第27話

 それから貞吉(さだきち)は膝から崩れ落ちそうになったので、金四郎が慌てて抱き留めた。左手で抱き締め、そして右手を貞吉(さだきち)の額に当てると熱を感じた。


「そりゃそうだよな…」


 彫物(ほりもの)を入れる…、この痛みは想像を絶するものがある。大の大人でも泣き出すほどの痛みである。それがまだ14の子供ともなれば尚更(なおさら)であろう。


 そして彫物(ほりもの)を入れ終えた後は熱が出る。金四郎がそうだったので、貞吉(さだきち)の今の体調は良く分かる。金四郎は16の折に桜吹雪の彫物(ほりもの)を入れたのだが、その時も金四郎はやはり、暫(しばら)くの間、微熱に苦しめられた。


 金四郎は貞吉(さだきち)を抱き抱えて畳にいったん寝かせると、蒲団(ふとん)を敷いてそこへ寝かせてやった。


 金四郎は明日には長屋を出る予定であったが、これでは出るに出られない。熱で苦しむ貞吉(さだきち)を一人置いて、長屋を出るなど、そんなひとでなしな真似は金四郎にはできなかった。尤(もっと)も、これは体(てい)の良い「言い訳」に過ぎず、本音は別にあった。


「できることならまだ、貞吉(さだきち)と別れたくねぇ…」


 他ならぬ金四郎自身が屋敷に帰る、つまり、貞吉(さだきち)を見捨てることを選んでおきながら、やはり貞吉(さだきち)とは別れ難(がた)く、それゆえ少しでも貞吉(さだきち)との別れを引きのばしたく、貞吉(さだきち)の看護にかこつけたわけだ。


 それでも貞吉(さだきち)にしてみれば、暫(しばら)くの間だけでも金四郎と過ごせる時間がのびただけで満足したようで、微笑んで見せた。


 それから金四郎はわざわざ長屋まで己を迎えに来た用人の鉄右衛門(てつえもん)に暫(しばら)くはまだ帰ることが出来ないと伝えた。鉄右衛門(てつえもん)は血相(けっそう)を変えたものの、金四郎の意思は変わらず、


「見ての通り、貞坊(さだぼう)が熱出しちまったんだ。だからその看護をしてやらなきゃならねぇんだ」


 金四郎はそう言って譲らなかった。


「看護なぞ…、当家より女中でも差し向けますゆえ…」


「いや、俺自身が看護しなけりゃならねぇんだ」


「それはまた何ゆえに?」


 俺に倣(なら)って彫物(ほりもの)を背負っちまったからだよ、俺と兄弟になりたくて…、金四郎は心の中だけで理由を説明し、口にはしなかった。例え、口にしたところで鉄右衛門(てつえもん)には理解できないだろうと思ったからだ。


「ともかく、俺自身が看護しなけりゃならねぇんだ。もしどうしても駄目(だめ)だっつうんなら、家にはけぇらねぇぞ?」


 金四郎は切り札を出した。一方、鉄右衛門(てつえもん)はここで金四郎に臍(へそ)を曲げられ、家に帰らないとなれば大事であり、それゆえここは折れることにした。金四郎の切り札が効いたようだ。


「さればとりあえず今日のところは引き上げまするが、なれどまこと、貞吉(さだきち)殿のご看病を終え次第、屋敷へお戻り下さいますな?」


 鉄右衛門(てつえもん)はそう念押しした。


「ああ。間違いなく、けぇるから心配(しんぺえ)すんな」


 金四郎はそう言って、強引に鉄右衛門(てつえもん)を引き上げさせた。


 それから金四郎は一週間に渡って貞吉(さだきち)を看病した。熱が中々、ひかなかったのだ。やはり14の体では彫物(ほりもの)は負担が大き過ぎたのであろう。


 そうして熱がひいたのは2月もあと一日で晦日(みそか)を迎えようとしていた時であった。金四郎はきりの良い3月に実家に帰ることにし、晦日(みそか)はすっかり健康を取り戻した貞吉(さだきち)と一緒に過ごすことにした。金四郎は貞吉(さだきち)に行きたいところがあればどこへでも連れてってやると請合(うけあ)った。


「今日が最後だかんな。吉原でもどこへでも連れてってやるぜ」


 今の金四郎には貞吉(さだきち)を引き連れ、登楼(とうろう)するだけの金などなかったが、もし貞吉(さだきち)が望むなら、父・景晋(かげみち)に土下座してでも金を引っ張ってくるつもりであった。


「それじゃあ一つだけ頼みがあんだ」


 貞吉(さだきち)は真剣そのものといった表情を金四郎に向けて来た。金四郎はそれでつい、


「こいつはいよいよ、筆おろしの頼みか…」


 そんなくだらないことを思ったのだが、違った。


「おう、良いぜ。何でも叶(かな)えてやるぜ」


「それじゃあもう一度だけ、俺と手合わせしてくれよ」


 貞吉(さだきち)の頼みに金四郎は、「ああ…」と内心、唸り声を上げた。


「やはり男だなぁ…」


 金四郎はそう思わずにはいられなかった。それでも何でも叶(かな)えてやると口にした手前、嫌だとは言えず、元より、いつかは必要な、「通過儀礼」だとも金四郎は分かっていたので、即座に承諾した。


