。


「恐れながら、それがし…、それに鳥居(とりい)もでござりまするが、遠山の顔に手疵(てきず)を負わせたことなどござりませぬ」


 忠職(ただもと)はそう言い訳した。いや、それが真実であった。だが家慶(いえよし)の反応は鈍かった。


「ほう…、さればその方らは、二人して遠山一人に良いようにやられて、遠山に対してはまったく、一つも手疵(てきず)を負わせることができずに、一方的にその方らが手疵(てきず)を負ったのだと、そう申すのだな?」


 耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)の顔にはできたてほやほやの痣(あざ)があちこちに浮かび、さらに鼻には鼻紙が詰められていた。止血のためであった。そして肩衣(かたぎぬ)は見苦しいまでにボロボロであった。それに対して景元(かげもと)は顔に手疵(てきず)が少しだけあるだけで、衣服は綺麗そのものであった。景元(かげもと)が一方的に耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)をボコボコにしたのは一目瞭然(いちもくりょうぜん)であった。


 それでも景元(かげもと)が顔に作ったその手疵(てきず)を耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)の二人にやられてできた疵(きず)とあえて嘘をついたのは、これが喧嘩であると認定させるためである。


 忠職(ただもと)は即座にはその意図に気付けなかったようだが、さすがに「妖怪」の異名(いみょう)を奉(たてまつ)られた耀蔵(ようぞう)は即座にその意図に気付いたらしく、懸命(けんめい)に、景元(かげもと)に手疵(てきず)など負わせていないと否定する忠職(ただもと)の袖(そで)を引いて、忠職(ただもと)に二言三言(ふたことみこと)、何かを耳打ちして忠職(ただもと)の口を閉じさせると耀蔵(ようぞう)は苦虫を噛(か)み潰(つぶ)したような表情をした。


 耀蔵(ようぞう)は…、それに忠職(ただもと)も、ジレンマに陥(おちい)っていた。もしここで景元(かげもと)の「嘘」を受け入れ…、つまりは「喧嘩」であると認めれば、


「喧嘩(けんか)両成敗(りょうせいばい)」


 ということとなり、景元(かげもと)が処罰されるのは当然として、景元(かげもと)と「拳を交(まじ)えた」ことになる耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)も処罰されることになる。


 だがもし、あくまで景元(かげもと)の「嘘」を受け入れず、「喧嘩」でないと認定されれば、景元(かげもと)による一方的な暴行傷害と認定されるだろうが、しかしそれは同時に、本来、「武人」でありながら、景元(かげもと)から殴る蹴るの無法を働かされながら、それにまったく抵抗しなかった耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)は、


「武人失格」


 と認定されて、最悪、御役御免(おやくごめん)差控(さしひかえ)の上、小普請(こぶしん)入りを命ぜられるやも知れなかった。どちらを取るにしろ、処罰は免れない。だとしたら、極めて不本意ではあるものの、ここは景元(かげもと)が投げかけた、「救命ボート」に乗るより他になかった。


「それがし、勘違いをいたしておりました…」


 耀蔵(ようぞう)は如何(いか)にも苦々しげな表情でそう切り出すと、「さればそれがし、遠山めに手疵(てきず)を負わせましてござりまする」と申し立てた。


「左様か…、左様であろうな。武人なれば当然、そういたすであろうな…」


 家慶(いえよし)は満足気な表情でそう応じると、


「さればこれは喧嘩、喧嘩は両成敗がご定法(じょうほう)だな」


 己に言い聞かせるようにそう言った。するとそこで、正衡(まさひら)が「恐れながら…」と割って入った。


「直答許す。申せ」


「ははっ。されば遠山らが喧嘩に及びし場は主に玄関の外にて、されば殿中にあらず、しかもそもそも、刃傷沙汰(にんじょうざた)までにはいたっておりませぬゆえ、ここは一つ…」


「なかったことにいたせ…、そう申したいのであろう?」


 家慶(いえよし)は先回りして答えると、正衡(まさひら)は「ははぁっ」と平伏(へいふく)した。


「うむ。余(よ)も同じことを考えていた。されば、此度(こたび)に限り、遠山、及び鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)の罪は不問といたす」


 家慶(いえよし)はそう判決を…、親裁を下した。忠邦(ただくに)は露骨に不服そうな表情を浮かべたものの、将軍の親裁である以上、異議を差し挟(はさ)むことは元より許される筈(はず)もなく、


