第29話
「それで…、伊勢守(いせのかみ)様、本日のご用向きは?」
景元(かげもと)はあくまで、「貞吉(さだきち)」ではなく、今の「正容(まさかた)」として接することにした。そんな景元(かげもと)に対して正容(まさかた)は淋(さび)しげな表情を浮かべて、本体に入った。
「兄貴のことが心配になったからよ」
正容(まさかた)の方はどうやら景元(かげもと)のことを、「金四郎の兄貴」として接するつもりのようだった。
それにしても景元(かげもと)には正容(まさかた)が一体、自分の何を案じてくれているのか、それが分からず、「この景元(かげもと)の何を案じておいでなので?」と尋ねた。
「決まってんだろ?鳥居(とりい)の野郎にいいようにやられたことをさ」
それで景元(かげもと)には合点(がてん)がいった。あの場…、景元(かげもと)が鳥居の野郎、こと耀蔵(ようぞう)にいいようにやられ、挙句(あげく)、跡部(あとべ)良弼(よしすけ)に助けてもらったあの白書院の勝手には正容(まさかた)の嫡男であり、現・小見川(おみがわ)藩主の正道(まさみち)の姿もあり、きっと上屋敷に帰邸後、父・正容(まさかた)に対してその様(さま)を語って聞かせたに違いない。
「兄貴らしくねぇじゃねぇか」
「はっ?」
「昔の兄貴なら、あんな野郎、ぶん殴ってるところだろうがっ」
「もう昔の兄貴ではござりませぬよ」
景元(かげもと)は微笑すると、
「もう時は移ろいましてござります。あの頃から…」
「時が移ろったからって…、何だって言うんだよ…」
正容(まさかた)は声を震わせた。
「もう、昔の金四郎ではない、ということでござりますよ」
景元(かげもと)がそう告げると、「違うっ」と正容(まさかた)は怒鳴った。
「兄貴は兄貴だろうがっ!」
「違いまする」
「何が違うんだよっ」
「もうあの頃の兄貴ではござりませぬ。今、伊勢守(いせのかみ)様の目の前におりますこの景元(かげもと)は出世欲にまみれし、ただのつまらぬ男でござりますよ」
しかもその出世にも破れたがな…、景元(かげもと)は心の中でそう付け加えた。
「そうかよ…、それなら…、昔の兄貴に戻らせてやるぜっ!」
正容(まさかた)はそう言ったかと思うと、素早く景元(かげもと)に飛びかかったかと思うと、正容(まさかた)はかつて、河原でそうしたように景元(かげもと)に馬乗りになり、殴りつけた。
一方、景元(かげもと)は最初、何が起こったのか飲み込めなかった。ただ頬の痛みから己が殴られたのだと認識した。そして三発目、殴られそうになったところで、景元(かげもと)も正容(まさかた)に殴り返した。そして、正容(まさかた)を払いのけると、今度は景元(かげもと)が正容(まさかた)に馬乗りになり、三発殴った。きっちり倍の四発、殴り返した計算である。どうやら昔の、「金さん」の血が騒いだようであり、正容(まさかた)もかつての、「兄貴」が漸(ようや)く戻ってきてくれたんだと、そう思い、痛みに顔を歪(ゆが)めさせつつも、どこか嬉しげであった。
景元(かげもと)は正容(まさかた)を殴り終えると、息を喘(あえ)がせつつ、正容(まさかた)から離れた。昔の景元(かげもと)、もとい金四郎ならこの程度で息が上がることはなかったものの、今は少しの「運動」だけで息が上がってしまう。それだけ年を取った証(あかし)とも言えた。
「それでこそ…、兄貴だぜ…」
正容(まさかた)は鼻と口元から血を流しつつ、実に嬉しそうに起き上がった。
「違うって言ってんだろうが…」
景元(かげもと)はそう答えつつも、口調はすっかり金四郎の頃に戻っていた。
「違わねぇよ」
「俺にはもう、守るべきもんがあるんだ…」
遠山家の主(あるじ)として軽挙(けいきょ)妄動(もうどう)は許されなかった。昔の金四郎のように好き放題、暴れ回るわけにはゆかなかったのだ。
「それがどうしたよ、俺だって藩主だったが、その座を捨ててやったぜ」
「そのおかげでどれほどの者が迷惑を蒙(こうむ)ったことか…」
「ああ。でも俺はてめぇを偽(いつわ)ることができなかったんだよ」
「てめぇを偽(いつわ)る、か…」
「ああ。だから兄貴ももう、てめぇを偽(いつわ)るのは止めにしようや」
