第30話

 翌日、景元(かげもと)はいつもよりも早めに…、午前9時前には御城に着くと、大目付の下部屋(しもべや)において、若年寄が来るのを待ち受けた。他の大目付はまだ、姿を見せてはいなかった。


 そして午前9時になり、大目付の下部屋(しもべや)とは廊下を隔(へだ)てた向かい側にある若年寄の下部屋(しもべや)に勝手掛若年寄である堀田(ほった)摂津守(せっつのかみ)正衡(まさひら)が入る姿を見届けた景元(かげもと)は大目付の下部屋(しもべや)を出ると、その足で今、正衡(まさひら)が入ったばかりの若年寄の下部屋(しもべや)へと向かった。


 正衡(まさひら)はいきなりの景元(かげもと)の登場にさすがに驚いた様子を浮かべた。そして景元(かげもと)の顔に出来た痣(あざ)にさらに驚いた様子を浮かべた。


 他に若年寄はおらず、景元(かげもと)には好都合であった。


「如何(いかが)いたしたのだ?」


 正衡(まさひら)は着衣を整えようとしていた手を止めると、下部屋(しもべや)の出入口に立つ景元(かげもと)に声をかけ、「まぁ、入れ」と言わんばかりに手招きした。


 だが景元(かげもと)は一礼しただけで、部屋に上がることはせず、その代わり懐中より取り出した一通の書状を畳の上に滑(すべ)らせた。


「これは…」


 正衡(まさひら)は一通の書状を手に取ると、これまでになくギョッとした表情を浮かべた。


「御役御免隠居願でござりまする」


 旗本を支配するのは若年寄である。ゆえに隠居願だけならば若年寄に提出すれば良い。だが、景元(かげもと)は今、老中支配の大目付の役職にあった。それゆえ隠居するには大目付を辞任する必要があり、そのため本来、若年寄に提出すべき隠居願は大目付を辞任するための御役御免の願いを兼ねて勝手掛老中に手渡す必要があった。しかし、勝手掛老中は誰あろう、水野(みずの)忠邦(ただくに)である。自分の手から忠邦(ただくに)に御役御免隠居願を手渡すのは非常に癪(しゃく)であり、何より今の景元(かげもと)にはそんな余裕はなかったので、代わりに幕閣(ばっかく)の中で最も親しく付き合っている正衡(まさひら)にその御役御免隠居願を忠邦(ただくに)に手渡してもらうことにした。


「遠山…、短気を起こすな。今少し、辛抱いたさば、再び町奉行に返り咲けるやも知れぬで…」


 確かにその可能性もなくはなかったが、景元(かげもと)の辛抱はもう限界であった。


「申し訳ござりませぬ。なれどもう、辛抱の限界にて…、申し訳ござりませぬが、この遠山の代わりに堀田様より水野様へ、手渡してはいただけませぬか」


 景元(かげもと)は己の胸中を正衡(まさひら)に悟(さと)られまいと、極力、穏やかにそう言った。だが正衡(まさひら)は景元(かげもと)の「異変」に気付いたらしく、


「遠山…、そなた、何を考えておる?」


 そう訝(いぶか)しげな表情で尋ねた。


「いえ、何も考えてはおりませぬよ」


 景元(かげもと)は笑顔でそう嘘をついた。だが正衡(まさひら)は景元(かげもと)の様子からただならぬものを感じた。だが、ここで景元(かげもと)を追及してみたところで、


「遠山は口を割るまい…」


 正衡(まさひら)にはそれが分かっていたので、代わりに盛大な溜息(ためいき)を一つつくと、


「相わかった。確かにこれは預かろう」


 諦めた口調でそう答えた。すると景元(かげもと)は一礼して、下部屋(しもべや)を出て行った。


 さて、正衡(まさひら)に御役御免隠居願を預けた景元(かげもと)は再び、大目付の下部屋(しもべや)に戻ると、今度は南町奉行の鳥居(とりい)耀蔵(ようぞう)が姿を見せるのを待ち受けた。町奉行の下部屋(しもべや)は大目付のすぐ隣、奥側にあるので、必然的に大目付の下部屋(しもべや)を通り過ぎることになるので、すぐに分かる。