「ははぁっ」


 と不服そうな表情を浮かべながらも平伏(へいふく)し、それを潮(しお)に、皆も平伏(へいふく)した。


 だがそれでも忠邦(ただくに)にはまだ切り札が残されていた。


 平伏(へいふく)していた忠邦(ただくに)は暫(しばら)くしてから頭を上げると、「恐れながら…」と切り出し、それで皆も頭を上げた。


「何じゃ?余(よ)の裁きに不服でもあると申すか?」


 家慶(いえよし)は前もって封じるようにそう言った。


「滅相もござりませぬ」


「されば何じゃ?」


「ははっ。されば遠山には別の嫌疑がござりまする」


「別の嫌疑じゃと?」


「御意(ぎょい)」


「一体、如何(いか)な嫌疑ぞ?」


「されば過(す)ぐる年…、天保8年は8月14日、その行状、不正のことども聞こえしかば、麻布日ヶ窪(あざぶひがくぼ)の上屋敷にて隠居、謹慎を申し付けられておりし内田(うちだ)正容(まさかた)が、こともあろうに上屋敷を抜け出し、愛宕下(あたごした)にありし遠山の屋敷へ向かい、これに対して遠山家では内田(うちだ)正容(まさかた)を説諭して上屋敷に引き取らせるでもなく、それどころか寄宿(きしゅく)せしめる始末でござりまする」


 忠邦(ただくに)は叩きつけるようにそう言った。そしてこれには景元(かげもと)も少なからず驚かされた。正容(まさかた)が現れたのは昨日のことであり、それがもう、忠邦(ただくに)の耳に届いているということは、


「お庭番が動いた…」


 としか考えられなかった。但し、お庭番を動かせるのは将軍を除いては御側御用人と御側御用取次の両名だけであり、老中たる忠邦(ただくに)の身分ではお庭番を動かすことはできなかった。してみると、さしずめお庭番を動かしたのは忠邦(ただくに)と縁戚関係にある御側御用人の堀(ほり)親繁(ちかしげ)より他には考えられなかった。恐らく前もって…、それもかなり前から、忠邦(ただくに)より依頼を受けた親繁(ちかしげ)が、己の屋敷をお庭番に見張らせていたに違いなく、それが昨日になって己の屋敷に動きがあったことを…、すなわち、本来、麻布日ヶ窪にて大人しく隠居している筈(はず)の正容(まさかた)が己の…、遠山家の屋敷を訪れ、あまつさえ、帰るよう説得するでもなく、それどころか一泊させたと…、お庭番より報(しら)せを受けた親繁(ちかしげ)が今朝方にでも忠邦(ただくに)に告げたに違いなかった。


「こいつは困ったことになったな…」


 確かにこの件に関しては、景元(かげもと)は一切、言い訳ができなかった。するとそうと見て取った忠邦(ただくに)や、それに耀蔵(ようぞう)や忠職(ただもと)までもが形勢逆転とばかり、急に元気を取り戻す始末であった。このままでは今度こそ、景元(かげもと)は息の根をとめられてしまうやも知れなかった。本来、上屋敷にて謹慎していなければならない正容(まさかた)を一泊させたとあれば厳罰は免れなかった。それというのも正容(まさかた)に隠居、謹慎を命じたのは誰あろう、前将軍の家斉(いえなり)であったからだ。すなわち家慶(いえよし)の父親である。前将軍と言えども将軍には違いなく、その将軍の命令に違反したとあらば、厳罰は免れない。


