第28話
貞吉(さだきち)が豊録(ほうろく)として内田家を継(つ)いだのは文化13(1816)年、8月のことであった。貞吉(さだきち)が金四郎と別れてから2年目であった。そして12月には今の正容(まさかた)に名を改めて、伊勢守(いせのかみ)に叙任(じょにん)されたのであった。
その頃はまだ、金四郎は実家にて、妻女のけいと共に景善(かげよし)の看病に明け暮れ、御城勤めはまだ先のことであった。その代わり、父・景晋(かげみち)が時を同じくして長崎奉行から作事奉行へと栄転を果たし、城内にて貞吉(さだきち)改め正容(まさかた)とすれ違うことも度々(たびたび)であったらしい。
そして文政7(1824)年に兄・景善(かげよし)を看取(みと)った金四郎は翌年、西城…、その頃は今の将軍である家慶(いえよし)が次期将軍として西城の主(あるじ)であり、本城の主(あるじ)、即(すなわ)ち時の将軍は家斉(いえなり)であった…、その西城の小納戸(こなんど)として登用されたのであった。金四郎もまた、難関である小納戸(こなんど)の「吟味(ぎんみ)」…、試験に突破したのであった。
そうして遠山(とおやま)金四郎(きんしろう)として御城に出仕するようになると、父・景晋(かげみち)同様、金四郎も貞吉(さだきち)改め今の正容(まさかた)とすれ違うことも度々(たびたび)であった。尤(もっと)も、それは御殿の中ではなく、御門においてであった。
江戸城36見附(みつけ)と称されるように、江戸城には主要な見附(みつけ)、即(すなわ)ち、御門が36あり、そのうちの一つである和田倉御門の警衛(けいえい)を担っていたのが他ならぬ正容(まさかた)であった。
正容(まさかた)が和田倉御門の警衛(けいえい)を担っている頃、金四郎の父・景晋(かげみち)は作事奉行から更なる栄転を果たし、勝手方勘定奉行として、そして金四郎自身は家督相続前ではあるが西城の小納戸(こなんど)として、毎日、親子揃って江戸城に登城していたわけだが、旗本の通用門は数寄屋橋御門ただ一つであり、その数寄屋橋御門を潜(くぐ)って、八代洲河岸(やよすがし)を通り、そしてすべての諸大名や旗本らの共通の通用門とも呼ぶべき大手御門へと辿(たど)り着くわけだが、その八代洲河岸(やよすがし)の道中に和田倉御門があり、そこで警衛(けいえい)の責任者として家臣を指揮する正容(まさかた)の姿をほぼ毎日…、正確には毎年師走から翌年の8月にかけて、見かけたものであった。
和田倉御門の警衛(けいえい)は本来、2万石から3万石の譜代大名の担当であり、本来ならば1万石の外様大名に過ぎない正容(まさかた)の就(つ)くことが出来るポストではなかったものの、その当時は御門の警衛(けいえい)を任せられる適当な譜代大名がいなかったので、1万石の外様大名に過ぎない正容(まさかた)にお鉢(はち)が回ってきたのであった。それと言うのも、江戸城の御門の警衛(けいえい)ともなれば、当たり前の話だが、江戸に在府している大名に限られ、しかし、当時の譜代大名は老中や若年寄の職についていたり、あるいは京都所司代や大坂城代などとして、その任地に赴任(ふにん)していたり、また国許(くにもと)に帰っていたりして、適当な人物が見当たらなかった。
その点、正容(まさかた)は外様大名であり、当時は菊之間(きくのま)に詰めているだけで何の御役にもついておらず、また、関東の大名であるので参勤交代も本来ならば半年を江戸で過ごし、残り半年を国許(くにもと)で過ごすべきところ、正容(まさかた)は12月から翌年の8月にかけての8ヶ月もの間、江戸に在府し、国許(くにもと)には4ヶ月しかおらず、つまり江戸に在府する期間が長いということで、御門の警衛(けいえい)を任すには正にうってつけであり、こうして本来、譜代大名のポストである和田倉御門の警衛(けいえい)を任されることになったのだ。
この時、正容(まさかた)は妻女を娶(めと)っており、それが何と、正容(まさかた)とは同じ、下総(しもうさ)が国許(くにもと)である、佐倉藩主の堀田(ほった)相模守(さがみのかみ)正愛(まさちか)の妹の多鶴(たつる)を娶(めと)ったと、金四郎が知った時には心底から驚いたものである。金四郎も同じ堀田一族である、堀田(ほった)伊勢守(いせのかみ)一知(かずとも)の妹を娶(めと)っており、何か目に見えぬ縁を感じたものである。縁と言えば、その正愛(まさちか)も、金四郎の兄の景善(かげよし)と同じく文政7(1824)年に亡くなったのも何かの縁を感じさせた。
こうして当初は真面目に御城勤めをしていた正容(まさかた)であったが、多鶴(たつる)が嫡男…、今の小見川(おみがわ)藩主の正道(まさみち)を産むや、産後の肥立(ひだ)ちが悪く、あっという間に亡くなってしまった。それが正容(まさかた)が乱行(らんぎょう)にいたるきっかけであった。いや、元の姿…、貞吉(さだきち)の時分(じぶん)に戻っただけなのやも知れぬ。
正容(まさかた)は御城勤めを怠(おこた)り、ほぼ連日連夜、遊興にうつつを抜かすようになった。吉原において、己のことを、「梅様」と呼ばせていい気になっていたものであり、そのことは既に、名を金四郎から今の景元(かげもと)に名を改めていた金四郎もとい景元(かげもと)の耳にも入った。景元(かげもと)は心底から正容(まさかた)のことを案じたものの、旗本に過ぎない景元(かげもと)が大名に意見できる筈(はず)もなく、見過ごすより他になかった。いや、意見しようと思えばできないことはなかったが、この時の景元(かげもと)は正容(まさかた)にいらざる意見をすることで、自分が放蕩(ほうとう)の限りを尽(つ)くしている正容(まさかた)と仲間なのかと、そう受け取られる恐れがあり、そうなれば己の出世にも響くと、景元(かげもと)はそれを恐れ、見過ごしたのであった。最早(もはや)、かつての「金四郎」の姿はどこにもなかった。