 今月は北が月番であるので、本来ならば、月番でない南の町奉行である耀蔵(ようぞう)は昼の老中の「廻り」の前までの登城すれば良かったのだが、今日3月4日は辰ノ口の評定所において三奉行…、寺社奉行、江戸町奉行、公事方勘定奉行の三奉行で審理を行う立合(たちあい)日であるので、月番でなくとも、立合(たちあい)が始まる午前10時前までに登城しなければならず、月番でない南の町奉行である耀蔵(ようぞう)も今日は月番の時と同様、午前10時前までに町奉行の下部屋(しもべや)に到着し、そこで衣服を整えてから再び、御城をさがって辰ノ口にある評定所に向かうことが予想された。景元(かげもと)は正にそこを…、耀蔵(ようぞう)が町奉行の下部屋(しもべや)に入るところを掴(つか)まえるつもりであった。


 そしてそれから暫(しばら)くするとお目当ての耀蔵(ようぞう)が大目付の下部屋(しもべや)を通り過ぎる姿を景元(かげもと)はその目でしっかりと捉(とら)えたので、慌てて下部屋(しもべや)を飛び出すと、今正に、町奉行の下部屋(しもべや)に入ろうとしていた耀蔵(ようぞう)の背中に向けて、


「鳥居殿」


 と景元(かげもと)は声をかけた。すると耀蔵(ようぞう)は立ち止まり、声の主である景元(かげもと)の方へと振り返った。耀蔵(ようぞう)もまた、正衡(まさひら)同様、景元(かげもと)が顔に作った痣(あざ)に驚いた様子であった。


「これはこれは遠山殿…、如何(いかが)いたされたので?」


「いやぁ、実は鳥居殿に話がござってな」


「ほう…、話とな?」


「左様」


「ふむ、して話とは何ぞや?」


 小首をかしげてみせる耀蔵(ようぞう)に対して景元(かげもと)は、「話ってのはこれだよ」とだけ言うと、右拳を耀蔵(ようぞう)の鼻柱に叩きつけた、


 景元(かげもと)はぐしゃり、という音と共に右拳には確かな手応(てごた)えを感じた。事実、耀蔵(ようぞう)は涙と鼻血と鼻水を盛大に噴出(ふきだ)させ、両手で鼻を押さえたまま、その場に崩れ落ちた。


 だが景元(かげもと)はそれで許してやるつもりは毛頭なく、今度は未だに鼻を両手で押さえたままの耀蔵(ようぞう)の左頬めがけて蹴りを食らわし、倒れ込ませると、景元(かげもと)は耀蔵(ようぞう)の襟首(えりくび)を掴(つか)んで玄関口まで引っ張って行くと、玄関口からそのまま外へと耀蔵(ようぞう)を放り投げたかと思うと、景元(かげもと)も外へ出て、さらに耀蔵(ようぞう)に殴る蹴るの暴行を加えた。その間、他の諸役人もさすがに「異変」に気付いたらしく、景元(かげもと)が耀蔵(ようぞう)に暴行を加えているその様子を遠巻きに眺めていた。だが、ただ眺めているだけで、助けようとする者もいなければ、助けを呼ぶ者さえもいなかった。如何(いか)に耀蔵(ようぞう)が嫌われていたか分かろうと言うものである。


 それでもやがて幕府の警察執行部隊とも言うべき目付が気付いたらしく、景元(かげもと)のその、蛮行(ばんこう)を止めさせるべく、飛び込んで来た。それに対して景元(かげもと)もいつかは目付が駆け付けてくることを予想しており、その時は大人しく、


「縛(ばく)につく…」


 つもりであったが、その駆け付けて来た目付が何と、耀蔵(ようぞう)の金魚の糞(ふん)とも言うべき榊原(さかきばら)忠職(ただもと)だと気付くと、景元(かげもと)はもう少しだけ暴れることにした。


 景元(かげもと)は肩に手を置いた忠職(ただもと)のその手を掴むと、一本背負いを決め、そして、地面に叩き付けた忠職(ただもと)の顔面にも渾身(こんしん)の蹴りを入れ、耀蔵(ようぞう)と同様、涙と鼻血と鼻水を盛大に噴出(ふきだ)させたのであった。


 それから暫(しばら)くの間、景元(かげもと)は一人で耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)の二人に、交互に暴行を加えた。さすがに一人で二人を相手にするのは疲れるが、幸いにも二人はすっかり抵抗する気力も失せ、完全に景元(かげもと)のサンドバッグと化したので、景元(かげもと)としては思う存分、暴行を加えることが出来た。ちなみに忠職(ただもと)に関しても、耀蔵(ようぞう)同様、誰も助けようとはせず、また、助けを呼ぶ者もおらず、耀蔵(ようぞう)同様、皆から嫌われていることが分かった。

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