 だが家慶(いえよし)は意外な判断を下した。それもかなり想定外の判断であった。


「なるほどのう…、さればこの場にて内田(うちだ)正容(まさかた)の隠居、謹慎を解く」


「何ですってっ!?」


 忠邦(ただくに)が素(す)っ頓狂(とんきょう)な声を上げた。


「不服か?」


「いえ…、なれど内田めに隠居、謹慎をお命じあそばされしは…」


「余(よ)の父だと申したいのであろう?」


「御意(ぎょい)。されば大御所様のご命令を撤回なさるのは…」


「不忠の極み…、とでも申したいのか?」


「めっ、滅相もござりませぬ」


「余(よ)とて、何でもかんでも父に逆らうつもりは毛頭ない。なれど如何(いか)に父とて人間である以上、間違いはあるよって、その間違いを正すのも将軍の立派な仕事ぞ」


 家慶(いえよし)は口ではそう言いつつも、実際には今でも大御所と呼ばれる父、家斉(いえなり)のことを嫌っており、家斉(いえなり)の命令とあらば撤回してやろうと考えても不思議ではなかった。忠邦(ただくに)もそのことを充分に知っていたが…、だからこそこれまで忠邦(ただくに)は己を老中に任じてくれた家慶(いえよし)と共に、「家斉派」とでも呼べる連中の粛清(しゅくせい)をしていたのだが、「家斉派」の連中を粛清(しゅくせい)し尽くした今、すっかりそのことを失念していた…、と同時に家慶(いえよし)も既に、忠邦(ただくに)から心が離れつつあった…。


 忠邦(ただくに)はそのことを思い出し、「そうであった…」と内心、歯噛(はが)みした。


「されば、内田(うちだ)正容(まさかた)の隠居、謹慎は今、この場をもって解除する。後日、余(よ)が正式に正容(まさかた)にその旨(むね)、申し渡すが、それで良いな?」


 家慶(いえよし)は忠邦(ただくに)に念押しするようにそう言った。元より忠邦(ただくに)としても逆らえるものでもなく、「はは…」と平伏(へいふく)するより他になかった。


「遠山、聞いての通りぞ。思う存分、正容(まさかた)を泊(と)めさせるが良いぞ。何しろ…、正容(まさかた)は遠山の目を覚(さ)ませし功労者なのだからな」


 家慶(いえよし)はそう告げると、悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべた。それで景元(かげもと)はハッとさせられた。どうやらお庭番は側用人の親繁(ちかしげ)に正容(まさかた)を屋敷に泊(と)まらせたことを…、そのうえ正容(まさかた)と取っ組み合いを演じたことまで、将軍・家慶(いえよし)の耳にも入れていたようだ。考えてみれば、側用人の命を受けたお庭番が将軍に対して事後報告しないとは考えられなかった。お庭番は将軍・家慶(いえよし)の耳にも入れていたのだ。だからこそ、


「正容(まさかた)は遠山の目を覚(さ)ませし功労者…」


 という表現となったのだ。景元(かげもと)は恐縮し、「ははぁっ」と平伏(へいふく)すると、暫(しばら)くの間、頭を上げることができなかった。家慶(いえよし)はそんな景元(かげもと)に対し、


「これからは思う存分、正容(まさかた)と暴れるが良いぞ。余(よ)が許すゆえ、思う存分暴れよ」


 景元(かげもと)にそうお墨付きを与える始末であった。忠邦(ただくに)を始め、誰もが仰天(ぎょうてん)したものの、やはり将軍のお墨付きとあれば、例えそれが口頭(こうとう)のものであっても極めて重く、そして、景元(かげもと)に異論などあろう筈(はず)もなく、改めて頭を上げてから再び「ははぁっ」と、今度は前よりも一層、深々と頭を下げた。


 晴れて景元(かげもと)は無罪放免、下城し、大手御門の外に出るとそこには何と正容(まさかた)の姿があった。正容(まさかた)は景元(かげもと)に近付くなり、挨拶(あいさつ)も抜きに、「どうだった」と単刀直入に尋ねた。今日の暴挙について、景元(かげもと)は今朝の段階で正容(まさかた)にも打ち明けていたのだ。


「見ての通り、無罪放免だ」


 景元(かげもと)がそう告げると、正容(まさかた)はそれまでの不安顔が嘘のように払拭(ふっしょく)されると、満面の笑みを浮かべた。正容(まさかた)もやはりそれなりに景元(かげもと)の身を案じていたらしい。それが無罪放免だと分かって、正容(まさかた)は心底からホッとした。


「それともう一つ、上様より温かいお言葉を賜(たまわ)ったぜ」


「何だ?」


「おめぇの隠居、謹慎は今日限りで解除…、後日、おめぇにも正式に通達がいくだろうが、とりあえず今日の段階で隠居、謹慎は解除、ということでおめぇは晴れて自由の身だ」


「そうかっ」


「その上、これからは俺と共に大いに暴れろとさ」


 景元(かげもと)はそう言うと、正容(まさかた)の肩に腕を回し、そして正容(まさかた)もそれにつられて景元(かげもと)の肩に腕を回し、二人は肩を組んで屋敷へと帰って行った。

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