そして放蕩(ほうとう)の限りを尽(つ)くしていた正容(まさかた)にも遂に「終焉(しゅうえん)」の日がやって来た。それは天保8年8月14日のことであった。
「その行状、不正なるを以(も)って…」
正容(まさかた)は強制隠居させられたのであった。但し、「格別の宥恕(ゆうじょ)」により、嫡男である豊録(ほうろく)…、正道(まさみち)に後を継(つ)がせることが認められたので、内田家が取り潰(つぶ)されるのは免れたものの、それでも青山にあった下屋敷を失い、結果、大名でありながら、麻布の日ヶ窪(ひがくぼ)にある上屋敷を残すのみとなってしまい、正容(まさかた)はその上屋敷で隠居することになった。本来ならば国許(くにもと)にて大人しく隠居すべきところ、正容(まさかた)は上屋敷で隠居するのを望み、幕府もそれを認めたために、江戸で隠居暮らしを送ることになった。
そしてその頃、景元(かげもと)は既に今の左衛門尉(さえもんのじょう)に叙任(じょにん)され…、つまりは従五位下(じゅごいのげ)に叙(じょ)され、父・景晋(かげみち)と同様、作事奉行の要職にあった。正容(まさかた)が強制隠居させられたと知り、景元(かげもと)は正容(まさかた)に同情するより、これで正容(まさかた)と親しくしていたことが周囲に知られることはないと、正直、安堵(あんど)したものである。正容(まさかた)は吉原で遊興にうつつを抜かすのみならず、殿中においては意地の悪い坊主などを見つけては、諸肌(もろはだ)脱いで、梅の彫物(ほりもの)を見せびらかしては、脅かすこともあったそうで、
「その行状、不正なるを以(も)って…」
とはただ吉原で遊び呆(ほう)けた罪という以上に、それらもあった。
ともかく、正容(まさかた)が江戸城から姿を消したので、景元(かげもと)は心底からホッとすると同時に、そんな自分が心底から嫌になったものである。そして同時に、正容(まさかた)に対しては、
「羨(うらや)ましい…」
心底からそう思ったものである。正容(まさかた)はある意味、己に正直に生きたと言えた。決して幕府を恐れることなく、昔の「貞吉(さだきち)」として天真(てんしん)爛漫(らんまん)に生き抜いたのだ。それゆえ大名の座を失うことになっても、少しも後悔はしていなかったに違いない。
それにひきかえ景元(かげもと)はと言えば、すっかり出世第一主義に染まってしまった。それゆえ到底、正容(まさかた)のように天真爛漫に生きることなど出来よう筈(はず)もなかった。
無論、最初から出世第一主義に染まっていたわけではない。だが、権力の階段を昇るうち、いつしか出世第一主義に染まるようになったのだ。
実際、景元(かげもと)は父・景晋(かげみち)と同じ作事奉行を皮切りに、やはり父と同じ勘定奉行を、それも勝手方ではなく、評定所に出席することが許されている公事方の勘定奉行を経て、そして天保11年には旗本ならば誰もが望む江戸町奉行のポストを手に入れたのだ。
しかしそんな…、出世第一主義に染まっていた景元(かげもと)も、念願の江戸町奉行…、北町奉行のポストを手に入れると、急に江戸の町人どものことを考えるようになったのが運の尽(つ)きであった。出世第一主義に染まっていた景元(かげもと)がどうして急に江戸の町人どものことを考えるようになったのかと言うと、それは多分に、「罪滅ぼし」からであった。
罪滅ぼしとは他でもない、忠邦(ただくに)が進める「改革」に対して過激な反対姿勢を貫いていた景元(かげもと)の相役(あいやく)であった南町奉行の矢部(やべ)定謙(さだのり)を罪に陥(おとしい)れた一件である。主に主導したのは忠邦(ただくに)と、次期南町奉行の椅子(いす)を狙っていた目付の鳥居(とりい)耀蔵(ようぞう)、そしてそんな二人に手を貸した同じく目付の榊原(さかきばら)忠職(ただもと)であった。だが景元(かげもと)も消極的ながらも、定謙(さだのり)が有罪だとする判決書に連署してしまったのだから同罪だろう。それゆえ、定謙(さだのり)に対するせめてもの罪滅ぼしの意味もあって、忠邦(ただくに)が進める「改革」に反対するようになったのだが、しかし、定謙(さだのり)のようにあくまで過激に反対することは景元(かげもと)には出来ず、面従(めんじゅう)腹背(ふくはい)の態度を取るのが精一杯であった。景元(かげもと)も決して出世を捨てたわけではなかったからだ。
しかしその面従(めんじゅう)腹背(ふくはい)ぶりが忠邦(ただくに)に嫌われ、結果、念願であった江戸町奉行の職を追われて、大目付に左遷されてしまった。一体、これまでの俺の来(こ)し方は何だったんだ、ただ無意味な時間を過ごしてしまったのではないか…、そう考えると、
「貞坊(さだぼう)が羨(うらや)ましいぜ…」
こんなことなら俺も貞坊(さだぼう)のように生きるんだった…、そう思ったほどである。
その貞坊(さだぼう)、こと内田(うちだ)正容(まさかた)が今、景元(かげもと)の目の前にいた。
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