 金四郎が貞吉(さだきち)と「手合わせ」をすることにしたのはその翌日…、金四郎が実家に帰る前の2月の晦日(みそか)のことであった。やはり最初に二人が「手合わせ」をした場所である河原で再戦することにした。尤(もっと)も、金四郎としては最初から貞吉(さだきち)と本気でやり合うつもりはなかった。あくまで貞吉(さだきち)にやられるためにここまで来たのであった。


 そして河原で金四郎は再び貞吉(さだきち)と対峙(たいじ)すると、構えた。だが金四郎は構えたまま、動こうとはしなかったので、貞吉(さだきち)の方が先に動いた。


 貞吉(さだきち)は金四郎の頬めがけて思い切り、拳を繰り出し、そして金四郎の頬に拳を叩きつけた。まだ少年とは言え、それなりに威力があった。共にドブ浚(さら)いなどの肉体労働で鍛えていただけに、かなりの威力と言えた。それもほぼ無防備な状態で殴られたのだから尚更(なおさら)だ。


「どうして…」


 貞吉(さだきち)は金四郎を殴りつけると、構えたままそう呟(つぶや)いた。


「済まなかったな…」


 金四郎は両腕をだらりと落とす、そう言った。


「ざけんなっ!」


 金四郎の態度は貞吉(さだきち)の怒りに火をつけてしまったらしく、それから貞吉(さだきち)は金四郎に飛びかかった。金四郎はその勢いで後ろへしたたかに押し倒された。幸いに後頭部が落ちた場所は草むらであったので、怪我することはなかった。


 一方、貞吉(さだきち)は金四郎に馬乗りになると、何度も金四郎の頬を殴りつけた。


「何で…」


 貞吉(さだきち)はやがて殴る手を止めた。既にその前から貞吉(さだきち)は落涙しており、殴るのを止め、金四郎から離れた途端(とたん)、大声で泣き出した。金四郎は何とか起き上がると、そんな貞吉(さだきち)を抱き締めてやった。


 これが金四郎と貞吉(さだきち)との別れであった。


 そして金四郎は実家に帰り、晴れてけいと祝言(しゅうげん)を上げ、そして兄・景善(かげよし)が亡くなると、遠山家を継(つ)ぎ、それから旗本としてとんとん拍子(びょうし)に出世して今に至る。


 一方、貞吉(さだきち)はと言えば、金四郎と同様、とりあえず長屋を引き払い、実家である石河(いしこ)家へ戻った。だが貞吉(さだきち)が梅の彫物(ほりもの)を入れたと知るや、父・貞通(さだみち)は大激怒したらしい。それがまともな反応と言えた。


 それに対して貞吉(さだきち)はもう一度、屋敷を飛び出し、二度と屋敷へ帰らないつもりであったらしいのだが、家臣らがそれを押止(おしとど)めたのであった。どうやら父・貞通(さだみち)の命によるものらしい。もしこのまま貞吉(さだきち)を外へ放り出し、本当にヤクザのような生活を送り、最悪、凶状持(きょうじょうもち)にでもなれば石河(いしこ)家が取り潰(つぶ)しの憂(う)き目にあうやも知れず、それを恐れた父・貞通(さだみち)が貞吉(さだきち)を座敷牢に放り込んだのであった。


 こうして本来ならば一生、部屋住(へやずみ)、それも座敷牢暮らしで終わるものと思っていた貞吉(さだきち)であったが、驚くべきことに下総(しもうさ)小見川(おみがわ)藩主の内田(うちだ)近江守(おうみのかみ)正肥(まさもと)の養嗣子として迎えられたのであった。つまり、晴れて大名の跡継ぎの座におさまったのである。旗本の三男坊、それも座敷牢暮らしをしているような男が大名の養嗣子に迎えられるなど、滅多にないことであったが、貞吉(さだきち)はその幸運に恵まれたらしい。どうやら正肥(まさもと)が跡継ぎも残さずに急死したため、このままでは無嗣(むし)断絶、つまりは御家が取り潰(つぶ)されるやも知れず、そうなっては多くの藩士が失業者となり、藩士が抱える一家諸共(いっかもろとも)、路頭(ろとう)に迷うことになる、ということで急遽(きゅうきょ)、急養子を立てようということになったのだが、中々、適当な人物が見つからず、最終的に行き当たったのが、梅の彫物(ほりもの)を背負っている貞吉(さだきち)というわけであった。


 内田家の家臣一同、貞吉(さだきち)が梅の彫物(ほりもの)を背負っていることを承知の上で、定吉(さだきち)を急養子として迎えたらしい。一方、貞吉(さだきち)の実家の石河(いしこ)家にしても、貞吉(さだきち)を漸(ようや)く厄介(やっかい)払い出来るとあって諸手(もろて)を挙げて大歓迎したらしい。そして貞吉(さだきち)は晴れて急養子として内田家の養嗣子の座におさまり、名もそれまでの貞吉(さだきち)から豊録(ほうろく)に改めて、正式に内田家を継(つ)いで大名となったのである。

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