「そうはいくか。俺には遠山家の主(あるじ)としての責任がある」
「なら、主(あるじ)なんて辞めちまえよ」
「主(あるじ)を辞める、か…」
「おおよ、そんでまた、二人で暴れ回ろうや」
「そうだな…、それも悪くはないな」
正容(まさかた)が本気でそう言っているとも思えなかったが、それでも景元(かげもと)は急に肩の荷が下りたような、そんな気分になった。遠山家の主(あるじ)の座を倅(せがれ)の国太郎(くにたろう)に譲ってしまえば、もう何もかも捨てられる…、そんな気分であった。出世に破れ、そして正容(まさかた)と昔のように殴り合った景元(かげもと)はもう、何もかも脱ぎ捨てたいそんな気分になっていた。
「だがその前に、きっちりと鳥居(とりい)の野郎にはけじめをつけねぇとな」
「ああ、勿論だ。だがその前に、もう一つだけ、けじめをつけておく必要がある」
「何だ?」
「おめぇに謝らなきゃならねぇことがあんだ」
「何だ?」
「おめぇが強制隠居させられた時のことよ。俺はおめぇが強制隠居させられて、江戸城から姿を消すと、喜んだものだ…」
「俺との付き合いがバレちまったら、出世にも影響すっからな…」
「気付いていたのか?」
景元(かげもと)はさすがに驚かされた。
「俺がまだ藩主として、御門の警衛(けいえい)を任されていた頃、兄貴が俺の元を通り過ぎるたんびに迷惑そうな表情を浮かべてたから、ああ、こいつはきっと、兄貴は俺のことが迷惑なんだな、ってそう思ったもんだぜ」
正容(まさかた)のその言葉を耳にして、景元(かげもと)は胸が締め付けられる思いであった。
「済まねぇ…、傷つけちまって…」
「別に何とも思ってねぇよ」
「もしかして…、御城勤めを怠(おこた)るようになったのも…、江戸城に姿を見せなくなったのも、俺のためか?俺との付き合いがバレちまったら、俺の出世に響くからって、それじゃあ可哀想(かわいそう)だと、そう思ってくれてのことか?」
正容(まさかた)は曖昧(あいまい)な笑みを浮かべただけだった。それで景元(かげもと)には充分であった。
「済まねぇ…、おめぇを傷つけちまって…」
「おい、よしてくれよ。俺はあくまでてめぇの意思で…、女と遊びたかったから登楼(とうろう)しただけだぜ。別に兄貴のためなんかじゃねぇってばよ」
正容(まさかた)は景元(かげもと)に頭を上げるように促(うなが)した。だが景元(かげもと)は中々頭を上げることが出来ずにいた。そんな景元(かげもと)の頭を正容(まさかた)は強引に上げさせた。
「それに出世欲にまみれた兄貴もまた、兄貴に他ならねぇ」
「そうか…」
景元(かげもと)は正容(まさかた)の心遣いが身に沁(し)みた。
「出世欲でぎらぎらしてる兄貴も兄貴だって、俺は受け入れられた。だけど今のような情けねぇ兄貴はとてもじゃねぇが、兄貴とは受け入れられねぇぜ」
「情けねぇ、か…」
「ああ。情けねぇぜ、あんな鳥居みてぇな糞(くそ)野郎に良いように言い負かされてよ…」
「口論じゃ太刀打(たちう)ち出来ねぇかんな…」
「別に鳥居の糞(くそ)野郎の土俵(どひょう)に立つことねぇだろうが」
正容(まさかた)はそう言うと、ニヤリと笑みを浮かべた。正容(まさかた)が何を言おうとしているのか、景元(かげもと)には勿論、分かっていた。景元(かげもと)自身、正容(まさかた)と同じことを考えており、しかし、これまで実行できずにいただけだからだ。
「俺の土俵(どひょう)に上げちまえば良いってわけだな?鳥居の糞(くそ)野郎を…」
景元(かげもと)がそう応じると、正容(まさかた)は実に嬉しげにうなずき、そして景元(かげもと)の手を取った。
「兄貴にはこの手が…、いや、この拳があんだろ?鳥居の糞(くそ)野郎が逆立ちしてもかなわねぇ、この拳がよ」
正容(まさかた)の言葉に景元(かげもと)はうなずいた。
景元(かげもと)は正容(まさかた)を抱き寄せると、「あんがとな」と言った。正容(まさかた)は景元(かげもと)の胸の中で実に嬉しげに笑っていた。昔の「貞坊(さだぼう)」に戻ったかのように…。
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